歴史楽者のひとりごと

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信長がくる前の京都 三好長慶の天下

 明応2年(1493)細川政元が起こした「明応の政変」こそは、日本を戦国時代に突入させた真の引き金でした。政元は京都でクーデターを起こし、将軍の首をすげ替えたのです。将軍の首をすげ替えることさえ可能な細川京兆家の絶大な権力を巡り、政元の3人の養子が後継者争いを始めました。その苛烈な争いは、二分した足利将軍家の争いと絡み合い果てしない戦乱の世、すなわち戦国時代を出現させたのです。この乱世の中で阿波細川家の被官にすぎなかった三好一族が台頭し、やがて三好長慶が天下を支配する時代がくるのです。信長がくる前の京都ではいったい何が起きていたのでしょうか?今回もこの謎に迫っていきます。

 

 戦国時代の三好氏は阿波守護細川家につかえており、阿波西部三郡の守護代を務める家柄でした。三好長慶の曽祖父である之長は、守護代三好家の傍流にすぎませんでしたが、軍事的才能を高く評価され阿波守護細川家当主の側近となっていました。

 阿波守護家の御曹司である細川澄元は、細川京兆家の惣領である細川政元の養子となりその後継者候補の一人でした。細川京兆家の惣領とは、八か国の守護を独占する細川一族の総帥であり、その絶大な権力を背景に足利将軍を裏で操る真の支配者でした。

 しかし、細川澄元は京兆家の家督を巡る争いでライバルの細川高国に敗れ、都落ちして阿波にひっそくしていたのです。阿波細川家に仕える三好之長は、澄元の宿敵細川高国を倒し、阿波名門の御曹司に天下を取らせることを宿願としていたのです。

 永正16年(1519)細川澄元に天下取りのチャンスがおとずれました。そのころ京の都を支配していたのは将軍足利義稙(よしたね)と細川高国で、この二人を軍事力で支えていたのが周防の太守大内義興でした。その大内義興が前年に都を去り、義稙・高国政権の軍事力は低下していたのです。

 この好機を捉え、澄元と之長は阿波から軍勢を率いて渡海し、細川高国に戦いを挑んだのです。当初、細川澄元・三好之長の軍勢には勢いがありました。その勢いは、将軍足利義稙細川高国を見限り細川澄元と手を結んだほど強いものでした。細川澄元は、天下を手にするまであと一歩にまで迫りましたが、そこで澄元の運が尽きてしまいました。澄元は病にたおれ、阿波勢の勢いは一気に衰えてしまいました。戦いの形勢は逆転し細川高国が攻勢に出ると、細川澄元は阿波へ敗走し三好之長は敵方に捕らえられて切腹させられてしまいました。三好之長は宿願を果たせずこの世を去り、その宿願は子孫に託されたのです。

 

 大永元年(1521)細川高国は11代将軍足利義澄の息子義晴を12代将軍に就けました。このとき義晴はまだ10歳の少年でした。そのため、高国は思うままに義晴を操り実質的に天下を支配していたのです。しかし、高国を支える国人衆は寄せ集めであったので結束力が弱く、内部対立が絶えませんでした。

 大永6年(1526)ついに細川高国の被官である柳本賢治と波多野元清が畿内で反乱を起こしました。この反乱に呼応し、細川澄元の息子晴元と三好之長の孫である三好元長(長慶の父)が阿波で挙兵したのです。元長は先遣隊として従弟の三好宗三を畿内に派遣しました。宗三率いる三好先遣隊は、柳本・波多野の軍勢と合流し、足利義晴細川高国の軍勢を破り、義晴と高国は近江へ敗走しました。

 これを受けて、細川晴元三好元長足利義稙の養子である義維(よしつな)を擁立して堺に上陸しました。義維は正式な将軍に任命されてはいませんが、公家たちは義維を堺公方と呼んでいました。

