歴史楽者のひとりごと

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関東の戦国 北条氏綱包囲網

 大永四年(1524年)正月、江戸城を奪取した北条氏綱は、瞬く間に武蔵国を席捲し岩付城、蕨城、入間郡の毛呂城、石戸城など扇谷勢の城を次々と攻略していきました。

 北条氏綱に一方的に押されていた扇谷朝興は、上杉憲房や甲斐の武田信虎と連携して態勢の立て直しを図り、同年七月に岩付城を取り返しました。関東管領上杉憲房は同年十月に上野の軍勢を率いて武蔵へ進出し、北条の手に落ちていた毛呂城へ攻撃を仕掛けました。

 北条氏綱は毛呂城を救援するため江戸城から軍勢を率いて発進しましたが、武田信虎相模国津久井郡へ侵入してきたので、その方面への対応を迫られました。そのため氏綱は上杉憲房と和睦し毛呂城を返還したのです。

 これを契機に一気に氏綱を倒そうと考えた上杉憲房は、北条氏綱と手を結んでいた真里谷の武田恕鑑を上杉方へ寝返らせることに成功し、さらに小弓公方足利義明安房の里見義豊をも味方に引き込みました。

 こうして、相模国武蔵国南部を支配する北条氏綱に対して、上野国の上杉、武蔵国北部の扇谷、下総国小弓公方上総国の真里谷武田、安房の里見、甲斐国武田信虎によって北条氏綱包囲網が形成されたのです。

 

 この状況は、何かに似ていると思いませんか?そうです、元亀年間(1570年~1572年)に形成された織田信長包囲網にそっくりなのです。織田信長は永禄十一年(1568年)に足利義昭を奉じて入京を果たしましたが、その後将軍義昭と対立し、義昭と連携した浅井、朝倉、石山本願寺と一向門徒宗によって形成された織田信長包囲網に苦しみました。

 戦国時代に日本の東西で北条や織田のような新興勢力が台頭し、古い秩序を破壊して新しい時代を切り開こうとしていたのです。既得権を奪われた旧勢力は、こうした新興勢力に対して連携して包囲網も形成し対抗しようとしたのです。

 いつの世にも、出る杭は打たれる、新参者は排除される、これは世の常なのです。現代においても新興企業が台頭してくると、旧勢力の企業が連携して市場シェアを守るために対抗策を打ち出してきます。

 しかし、新興企業も黙ってはいません。彼らには時代の波に乗った勢いがあります。旧勢力には無い新しい感覚や思考を持っています。その新しさは、時代が求めているものなのです。そして、いくつかの新興企業は、そのような包囲網を打ち破り巨大企業へと成長していくのです。さて、北条氏綱は、この包囲網を打ち破ることができたのでしょうか?

 

 大永五年(1525年)三月、上杉憲房は、北条氏綱を倒すという宿願を成就する前にこの世を去りましたが、その後も憲房が築いた北条氏綱包囲網は機能していました。大永六年(1526年)五月下旬、扇谷朝興、小弓公方足利義明、里見義豊は、北条方の武蔵蕨城を攻撃しこの城を攻略しました。同年九月、上杉憲房の跡を継いで関東管領に就いた上杉憲広と扇谷朝興は多摩川南岸にある小沢城を攻め落としました。

 さらに、安房の里見義豊は、扇谷朝興の小沢城攻めと時を合わせて鎌倉を攻撃したのです。同年十二月里見義豊は数百艘の軍船を集結させて江戸湾を渡り鎌倉へ押し寄せたのです。上陸した里見の軍兵は寺社や家々に乱入し略奪の限りを尽くしました。

 この知らせを聞いた北条氏綱は激怒し「里見は源氏で八幡宮の氏人であるから、本来ならば礼儀を心得て寄進すべきところを、神罰をも顧みずこのような乱暴狼藉をはたらくとは前代未聞のことだ。このようなやつらは、徹底的にこらしめて後世の悪習を絶つ見せしめにしなければならない。」と言ったそうです。そして速やかに軍勢を集めると鎌倉へ向かったのです。

