歴史楽者のひとりごと

こんにちは、歴史を楽しむ者のブログです。

長篠の合戦に見る孫子の兵法

前回は、長篠の合戦とアジャンクールの戦いについて考えました。16世紀に日本で起きた戦いと、15世紀にヨーロッパで起きた戦いには、興味深い共通点がありました。 その共通点から、織田信長が長篠の合戦で用いた馬防柵と鉄砲攻撃は、アジャンクールの戦…

長篠の合戦とアジャンクールの戦い

長篠の合戦と言えば、織田信長が馬防柵と大量の鉄砲を使用し武田勝頼の軍勢を破った戦いとして有名です。 一方、アジャンクールの戦いとは、14世紀から15世紀にかけて起きた百年戦争の中でイギリス王ヘンリー5世が率いる7千の軍勢が2万のフランス軍に圧勝…

太田道灌番外編3 道灌死後の関東

文明十八年七月二十六日(1486年)太田道灌は相模国糟屋にある扇谷館で暗殺されました。暗殺の首謀者である扇谷定正は、人望を失い扇谷家から離反する者も数多くいたそうです。 関東管領山内上杉顕定の描いた謀略は見事に成功しました。顕定は自らの手を汚す…

太田道灌番外編2 和歌で城を取り返した武将

亨徳三年十二月(1454年)鎌倉公方足利成氏は、関東管領上杉憲忠を謀殺しました。これより、関東全域を巻き込んだ大戦乱である亨徳の乱が始まります。 亨徳の乱は太田道灌の活躍で終結しますが、およそ30年に渡る戦乱の中では、太田道灌の他にも様々な武将が…

太田道灌番外編1 江戸城はパワースポットで守れ

太田道灌は、徳川家康が江戸幕府を開くよりも百五十年も前に、江戸城を築いた武将です。前回までは、道灌が何故江戸城を築いたのか、その背景を知るために道灌の生涯を追ってきました。 その説明の中では、歴史の流れに沿って主だった出来事を取り上げてきま…

太田道灌は何故暗殺されたのか

前回説明したように、太田道灌が暗殺されたのは、扇谷家の台頭を懸念した関東管領上杉顕定が、扇谷家の勢力を弱体化させるために、扇谷家の要である太田道灌を排除しようとした陰謀によるものでした。 しかし、顕定が道灌暗殺を企てた動機は他にもあると考え…

太田道灌の最期 当方滅亡

文明十七年十月(1485年)太田道灌は美濃の歌人万里集九を江戸城に招き歌会を催しました。長い戦乱が終結し、道灌はひとときの平和を楽しんでいました。 しかし、その裏では暗い陰謀が巡らされていました。関東管領上杉顕定は上杉定正をそそのかして道灌を暗…

長尾景春の乱ー4 終焉

江古田・沼袋の合戦に勝利した後、戦いの主導権を握ったのは太田道灌です。道灌は関東管領の軍勢を率いて、次々と長尾景春の軍勢を撃ち破りました。 まさに、関東管領勢の運命は、道灌が一身に背負っていたのです。道灌の活躍によって文明九年五月(1477年)…

長尾景春の乱ー3 江古田・沼袋の合戦

文明九年四月十三日(1477年)太田道灌は江戸城を出撃しました。目指すのは、豊島泰明がこもる練馬城です。道灌に従うのは、わずか五十騎の騎馬隊。道灌が江戸城内で鍛え抜いたあの精鋭部隊です。 道灌の軍勢は練馬城の前に陣取ると、豊島方を挑発しました。…

長尾景春の乱ー2 道灌ついに動く

長尾景春が挙兵した後、太田道灌は駿河から江戸へ戻っていましたが、江戸城から動きませんでした。上杉顕定が、道灌の献策を取らなかったことに対してへそを曲げていたのです。 しかし、道灌がじっとしていられない事態が起きました。豊島泰経・泰明兄弟が景…

長尾景春の乱ー1 数多くの同調者

山内上杉家の家宰を相続できなかった長尾景春は、上杉顕定に逆心を抱き、謀反を企みます。景春は従兄弟である太田道灌を謀反の仲間に引き込もうとしました。 景春から謀反の企みを打ち明けられた道灌は、一大事と思い、速やかに上杉顕定に事の次第を報告した…

長尾景春の逆心

文明三年三月(1471年)古河公方足利成氏は足利政知を攻撃するため、伊豆に軍勢を派遣しました。堀越公方の危機に際し、関東管領上杉顕定は援軍を出し、古河公方の派遣軍を三島で破りました。 三島での大勝に勢いづいた上杉顕定は、長尾景信に大軍を授け、古…

戦乱の長期化と太田道灌の台頭

長禄二年(1458年)足利政知が伊豆に居を定め堀越公方となりましたが、亨徳の乱はいっこうに終わりが見えませんでした。 関東各地では戦乱が繰り広げられていました。その多くは、武将同士の領地争いや家督相続争いでした。争っている一方が古河公方の支援を…

堀越公方 足利ブランドの凋落

太田道灌が江戸城を完成させた長禄元年(1457年)室町幕府は新たな手を打ってきます。将軍足利義政の弟を還俗させて新たな鎌倉公方とし、関東に送り込もうというのです。 新たな鎌倉公方となったのは、義政の弟で天龍寺の僧籍に入っている香厳院殿でした。香…