 こうして、近江には将軍足利義晴細川高国の政権があり、堺には堺公方足利義維細川晴元三好元長の政権があるという状況が生まれたのです。16世紀前半の京都とその周辺諸国では、分裂した足利将軍家と細川一族の勢力争いが絶えず、各陣営の争いは複雑に絡み合い激しい戦乱の時代を迎えていたのです。

 

 堺で天下取りの足場を築いた足利義維でしたが、義維を支える細川晴元三好元長とは目指している方向が違っており、二人の間には深刻な対立が生まれていました。細川晴元が目指していたのは、細川高国を排除し京兆家の家督を継いで裏の支配者として京都に君臨することでした。その目的達成のためには、義晴を将軍として容認することもやむなしと考えていたのです。これに対して、三好元長はあくまでも足利義維を将軍の座に就けることにこだわっていたのです。両者の考えは平行線をたどったままでした。

 享禄2年(1529)細川晴元三好元長を出し抜き将軍義晴と和解しました。はしごをはずされた元長は失脚して阿波へ戻り、足利義維は堺にとどまっていました。一方、将軍義晴が細川晴元と和解したことで細川高国も失脚し、西国へ流れていきました。

 高国は西国を巡り自分の味方になってくれる武将を探していたのです。高国の執念は実り播磨、備前、美作の守護赤松晴政の家宰である浦上村宗の協力を得ることに成功し赤松氏の軍勢が細川高国の援軍についたのです。

 高国と村宗の率いた軍勢は瞬く間に摂津を席捲し、堺に迫ってきました。窮地に陥った細川晴元は阿波の三好元長に援軍を要請したのです。このころの細川晴元の行動姿勢は、「勝つためには手段を選ばず」「昨日の敵は今日の友」といった感じでまさに戦国乱世の象徴のようです。

 再び畿内へ進出した三好元長は、堺を攻撃する高国の軍勢を押し返しました。享禄4年3月元長は天王寺の合戦で高国軍を破り、捕えられた細川高国切腹して果てました。三好元長細川晴元の窮地を救い、阿波細川家にとって宿敵であった細川高国を滅ぼしたのです。この元長の功績によって、足利義維の将軍就任が実現するかと思われました。

 しかし、晴元と元長の共通の敵であった高国が消えたことで、再び二人の間に対立が生じ両者は決裂したのです。天文元年(1532)細川晴元本願寺証如に一揆を依頼し三好元長を亡き者にしようと企みました。証如の呼びかけに応じて10万とも20万ともいわれる一向一揆が集結し三好元長のいる堺を攻撃しました。元長は一向一揆によって捉えられ切腹したのです。

 ところが、一向一揆の勢いはおさまらず、制御できなくなったのです。このため、将軍義晴と細川晴元は京の都へ入ることができませんでした。さらに、細川晴元一向一揆によって堺を追われ、淡路へ逃げ込まなければならない状況にまで追い込まれたのです。「敵を倒すためには手段を選ばず」という細川晴元の行動は、ついに宗教勢力をも巻き込み戦乱の時代に新たな勢力を生み出してしまったのです。この新勢力が後に織田信長の前に立ちはだかり苦しめることになるのです。

 

 再び窮地に陥った細川晴元は、態勢を巻き返すためとは言え、こともあろうに実の父親を死に追いやった三好長慶に援軍を求めました。このとき長慶はまだ11歳の少年でした。父の仇である細川晴元に対して、少年長慶がどのような思いを持っていたのかはわかりませんが、三好家の当主として長慶は晴元の要請に応じ、軍勢を率いて晴元とともに摂津へ攻め込んだのです。

 三好長慶の援軍を得た細川晴元は、摂津の芥川山城を拠点に一向一揆と戦いました。徐々に態勢を巻き返した晴元は、足利義晴との連携をとることで勢いを増し、天文4年6月の大坂の戦いで本願寺勢を破りました。この勝利の後、晴元は本願寺と和睦しました。

 その後、三好長慶細川晴元の配下として摂津にとどまっていました。本国阿波の領地支配は弟たちにまかせ長慶は畿内に根をおろすことにしたのです。そのころ畿内では守護代クラスの武将たちが、台頭し勢力拡大をかけた争いを展開していました。

