歴史楽者のひとりごと

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関東の戦国 戦国武将と化した関東足利氏

 大永四年(1524年)正月北条氏綱は扇谷朝良の居城である江戸城を急襲し、城を奪い取りました。敗れた扇谷朝良は、武蔵国河越城へ退き上野国上杉憲房甲斐国武田信虎と手を結び態勢の立て直しを図っていました。

 上野国の平井城を居城とする関東管領上杉憲房は、北条氏綱を倒すため関東の主だった武将に呼びかけて「氏綱包囲網」を形成しようと画策していましたが、大永五年三月に病にかかり平井城で亡くなりました。このとき憲房の嫡男憲政はまだ三歳の幼児であったので家督を継がせるわけにはいきませんでした。

 そこで、古河公方足利高基の次男を養子にして山内上杉家家督を継がせました。この人が、関東管領上杉憲広です。上杉憲広は、7年後に山内上杉家家督上杉憲政に返し、上総へ入り左馬頭源時直と名乗りました。

 

 足利高基は、父である足利政氏との争いに勝利し古河公方の座に就き、下総国の古河城を居城としていました。古河公方とは、足利尊氏の三男基氏を祖として始まり、もともとは鎌倉を在所に定めて関東の支配者として君臨していました。しかし、四代鎌倉公方足利持氏永享の乱に敗れて自害してしまったので、鎌倉公方は一時途絶してしまったのです。(鎌倉公方の詳細については「東の将軍鎌倉公方」をご覧ください。)

 ところが、文安六年(1449年)に持氏の遺児である万寿王丸が鎌倉入りを果たし、元服して足利成氏と名乗り五代鎌倉公方として復活したのです。足利成氏は戦乱の申し子でした。成氏が鎌倉公方に就任すると、すぐさま関東に「享徳の乱」という大戦乱が巻き起こったのです。この戦乱のさなか、足利成氏は鎌倉から下総古河へ本拠地を移したので、それ以来古河公方と呼ばれるようになったのです。享徳の乱を経て古河公方の権威は衰退しましたが、それでも足利尊氏の血を引く者として関東に隠然たる勢力を保っていたのです。

 その由緒ある古河公方の地位を巡って、足利成氏の息子政氏と孫高基は親子で激しく争いました。争いに勝利し古河公方の座を勝ち取ったのは高基でしたが、その地位は安泰ではありませんでした。弟の足利義明古河公方の座を狙っていたのです。

 足利義明は、もともと下総国下河辺庄を在所としていましたが、真里谷(まりやつ)武田氏の武田恕鑑に招かれて上総国に移り住んでいました。真里谷武田氏とは、甲斐の武田氏と同じく新羅三郎義光を祖先とする清和源氏の流れを汲む武家ですが、室町時代の康正二年(1456年)古河公方足利成氏の味方についた恕鑑の曽祖父武田信長が、享徳の乱に乗じて上総国を侵略し真里谷城と長南城を築いて上総半国を支配するようになったのです。

 その後、真里谷武田氏は周辺の武将たちと領地争いを繰り広げてきたのですが、とりわけ激しい争いを続けていた相手がいました。それが、下総国小弓城千葉市中央区南生実町)を拠点とする千葉氏の傍流である原一族です。真里谷武田氏と原一族は上総と下総にまたがる領地の支配権を巡って争っていたのでした。そのころ原一族は古河公方足利基氏の後ろ盾を得ており、戦いを優位に進めていました。劣勢になった真里谷武田恕鑑は、足利義明を味方にして形勢の逆転を図ろうとしたのです。

 足利義明が真里谷武田氏の味方についたことで、両総の領地争いは高基vs義明という足利兄弟の抗争という様相を呈してきたのです。まず先制攻撃を仕掛けたのは高基でした。永正十六年(1519年)高基は下総の結城氏、常陸の羽生氏、菅谷氏の軍勢を使って真里谷武田氏の軍事拠点である「椎津要害」(千葉県市原市)を攻撃し敵に大きな打撃を与えました。この時高基軍の中で大きな働きをしたのが菅谷氏の水軍でした。土浦城を居城とする菅谷氏は、当時広大な内海であった香取海(現在の霞ケ浦)で活躍していた水軍を有していました。菅谷氏はその水軍を使って江戸湾に面した椎津要害を攻撃したのです。