古河公方の誕生と江戸城完成

亨徳三年十二月(1454年)鎌倉公方足利成氏は関東管領上杉憲忠を鎌倉で謀殺、ついに亨徳の乱が始まりました。島ヶ原の合戦、分倍河原の合戦で敗れた上杉勢は、上杉憲顕、上杉顕房など大将格の武将を失い、常陸国へ敗走し小栗城へたてこもりました。 序盤の勝…

亨徳の乱勃発 分倍河原の合戦

江ノ島合戦の後、鎌倉公方と関東管領の和議は成立しましたが、両陣営の対立は深まるばかりでした。領地を失った武将の中には、勝手に他人の領地を奪う者が続出し、関東では領地争いが絶えませんでした。。 鎌倉公方の足利成氏は室町幕府から権力の制限を受け…

江ノ島合戦

宝徳元年(1449年)、足利成氏は五代鎌倉公方に就任しました。鎌倉公方を補佐する関東管領には、山内上杉家の家督を継いだ上杉憲忠が就きます。しかし、これは誰がみても危険な人事です。成氏にとって、憲忠は親の敵の息子です。両者の関係が険悪になるのは…

鎌倉公方の不在

前回までは、永亨の乱と結城合戦について話してきました。やや長い説明になりましたが、亨徳の乱を理解するためには省略することのできない出来事でした。 結城合戦の後、関東では鎌倉公方が不在になりました。そのため、関東には不穏な空気が漂います。坂東…

鎌倉公方家の悲劇(結城合戦)

永亨の乱は足利持氏の自害で終わりました。しかし、持氏の子供たちにはさらなる悲劇が待っていたのです。持氏の嫡男義久は持氏と時を同じくして自害していましたが、窮地を脱した子供たちがいたのです。春王丸と安王丸の兄弟は常陸国へ逃れました。また後に…

足利持氏の反乱(永亨の乱)

正長二年(1429年)足利義教が六代室町将軍に就任しました。将軍になるという足利持氏の野望はついえたのです。しかし、室町幕府から徹底的に無視された持氏の怒りは収まるはずがありません。次第に持氏は室町幕府に敵対するようになってきました。 持氏の暴…

足利持氏とくじ引き将軍

鎌倉公方と関東管領の対立が激化したのは四代鎌倉公方足利持氏の時でした。応永十七年(1410年)足利持氏が四代鎌倉公方に就きました。この人は大変な自信家でした。「いつか室町将軍になり天下に号令するのだ」という野望を抱いていたのです。 しかし、現実…

鎌倉公方と関東管領の対立

前回までは、品川湊の風景と題して三回に渡って現代に残る品川湊の痕跡を点描してきました。みなさんも機会があれば是非一度訪ねてみて下さい。 さて、ここらで再び太田道灌の時代に戻ります。長禄元年(1457年)道灌は江戸城を築きました。徳川家康が江戸幕…

品川湊の風景ー3 海にまつわる伝説の地

品川湊一帯は古来から人々の暮らしがあったところです。人々は海とともに生きてきました。そこには海にまつわる伝説が伝えられています。太田道灌の時代からは、かなり離れますが、この地に伝わる悲しい伝説を紹介します。 八ッ山通りよりひとつ東側の路地に…

品川湊の風景ー2 河口の痕跡

かつての品川湊はどのようなところだったのでしょうか。その痕跡は現在の東京に残っています。 地図を見ると、京急「新馬場」駅の南側を目黒川が流れています。川は東へ流れ東京湾に注いでいます。 しかし、かつての目黒川は現在の新品川橋のところで北へ蛇…

品川湊の風景ー1 天妙国寺

鈴木道胤の手がける商売は多岐にわたっていました。海運業を手始めに、倉庫業、貸金業などを営み莫大な利益をあげていたのです。 道胤などの大商人は、獲得した富を盛んに寺社に寄進しました。このような人々を有徳人と呼びます。彼らは商売繁盛と海上交通安…

品川湊の商人

太田道灌には経済戦略を手助けしてくれるパートナーがいました。それが商人の鈴木道胤です。 道胤の鈴木家はもともと熊野の出身であるといわれています。西国の産物を海路で関東に運び、売りさばくことで莫大な富を稼いでいたのです。 太田道灌は鈴木道胤と…

道灌はファンドマネージャー!?

享徳の乱の勃発が太田道灌に活躍の機会を与えました。ただし、道灌の置かれたた立場は、関東管領の傘下にいる扇谷上杉家の家宰として主人の命令に忠実に従うというものでしかありませんでした。 荘園への介入 江戸城築城後、道灌は扇谷上杉家の勢力を南関東…

太田道灌とはどんな人だったのか

太田道灌の人物像を話す前に、この時代における関東の支配体制を説明します。関東の頂点に立つのは鎌倉公方です。これは足利尊氏が室町幕府を創設した時に、関東十カ国(上総、下総、安房、上野、下野、武蔵、相模、常陸、伊豆、甲斐)を支配するために作っ…

道灌が築いた江戸城とはどんな城だったのか

太田道灌が築いた江戸城とはどんな城だったのでしょうか?それを知る手がかりは道灌と同時代に生きた京五山の僧侶や文化人が書いた詩文に残されています。 その中の一つに室町時代の禅僧にして歌人の万里集九の手による詩文「静勝軒銘並序」があります。 そ…

江戸城を築いた武将 太田道灌

長禄元年(1457年)太田道灌が江戸城を築きました。家康が江戸幕府を開く約150年前のことです。城の場所は現在の皇居東御苑のあたりです。その当時このあたりは日比谷の入江という浅い海に面した場所でした。上から見ると矢じりのような形をした台地が海に突…