歴史楽者のひとりごと

こんにちは、歴史を楽しむ者のブログです。

2021-01-01から1年間の記事一覧

関東の戦国武将たち 太田道灌の子孫 太田康資(やすすけ)

文明十八年(1486年)七月二十六日、太田道灌は相模国にある扇谷氏の本拠地糟屋館で扇谷定正によって暗殺されました。この時、道灌の嫡子資康は江戸城にいましたが、父が殺されたとの知らせを受けて江戸城を脱出し甲斐へ逃れました。その後、資康は山内上杉…

関東の戦国 上杉憲政の越後逃亡と室町時代の終焉

天文十五年(1546年)四月、北条氏康は河越夜合戦において関東管領上杉憲政と古河公方足利晴氏の率いた八万五千騎の大軍勢と戦い、わずか十分の一の戦力でこれを打ち破りました。この関東戦国時代の歴史に残る奇跡的な大勝利は、北条氏康の立場を一気に飛躍…

関東の戦国 河越夜合戦と福島綱成・勝広兄弟の活躍

天文十五年(1546年)四月、関東の戦国史に残る大きな合戦が起きました。総勢十万人に近い軍勢が戦った大合戦です。この合戦は河越夜合戦と呼ばれています。もしも、関東の戦国時代が日本史の本流になっていれば、この合戦は桶狭間の合戦や長篠の合戦と同じ…

関東の戦国 鉄砲伝来以前、最強の戦国武将は北条氏綱

関東の戦国時代は、明応二年(1493年)に伊勢宗瑞が伊豆の堀越公方足利茶々丸を襲撃したことから始まりました。宗瑞が堀越公方を襲撃したのは、同じ年に京都で細川政元が起こした明応の政変というクーデターと連動した「かたき討ち」でした。このかたき討ち…

関東の戦国 北条氏綱の侵略を正当化させてしまった関東足利氏の争い「下総国相模台合戦」

天文六年(1537年)七月、北条氏綱は扇谷朝定の本拠地である河越城を攻略しました。翌天文七年二月に氏綱は、扇谷家の家臣大石氏が守る葛西城(東京都葛飾区)を落城させ、さらに太田資正の居城である岩付城(さいたま市岩槻区)を攻撃し城の周辺を焼き討ち…

関東の戦国 北条氏綱の武蔵国制覇と扇谷上杉氏の滅亡

天文六年(1537年)四月、扇谷朝興が河越城で病死しました。朝興は北条氏綱に江戸城を奪われた屈辱を晴らすため、その生涯を氏綱を倒すことに費やしたのですが、つにに氏綱を倒すことは叶わず、鬼籍に入ったのでした。 朝興の死後、扇谷上杉家の家督を継いだ…

関東の戦国 北条氏綱包囲網

大永四年(1524年)正月、江戸城を奪取した北条氏綱は、瞬く間に武蔵国を席捲し岩付城、蕨城、入間郡の毛呂城、石戸城など扇谷勢の城を次々と攻略していきました。 北条氏綱に一方的に押されていた扇谷朝興は、上杉憲房や甲斐の武田信虎と連携して態勢の立て…