鎌倉公方とはいったいどんな存在であったのか、私は好奇心に駆られてその実像を調べました。おもしろいことに、鎌倉公方の歴史を調べることは、関東の視点から室町時代を考えるということにつながっていきました。さらに、想定外の非常事態に直面したことが…
皆さんは「妖刀村正」をご存じでしょうか。刀女子や刀大好きなオジサンなら知っていてあたりまえですが、歴史は好きだけど日本刀はあまり興味ないという方も是非ご一読下さい。 日本刀には数々の名刀があり、今日でも歴史に縁のある名刀が博物館に所蔵されて…
上杉禅秀の乱終結後の関東 1417年1月上杉禅秀の乱は終結しました。無事に鎌倉へ戻ることのできた足利持氏は、反乱に加担した者たちへの討伐に着手しました。この年持氏は、上野国の岩松満純、甲斐国の武田信満を討伐しました。彼らは上杉禅秀の乱に加担した…
満兼の死後、その跡を継いで四代鎌倉公方に就いたのは満兼の嫡男幸王丸でした。関東足利家は初代鎌倉公方基氏の尽力によって関東を平定し、その後二代氏満、三代満兼と安定した政権を確立し関東を支配してきました。ところが、四代幸王丸(元服後は持氏)が鎌…
1398年足利氏満は、病で亡くなりました。享年40才です。両上杉の管領に支えられた氏満は、関東の支配体制を充実させ、鎌倉公方を関東の将軍ともいえる立場へ押し上げたのです。氏満の跡を継ぎ三代鎌倉公方の座に就いたのは、氏満の嫡男である満兼でした。初…
1367年に急死した足利基氏の跡を継いで二代鎌倉公方の座に就いたのは、基氏の嫡男氏満でしたが、この時まだ9歳でした。幼い関東公方にとって幸いだったのは、父基氏が命を懸けて関東平定に邁進したことで、氏満の代になると関東の軍事情勢が落ち着いていたこ…
基氏の跡を継ぎ二代鎌倉公方の座に就いたのは、基氏の嫡男である氏満でした。このとき氏満はまだ9歳でしたが、京都の将軍義詮は氏満が鎌倉公方を継承することを容認したのです。この事実によって、鎌倉公方は足利基氏の子孫が代々世襲していくことになるので…
新田義興の暗殺 1358年足利尊氏は京都で他界しました。享年54歳でした。尊氏が亡くなると南朝方の動きが再び活発になりました。尊氏に敗れ越後へ逃れていた新田義興が、再び関東へ攻め込む準備を始めたのです。義興が攻め込んでくることを恐れた鎌倉公方足利…
前回のお話で、ようやく初代鎌倉公方足利基氏が登場するところまでたどり着きました。少し遠回りをしましたが、鎌倉公方がいかなるものであるのかを知るためには避けては通れない道なのです。歴史を学ぶことは、暗記ではなく過去の壮大な物語を理解すること…
1343年千寿王は元服し足利義詮と名乗りました。鎌倉の主である義詮は、足利政権の関東方面軍司令官として関東十ヵ国ににらみをきかしていました。本来ならば、足利義詮こそが初代鎌倉公方と呼ばれるべきですが、義詮はこの後京へ上り、父足利尊氏の跡を継い…
1333年鎌倉幕府は滅亡しました。北条氏がいなくなった鎌倉を占拠したのは、足利尊氏の嫡男千寿王を旗頭とする足利の軍勢でした。鎌倉幕府を倒した最大の功労者である新田義貞が京都の後醍醐天皇に拝謁しに行った隙をついて、足利氏は易々と源氏の聖地である…
1336年湊川の合戦で宿敵楠木正成を倒した足利尊氏は、武家政権を樹立する目的で建武式目を定めました。建武式目において、尊氏は京都に幕府を開くことを明らかにし、鎌倉には関東十ヵ国(相模、武蔵、上総、下総、上野、下野、常陸、安房の関東八ヵ国に加えて…
2019年5月1日に新天皇が即位され、元号が令和に改められました。新しい時代の幕が開き、日本国内は祝賀ムードに包まれ、人々の心には新しい時代への夢や希望がふくらんでいます。 今から151年前の1868年9月、時の政府は元号を明治に改めました。そして、改元…
平成31年4月30日は天皇が退位される日です。天皇が退位されるのは約200年ぶりとのことで、5月1日には新天皇が即位され令和という新しい時代が始まります。 そこで、日本の歴史の節目にあたり、歴史と天皇の関わりについて考えてみました。 まず、…
先日天文学の世界で大きなニュースがありました。人類はついにブラックホールの撮影に成功したのです。南米やハワイなどの電波望遠鏡をつないで地球規模の観測装置(イベント ホライズン テレスコープ)を作りブラックホールを撮影することができたのです。…