 応仁の乱の時にも守護代クラスの武将が台頭したのですが、この時代も同様のことが起きたのです。その理由は、戦乱が長期化すると、物資や軍勢を直接支配している守護代クラスの武将の存在価値が高まり、彼らが戦いの主導権を握るからです。将軍や細川京兆家の権威などは、守護代クラスの武将には通用しません。守護代クラスの武将が求めているのは天下を支配することではなく、自分の領地や勢力を拡大することだけでした。そして、それを実現するのに必要なのは権威ではなく実力でした。まだ少年だった三好長慶は、摂津の片隅で勢力を蓄えながら時代の趨勢を眺めて、乱世を生き抜く術を学んでいたのだと思います。

 

 天文6年(1537)三好長慶元服し、2500の手勢を率いて上洛しました。このとき長慶は、三好宗三が手にしている河内十七箇所代官職に就くことを希望して幕府に訴えました。いったんは長慶の希望がかなえられたのですが、三好宗三がこれを拒否し両者は対立しました。このとき、六角定頼が両者の間に立ち、長慶は越水城を居城とすることで決着しました。この城は、西宮神社門前町で大阪湾に面した港を守る要衝でした。港と西国街道に接した西宮は商業地としても栄えていました。歴史の流れとは実に面白いものです。このとき三好長慶が越水城を得たことが、長慶が後に飛躍するきっかけを作ったのです。越水城を拠点にした長慶は、松永久秀など摂津国人衆を配下に組み入れて摂津西半国を支配する武将に成長していくのです。

 しかし、勢力を拡大していくと、他の勢力と衝突することも増えてきます。このころ畿内では、細川高国の残党が息を吹き返し、細川氏綱を旗頭として細川晴元と争っていました。晴元の配下である三好長慶は、晴元勢の主力として氏綱との戦いに参戦していくことになります。

 細川晴元細川氏綱の争いは激化し、天文15年(1546)12月将軍義晴は戦乱を理由に都を離れ近江坂本に拠点を移しました。近江守護の六角定頼は、将軍義晴が最も信頼している守護大名でした。この地で、義晴は嫡男義輝を元服させて13代将軍の座に就けたのです。それは、都にいることのできない将軍の誕生でもありました。

 天文16年(1547)7月細川晴元の軍勢と細川氏綱の軍勢は、大坂の舎利寺で激突します。この舎利寺の戦いで三好長慶は氏綱軍に大勝しました。その後、六角定頼が調停に乗り出し晴元と氏綱は和睦します。

 天文18年(1548)三好長慶は、細川晴元に対して戦いを仕掛けます。晴元が被官の一人を自害させたことに対して反発し、国人衆に呼びかけ「国人衆の権利を守るため」という大義名分を掲げ、父の仇である細川晴元を討つことにしたのです。長慶は永らく晴元に仕えてきたのですが、ついに反旗を翻し、父の仇をうち、大きな権力を手に入れる賭けにでたのです。もちろん、この賭けには大きなリスクがありました。晴元と敵対するということは、将軍義輝と管領代である六角定頼をも敵に回すということなのです。しかし、期は熟しました。いまや三好長慶畿内一の軍事力を誇る武将に成長していたのです。

 三好長慶が掲げた「国人衆の権利を守る」という大義名分は効果を発揮し、河内、摂津、山城、丹波、和泉など畿内の国人衆はもとより、淡路、阿波、讃岐の国人衆をも結集した大勢力となりました。これに対して、細川晴元の軍勢は摂津の江口に集結しここを拠点として淀川沿いに守りを固めて、晴元の義父である六角定頼の援軍を待つことにしたのです。江口を守る晴元勢の主力は、かつて長慶と河内十七箇所代官職を巡って対立した三好宗三でした。

 三好長慶は、六角定頼の援軍がくる前に敵を撃破しようと考え、江口に対して総攻撃をかけました。長慶軍の強襲を受けた三好宗三の軍勢は800人が討ち取られて大敗し、晴元勢は総崩れになって近江へ敗走しました。そのため、六角定頼は三好勢と戦うことなく近江へ引き返したのです。

