歴史楽者のひとりごと

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戦乱の長期化と太田道灌の台頭

 長禄二年(1458年)足利政知が伊豆に居を定め堀越公方となりましたが、亨徳の乱はいっこうに終わりが見えませんでした。
 関東各地では戦乱が繰り広げられていました。その多くは、武将同士の領地争いや家督相続争いでした。争っている一方が古河公方の支援を受ければ、他方は関東管領に助勢を頼むという展開です。つまり、「敵の敵は味方」という発想で古河公方勢と関東管領勢に分かれて戦っていたのです。
 また、寝返りや裏切りも横行しました。両陣営とも、領地を与えることを餌にして敵方の有力者を引き抜こうとしました。
 「古河公方に味方するのが俺の信念だ」とか「関東管領にこそ大儀がある」などという発想で戦っている武将はほとんどいなかったと思われます。この様相は、京都で起きる「応仁の乱」と同じですね。
 しがって、戦いを終わらせる着地点がなかなか見えず、戦乱は長期化するのです。
 長引く戦乱のなかで、上杉勢の首脳陣に死者が相次ぎます。寛正四年(1463年)山内上杉家の家宰である長尾景仲が死にました。
 寛正七年(1466年)には、関東管領上杉房顕が急死しました。32歳の若さでした。関東管領の跡を継いだのは、上杉顕定ですが、まだ13歳の少年でした。
 さらに、応仁元年(1467年)関東副管領に就いていた上杉持朝も52歳で死亡します。これまで、陰の実力者として関東管領勢を支えてきた持朝の死は大きな痛手でした。持朝の死後、扇谷上杉家家督を継いだのは、16歳の上杉政真でした。
 相次ぐ重鎮の死で、その存在に重みを増してきたのが太田道灌です。優れた戦略眼を持つ道灌が、この後、関東管領勢のリーダーとして活躍するようになるのです。
 そのころ、京都では畠山氏の家督相続争いが発端となり「応仁の乱」が起こりました。ついに日本の東西で大戦乱が起きたのです。