先日、平成に代わる新しい元号が決定されました。「令和」です。万葉集の梅花の歌の序文「初春の令月にして気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす」が出典だということです。 私は、この万葉集の序文の説明によって「令」という字に「縁起…
2019年3月21日偉大なメジャーリーガーイチローが引退しました。メジャーリーグに挑戦した天才打者イチローは、打撃成績において次々とMLBの記録を塗り替えました。イチローの活躍は日本人はもとよりアメリカの野球ファンにも多くの感銘を与えたと思います…
源義家は「天下第一の武勇の士」と呼ばれましたが、その息子たちには義家ほどの逸材がいなかったようです。 義家の嫡男義親は対馬守に就いていたのですが、康和三年(1101年)九州で乱行を働いたため隠岐へ配流されます。その後の嘉承二年(1107年)に隠岐を…
前回取り上げた源義綱は、歴史の教科書には登場しない人物であり、私もよく知らない人物でした。しかし、義綱のことを調べてみると、大変興味深い人物であることがわかってきました。そこで、今回も義綱の話をします。このような歴史の片隅に埋もれた人物に…
源義家が八幡太郎と呼ばれたのは、石清水八幡で元服したからです。義家の二人の弟も通称で呼ばれました。次男義綱は賀茂神社で元服したので賀茂次郎と呼ばれ、三男義光は新羅明神で元服したので新羅三郎と呼ばれました。 二人のうち新羅三郎義光が甲斐武田氏…
前回の記事で、源頼義に平直方の娘が嫁いだという話をしました。この婚姻は、清和源氏にとって非常に重要な出来事です。 平直方は桓武平氏中興の祖である平貞盛の孫であり、坂東に根を広げた貞盛の流れをくむ平氏一族の中心的存在でした。直方は平忠常の乱の…
平忠常の乱を鎮圧した源頼信は、その後、美濃、相模、河内の国司を歴任し、晩年を河内国で過ごしました。そのため、頼信の子孫たちは河内源氏と呼ばれるようになったのです。 頼信の跡を継いだのは長男の頼義です。頼義もまた父親に劣らぬ「つわもの」であり…
前回は今昔物語集のなかから「源頼信朝臣、平忠恒を責むること」という話を紹介しましたが、ここでいくつか補足しておきます。 まず「平忠恒」という表記は今昔物語集の表記です。高校日本史の教科書である「山川出版社」の「詳説 日本史」では「平忠常」と…
「歴史楽者のひとりごと」をご覧の皆様、あけましておめでとうございます。 旧年中は数多くのアクセスを頂きありがとうございました。今年も歴史を楽しめるブログを作っていきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。 今回のシリーズでは、「坂東…
清和源氏の始祖は清和天皇の曾孫にあたる源経基です。天慶二年(939年)経基は国司補佐(武蔵介)として武蔵国に赴いていました。ちょうどその頃坂東では、平将門が勢力を拡大し常陸国を拠点にして各地を荒らし回っていました。 ある時、武蔵国で豪族同士が…
898年桓武天皇の曾孫にあたる高望王が平朝臣の姓を賜り臣籍降下し、関東へ下向しました。これが桓武平氏の始まりです。 日本史の教科書に記載されている桓武平氏の系図では、高望王の息子として三人の名前が載ってる例が多いと思います。その三人とは国香、…
古代の英雄ヤマトタケルは東方遠征を果たした後、足柄峠(あるいは碓氷峠)の頂に立ち、東方を眺めて、亡き妻オトタチバナヒメへの想いを込めて三度嘆き「あづまはや」とつぶやいたそうです。 この故事にちなみ、足柄峠(あるいは碓氷峠)の坂より東の国々を…
775年に起きた天空の異変は、歴史と天文学のコラボレーションによってその謎が解明されました。 さらに、日本の古文書には宇宙で起きた天文現象を記録したものがあり、天文学の世界で大きな注目を浴びました。 その古文書とは、鎌倉時代に活躍した歌人の藤原…
西暦775年、太陽表面で巨大な爆発が起きました。スーパーフレアと呼ばれる現象です。爆発に伴って大量の高エネルギー粒子が宇宙空間に放出されました。地球へ飛来した高エネルギー粒子は、地球磁場に捕らえられ、大気分子と衝突して発光します。その光がオー…
歴史を楽しむ者のブログ、今回のテーマは歴史と天文学のコラボレーションです。 西暦775年(宝亀六年)天空に大異変が起きました。地球に大量の宇宙線が降り注いだというのです。ヨーロッパや中国の古い書物には、この天空の大異変の事を記したと思われる記…