 北条氏綱の軍勢は鎌倉を包囲し四方から里見の軍勢を攻めました。略奪に夢中になっていた里見の軍勢は応戦する態勢を整えることができず、大将格の一人である里見左近大夫が討ち取られました。敗れた里見勢は、早々に船で退却していったということです。この鎌倉での勝利をきっかけに、北条氏綱は攻勢に転じました。

 

 享禄三年(1530年)六月、扇谷朝興は、難波田弾正少弼、上田蔵人に命じて五百騎の軍勢を多摩川沿いの小沢原(神奈川県川崎市多摩区)へ進出させました。これは、扇谷朝興が小田原城を攻撃するための布石でした。この動きを察知した北条氏綱は嫡男氏康の軍勢を小沢原へ向かわせました。

 当年16歳の北条氏康は、父親に勝るとも劣らぬ優れた容姿と品格を備えており、人並み以上の腕力があり武芸にも優れており、やがて関東一の戦国大名となる大器でした。氏康に従う若武者も、晴の舞台を飾ろうと意気盛んで、氏康の軍勢は小勢ながらも戦意旺盛でした。

 数で劣っていた氏康の軍勢は、小沢原に着陣するや矢戦をすると見せかけて、抜刀して敵陣へ一気に切り込みをかけました。氏康勢は縦横無尽に敵陣を駆け回り次々と敵を切り倒したということです。息の合った若武者たちの組織的な攻撃に対して、扇谷勢は息が合わずばらばらに応戦し翻弄され続けました。劣勢に陥った扇谷勢は、夜になると敗色が濃厚になり河越城へ撤退したということです。北条氏康は、扇谷勢の大軍を小沢原の合戦で見事に打ち破り、晴の初陣を飾ることができたのです。恐れを知らぬ若武者たちの斬新な戦い方は、まさに新興勢力ならではのものでした。

 

  こうして、一時は包囲網の前に苦境に立たされていた北条氏綱ですが、嫡男氏康の活躍もあって息を吹き返したのです。さらに、北条包囲網を形成していた里見や真里谷武田に足並みの乱れが生じていました。

 安房を支配する里見義豊は、叔父の里見実堯の動きに警戒していました。実堯は北条の支援を受け里見家の家督を奪おうとしていたのです。天文二年(1533年)七月、里見義豊は先手を打ち、実堯とその家臣である正木大膳大夫を稲村城(千葉県館山市)に招いて誅殺しました。

 これに対して、実堯の遺児里見義堯は西上総の百首城(千葉県富津市)に籠城し、北条氏綱に援軍を要請したのです。この要請に応じた氏綱は水軍を派遣しました。里見義豊が海に面した妙本寺要害(千葉県鋸南町)に陣を構えていたからです。北条の水軍と里見義堯、正木大膳大夫の遺児時茂と時忠の兄弟は連携して妙本寺要害を攻撃し義豊軍を破りました。

 敗れた里見義豊は、真里谷武田氏のもとへ逃れていきました。翌天文三年、真里谷武田氏の支援を受けた里見義豊は反撃を試みましたが、里見義堯、正木時忠の軍勢に敗れ討ち死にしました。義豊の首は小田原へ送られたということです。

 さらに、天文三年七月には真里谷武田恕鑑が亡くなると、嫡男信応と妾腹の信隆との間に家督相続争いが起きました。小弓公方足利義明は、嫡男信応の家督相続を認めましたが、この決定に不服を抱いた信隆は、北条氏綱の支援を求め信応に対抗したのです。

 こうして、北条氏綱包囲網は、里見氏と真里谷武田氏の内部分裂によって崩壊しました。危機を乗り越えた北条氏綱は、関東の覇権を掴むため更なる攻勢に出るのです。

 

今回参考にした文献

 関東戦国史(全) 千野原靖方 崙書房出版

 原本現代訳 小田原北条記(上) 江西逸志子原著 岸正尚訳 ニュートンプレス