 これに対して、義明は安房の里見豊通の軍勢を動かして反撃に出ました。里見の軍勢はおよそ1年をかけて原一族を駆逐し大永元年(1521年)に小弓城を原一族から奪い取ったのです。こうして足利義明小弓城へ拠点を移し「小弓公方」と呼ばれるようになったのです。

 小弓公方足利義明のもとには近国の兵たちがぞくぞくと集まってきました。血気盛んな足利義明は大勢の味方が集まったことに気をよくして「我こそは、関東八か国を平定して古河公方を配流し、鎌倉に御所を建てて関東公方になるべき者だ」という野望を抱きました。

 こうして、小弓公方足利義明古河公方の本拠地である下総古河城を目指して進撃を開始したのです。小弓公方に従ったのは真里谷武田氏をはじめとする上総の軍勢と安房里見氏の軍勢、さらに常陸・鹿島の軍勢も加わりました。

 これに対し、古河公方足利高基は、下総の千葉氏、原氏、高氏城の軍勢や関宿の梁田氏の軍勢を使って小弓勢の北上を食い止めようとしました。現在の松戸、流山、安孫子手賀沼印旛沼の周辺という地域が戦場となり、長い間合戦が繰り広げられたのです。

 

 初代鎌倉公方足利基氏がその地位に就いたのは貞和五年(1349年)のことでした。それからおよそ100年間、鎌倉公方の足利氏は関東の支配者として君臨していたのです。しかし、享徳三年(1454年)に起きた享徳の乱を境に鎌倉公方の権威は次第に失われてゆき、鎌倉公方の末裔たちは戦国武将へと変貌していったのです。

 京都の足利将軍家は武力を失いましたが、天下を支配する権威の象徴となり、天下を狙う武将たちに担ぎ上げられる御神輿のような存在になりました。京都の足利将軍家と関東の足利氏は、同じ足利尊氏の血脈を受け継ぎながらも全く異なる道を進み始めたのです。

 関東の足利氏は、武家の棟梁という権威を失いはしたものの、武力自体を失ったわけではなく、自らが軍勢を率いて合戦に臨み領地拡大を目指す戦国武将となったのです。

 何故、足利成氏は武力を失わなかったのでしょうか?それは成氏が下総の古河城を本拠地にしたからです。康正元年六月足利成氏を討伐するため関東へ進軍してきた今川範忠の軍勢によって、鎌倉は侵略され焼き討ちされてしまいました。このため、足利成氏は本拠地を下総の古河城に移したのです。古河城のある下総下河辺庄は、足利氏の御料所でした。

 すなわち、足利成氏はホームグラウンドに戻ったのです。そうすることで食べることにも困らず、軍勢を養うことも可能になったのです。下総下河辺庄の周辺には、足利成氏の味方も大勢いました。成氏は永享の乱とそれに続く結城合戦によって父親と兄弟を上杉氏に殺されていました。また、成氏の父持氏に味方した結城氏や里見氏なども上杉氏によって多くの親族が討ち取られていました。これら上杉氏によって親兄弟を殺された武将たちは、その恨みをはらすべく結束して足利成氏のもとに集結していたのです。

 さらに、足利成氏は戦上手でもありました。享徳の乱が勃発すると、古河公方足利成氏の軍勢は快進撃を続け、敵方のを次々と奪い支配地を広げていったのです。そうすることで古河公方は、強力な軍事力を維持するための経済基盤を手に入れたのです。

 足利高基は、こうした古河公方家の遺産を受け継ぎ、戦国武将としての足場を固めていました。他方、足利義明が移り住んでいた上総国市原庄八幡もまた足利家に縁のある土地でした。義昭もまた先祖から受け継いだ経済基盤があったからこそ戦国武将となりえたのです。

 そして、前述した古河公方小弓公方が争っていた地域は、利根川水系の河川が網目のように流れている地域でした。それらの河川を使った水運は、大きな経済的利益を生み出す源でもあったのです。すなわち、古河公方小弓公方の勢力争いは、下総一帯の水運の支配権を巡る争いでもあったのです。

 両公方の争いは長期化しましたが、そこへ上杉氏、扇谷氏、北条氏が絡んでくることで関東の戦国時代は中盤へと入っていことになるのです。

 

今回参考にした文献は以下の通りです。

 

現代語訳 小田原北条記 江西逸志子原著 岸正尚訳 ニュートンプレス

関東戦国史(全) 千野原靖方 崙書房出版