歴史楽者のひとりごと

こんにちは、歴史を楽しむ者のブログです。

関ヶ原の合戦で家康が桃配山に本陣を置いたのは何故か?

 慶長五年(1600)九月十五日、関ヶ原で天下分け目の大合戦が起こりました。この時、東軍を率いる徳川家康が本陣を置いたのは、桃配山と呼ばれる山の中腹でした。桃配山は関ヶ原の東端に位置し、眺望がきく高台で関ヶ原での戦況をつぶさに見ることができる場所でした。また、桃配山は、毛利秀元吉川広家の軍勢が陣取る南宮山と小早川秀秋の軍勢が陣取る松尾山の中間に位置し尾根伝いに両方の陣地に連絡の取れる場所でした。家康が関ヶ原の合戦で勝利を得るためには、毛利や小早川が東軍に寝返ることが何としても必要でした。家康は毛利や小早川の動きに睨みをきかすためにも、この場所に本陣を置く必要があったのです。まさに、桃配山は天下分け目の一大決戦において東軍を指揮する家康にとって絶好の場所であったのです。

 しかし、家康が天下分け目の大合戦において、桃配山に本陣を置いたのは、そのほかにも大切な理由があったのです。この桃配山という一風変わった名前の山には、古代の英雄「大海人皇子」にまつわる伝説が残っていました。大海人皇子は672年に起こった古代における天下分け目の戦い「壬申の乱」に勝利したのち、天武天皇となって日本で初めて天皇を中心とした中央集権体制を築いた人物です。大海人皇子は、戦いの前に美濃国不破の関に近い桃配山に東国で動員した兵士を集め、全員に桃を配って勝利を祈願したという伝説が残っていたのです。古代、桃は神聖な果物で邪気をはらうと信じらていました。関ヶ原一帯では、人々のあいだでこの伝説が語り継がれ、桃配山という山の名前の由来になっていました。家康はこの伝説にあやかり、自分自身を大海人皇子になぞらえて天下分け目の合戦に勝利するのだという強い決意を持っていたのです。

 

 関ヶ原の合戦のきっかけを作ったのは、石田三成でした。三成は家康が上杉景勝を征伐するために会津へ遠征している隙をついて大坂で挙兵しました。家康は三成が挙兵したとの報告を受けると会津への進軍を停止し下野国の小山で軍議を開きました。

 この軍議において、家康は会津遠征軍に参加している大名たちに、このまま会津征伐を続けるべきか、または大坂へ向かい石田三成を征伐すべきかを問いかけました。この問いかけに対し、福島正則黒田長政細川忠興など豊臣恩顧の諸大名は、石田三成を討伐することを選択しました。三成は同じ豊臣恩顧の大名でありながらも、福島正則たちから嫌われ敵とみなされていたのです。

 三成を討伐することとなった東軍の諸大名は、家康に先行して西へ向かいました。家康は江戸に留まり、福島正則など豊臣恩顧の諸大名たちの動向を注視していました。家康は、正則など上方の武将たちが間違いなく石田三成と対決するという確信を得るまでは江戸を動くつもりがなかったのです。そして、江戸から西軍の諸将たちに書状を送り寝返り工作を行っていたのです。

 小山で軍議が開かれてからおよそ一月後の八月二十三日、東軍は織田秀信が籠城する岐阜城を攻撃しました。この織田秀信織田信長の孫であり、かつて清須会議羽柴秀吉に抱かれていた三法師です。織田秀信石田三成から美濃、尾張二か国を領国として差し出すとの誘いを受けて西軍に味方していたのですが、岐阜城は東軍の猛攻を受け落城しました。東軍に降伏した秀信は、城を出て剃髪し仏門に入ったということです。岐阜城陥落の知らせを受けた家康は、ようやく上方諸大名を信用するに至り、九月一日に三万二千の軍勢を率いて江戸を発進しました。

 一方、石田三成らの西軍は、豊臣秀頼を擁した毛利輝元が大将となって大坂城に陣取りました。石田三成宇喜多秀家などの主力部隊は大垣城に入り、西上してくる東軍を美濃で迎撃する体制を整えていました。

 岐阜城を撃破し意気上がる東軍は、大垣城を攻めるため美濃国赤坂に集結し家康の到着を待っていました。実は、この間に西軍が東軍を攻撃するチャンスがあったのですが、戦場の経験が乏しく軍事司令官としの才能に劣った石田三成は、戦機を読むことができずいたずらに時を過ごしていたのです。

 九月十四日、家康はついに美濃赤坂に到着しました。家康は岡山という所に陣所を構え軍議を開きました。この軍議の席上で家康は、西軍主力を大垣城から野戦へ誘い出すため、三成の居城である佐和山城へ攻撃仕掛けるように見せかける陽動作戦を取ることを決定しました。

 三成は、まんまと家康の陽動作戦に乗せられ、西軍主力を関ヶ原へ進出させたのです。実は、この時にも西軍が勝利を得るチャンスがありました。薩摩勢を率いる島津義弘は、三成に九月十四日の夜に家康本陣を襲撃することを提案したのです。この時、三成が勇猛果敢な島津勢に夜襲を任せていれば、家康の運命は変わっていたかもしれません。

 しかし、この時も三成は大軍勢による決戦を主張し、島津の提案を退けたのです島津義弘は、朝鮮の役でも数々の武功を挙げ、明・朝鮮軍からも「鬼島津」として恐れられていた当代きっての名将でした。こともあろうに、石田三成はその名将の提案を断ってしまったのです。島津義弘は誇りを傷つけられ、西軍として戦うことを止め戦場から離脱することを決意しました。三成は、島津の提案を退けたことで、家康を討つ機会を逃すと同時に島津勢という百選錬磨の味方を失ってしまったのです。

 九月十五日早朝、家康は満を持して関ヶ原へ軍を進め桃配山に本陣を置きました。両軍合わせて十五万の軍勢が関ヶ原で決戦の火蓋を切ろうとしていました。三成と異なり、家康は思いつく限りの手を打って決戦に備えていました。それでも満足できずに、英雄伝説にあやかり勝利を目指していたのです。

 

 一見すると、家康の行動は、縁起担ぎをしているだけかのように思えます。しかし、家康の行動は、歴史を深く学んだ者が人生最大の舞台で歴史から得た知識を活用する姿なのです。

 古来、歴史上の英雄たちは、歴史を学んで勝利の道を切り開いてきたのです。古代中国において秦の始皇帝が亡くなった後に争ったのは項羽と劉邦です。軍事力では項羽の楚軍が圧倒的に優れていましたが、項羽は垓下の戦いで敗れ、勝者となった劉邦漢王朝を開いたのです。項羽の軍師范増は、「項羽は歴史を学ばないのが欠点だ」と彼の弱点を見抜いていました。

 どんなに力が優れていても、その力を活かす知恵・知識がなければ最終的な勝者にはなれないのです。桃配山に本陣を置いた家康は、歴史を学び人事を尽くして天命を待っていたのです。

 

 次回は、古代の天下分け目の戦い「壬申の乱」についてお話します。

 

 今回参考にした文献は下記の通りです。

「戦国軍師の合戦術」 大和田 哲男 新潮文庫

「乾坤の夢」 津本 陽 文芸春秋

「楚漢名臣列伝」 宮城谷 昌光 文春文庫