 江口の戦いに勝利した三好長慶は、京都を支配下におさめました。天文20年(1551)幕府政所執事の伊勢貞孝は将軍義輝を見放して、三好長慶の軍門に下りました。将軍義輝は近江に避難し、京都不在が長く続いた結果、京都を支配する幕府の機能は崩壊したのです。

 天文21年(1552)正月将軍義輝を軍事的に援助してきた近江の六角定頼が死亡しました。定頼の死によって将軍義輝と細川晴元は後ろ盾を失い、三好長慶と和睦を結ばざるを得ない状況に追い込まれました。和睦の条件は、次のようなものです。細川晴元は出家すること。晴元の嫡子信良は人質として長慶に差し出すこと。細川氏綱細川京兆家家督を継ぐこと。将軍義輝は京へ帰還すること。

 一切の力を失った将軍義輝は京都に帰還し、三好長慶は将軍の御供衆に任じられました。もともと細川家の被官であった三好長慶が、本来はなれないはずの将軍直臣になったのです。また長慶の力によって、およそ50年間続いていた細川京兆家家督を巡る争いにも終止符が打たれました。足利義輝は飾り物の将軍として存在し、真の支配者は三好長慶という構図が出来上がりました。無力な将軍義輝は、長慶に逆らうことができなかったのです。

 京都にはひとときの平穏が訪れましたが、それは長続きしませんでした。天文22年(1553)将軍義輝の側近たちが、三好長慶の暗殺を企んだのです。暗殺計画は、実行される前に露見し将軍義輝は霊山城に立て籠りました。三好長慶は2万5千の大軍を率いて霊山城を攻撃し、城を落とされた将軍義輝は琵琶湖西岸の朽木へ敗走したのです。

 この時、三好長慶は、将軍義輝を討ち取ることも可能でしたが、それは思いとどまったのです。そのかわり、義輝に従う者は、公家、武家、にかかわらず領地を没収すると宣言したのです。この脅しは絶大な効果を発揮し、義輝に従っていた者たちは次々に離脱し、朽木まで義輝に従っていったのはわずか40人ほどの側近だけだったそうです。三好長慶は、将軍の命を奪うのではなく、将軍の力を完膚なきまでに奪うことで、自らの権力を天下に知らしめたのでした。

 

 こうして、三好長慶はついに天下人となったのです。これまで、細川京兆家は表には足利将軍を立てておきながら、裏で将軍を操るという方法で天下を支配していました。しかし、三好長慶は足利将軍を擁立せず、自らが表に出て天下の支配者となったのです。同時代の武将の多くが、自分の領土を拡大することしか考えていなかった時に、三好長慶は、ただ一人だけ天下を支配するという大望を抱きそれを実現させたのです。この当時、日本を訪れたイエズス会の宣教師が、本国ポルトガルへ送った書簡には日本国王として「三好殿」すなわち三好長慶の名が記載されていました。三好長慶の先祖は、阿波守護代の傍流でしかありませんでした。乱世の中から台頭した地方出身の守護代クラスの武将が、天下の支配者になったのです。

 これは、戦国時代の流れを変える大きな出来事でした。もしも、三好長慶が天下人になっていなければ、織田信長が天下取りに乗り出すことはなかったかもしれません。まさに、信長がくる前の京都には三好長慶という先駆者がいて、足利将軍や細川京兆家などそれまで日本の中世を支えてきた権威を破壊していたのです。三好長慶は、権威という抽象的な概念に支えられた貴種・名族が支配する時代に終止符を打ち、その出自は関係なく軍事力や経済力を保有する真の実力者が支配者になるという新たな時代を切り開いたのです。 

 

今回参考にした文献は以下の通りです。

 

室町幕府分裂と畿内近国の胎動 天野忠幸 吉川弘文館

応仁の乱 呉座勇一 中公新書