歴史楽者のひとりごと

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太田道灌 戦国時代前夜を鮮やかに駆け抜けた悲運の名将 中編ー名将道灌

堀越公方の登場

 1458年室町幕府の八代将軍足利義政は、弟の足利政知を関東へ派遣した。室町幕府足利政知を新たな鎌倉公方として就任させ、古河公方足利成氏に対抗させようとしたのだ。しかし、足利政知は鎌倉入りを果たすことができなかった。そのころ、鎌倉のある相模国は扇谷持朝の領国であった。ところが、足利政知が鎌倉に入ることになれば、扇谷持朝は相模国の一部を政知の領地として差し出さねばならなくなる。扇谷持朝はそれを拒否したのである。

 もしも、足利政知が強引に相模国の一部を自分の領地にしようものなら、扇谷持朝は古河公方側へ寝返る可能性さえあった。それでは、上杉方はますます不利な状況に陥ってしまう。そこで、足利政知は扇谷持朝との対立を避けるために鎌倉には入らず、山内上杉家の領国である伊豆の堀越というところにとどまり、そこに腰を落ち着けたのだ。そのため、足利政知堀越公方と呼ばれるようになった。

 堀越公方の登場は上杉方の後押しにはならず、むしろ上杉方の混乱を招くことになった。扇谷家の家宰である太田道真は、この混乱の影響を受けて家督を道灌に譲り隠居している。太田道灌はこの時から扇谷家の家宰となったのだ。

 

◆古河城を巡る攻防

 古河公方は、足利政知の登場など意に介さず、上杉勢の軍事拠点である五十子陣への攻撃を仕掛けていた。しかし、五十子陣の守りは固く、戦線は膠着状態に陥っていた。1471年公が公方は戦線を転じ、千葉、小山、結城の軍勢を伊豆へ差し向け堀越公方を攻撃しようとした。堀越公方のもとには僅かな手勢しかおらず、古河公方勢の急襲を受けた堀越公方は窮地に陥ったが、山内上杉の軍勢が援軍に駆け付けたので難を逃れることができた。山内上杉勢の登場で戦いの形成は逆転し、古河公方の軍勢は敗走した。勢いに乗った上杉勢は古河公方勢を追撃し、敵の本拠地である古河城まで攻め込み、古河城を陥落させたのである。

 享徳の乱が始まって以来、初めて上杉勢が大きな戦果を挙げたのである。しかし、古河公方足利成氏は難を逃れ、千葉輔胤の居城である下総国佐倉城へ逃げ込んでいた。上杉勢は、いったんは古河城を占拠したが、この城は古河公方の勢力圏の中心地にあるので、執拗な敵方の攻撃に耐えることができず、城を手放したのである。そのため翌年古河公方は古河城に帰還し、再び五十子陣を精力的に攻撃するようになったのである。

 

 ◆長尾景春の乱

 1473年山内上杉家の家宰職である長尾景信が死去した。山内上杉家関東管領職を世襲する強大な権力を持った家であり、山内上杉家を支える家宰職もまた大きな権力を握っていた。その地位にあった長尾景信が死去したことで、長尾家内部に家宰職を巡る争いが生じたのである。その混乱のなか、関東管領上杉顕定が家宰として指名したのは、景信の弟である長尾忠景であった。この決定に反発したのが、景信の嫡男である長尾景春である。

 景春の反発には多くの同調者が現れた。長引く戦乱の中で、恩賞や利権にありつくことができず、関東管領に不満をつのらせていた武将たちが長尾景春の味方につきはじめたのである。景春は、関東管領に抗議するため軍勢を引き連れて五十子陣へ迫り圧力をかけたのだ。この事態を重く見た太田道灌は、五十子陣の上杉顕定のもとに参陣し、長尾景春と和解するように進言した。しかし、上杉顕定は道灌の進言に耳を貸さず、むしろ、道灌の行為を不快に思ったようである。

 1476年長尾景春は、武蔵国鉢形城に本拠地を移した。景春は山内上杉家に謀反を企てるため、居城を移して本格的な準備に着手したのである。太田道灌関東管領に対して、長尾景春と和解するか、さもなくば景春を討伐するか選択するように父道真を通して再度進言を試みたが、またしても上杉顕定は道灌の進言を取り上げなかった。

 同年3月道灌は堀越公方に従って駿河へ向かうことになった。駿河では守護の今川義忠が急死し、嫡男龍王丸と義忠の従弟である今川範満との間で家督相続争いが起きていた。堀越公方は軍勢を率いて駿河へ入り、今川家の家督相続争いに介入したのである。道灌は堀越公方の直臣ではない。それにもかかわらず、道灌が堀越公方に従って駿河へ遠征したという事実はどこかしっくりこないところがある。もしかすると、長尾景春の処遇について何かとうるさい道灌のことを疎ましく思った上杉顕定と長尾忠景の二人が裏で手をまわして道灌を堀越公方駿河遠征に同行させるように仕組んだのかもしれない。それはともあれ、堀越公方による介入は成功し、今川家の家督を継いだのは堀越公方が支援した今川範満であった。

 1476年10月太田道灌駿河から江戸へ戻ってきた。戻ってみると、道灌の案じた通り長尾景春は謀反を起こしていた。景春は、道灌が江戸を留守にしている間に鉢形城で蜂起し、三千騎もの軍勢を率いて関東管領に反旗を翻したのである。1476年6月景春軍が五十子陣へ通じる道を封鎖したので、上杉勢は補給路を断たれ窮地に陥っていた。翌年正月に景春の軍勢が五十子陣に総攻撃をかけると、上杉勢は抗しきれず五十子陣は陥落し、上杉顕定らは利根川東岸の上野国那波庄へ逃れていた。道灌があれほど進言したにもかかわらず、関東管領上杉顕定とその取り巻き連中は長尾景春を放置し、今日のていたらくをさらけ出しているのである。道灌は関東管領の無能さにあきれ、しばし江戸城において長尾景春の反乱を静観していたのである。

 

◆豊島氏の挙兵

 五十子陣を陥落させた長尾勢は勢いに乗り、関東管領を支える重臣の中からも長尾方へ寝返る武将が現れだした。まさに、関東管領方は内部崩壊の危機に瀕していたのである。さらに古河公方足利成氏長尾景春に味方する動きを見せており、反乱の動向は道灌にとっても抜き差しならぬ状況になりつつあった。そのような状況のなかで、武蔵国石神井城を本拠地とする豊島勘解由左衛門尉が、長尾景春の味方についたのである。この豊島氏の動きによって、太田道灌はついに立ち上がり、長尾景春を討伐することを決意したのである。

 豊島氏は桓武平氏の流れを汲む秩父平氏の一族であり、平安時代の頃に関東に土着した武士である。源頼朝が平家打倒の兵を挙げると、豊島氏は頼朝のもとに参陣して活躍し、鎌倉時代になると幕府の御家人になっていた。室町時代には、秩父平氏は「平一揆」と呼ばれる軍事勢力を形成し、関東において足利尊氏の軍事力を担う一大勢力となっていたが、豊島氏も「平一揆」の一員に加わっていた。豊島氏は由緒ある坂東武者として武蔵国内で一目置かれる存在であったのだ。

 しかし、室町時代の中頃になると関東では上杉氏が台頭し「平一揆」などかつての坂東武者たちは衰退していったのである。豊島氏も時勢の流れには逆らえず、かつての威勢を失っていた。豊島氏が支配していた領地も、今や新興勢力によって奪われようとしていた。その新興勢力とは、扇谷上杉家であった。扇谷上杉家は1438年に起きた永享の乱をきっかけに勢力を拡大し、相模国から武蔵国南部へ進出し、豊島氏の旧支配地域を侵食し始めたのである。その扇谷上杉家の家宰として武蔵南部の支配を任されていたのが太田道灌であった。

 すなわち、豊島氏にとって太田道灌こそは自分たちの領地を奪い取っていく侵略者にほかならないのだ。だが、道灌は関東管領に従う扇谷家の家臣である。豊島氏が道灌と争うということは、関東管領に弓引くことにつながるのだ。豊島氏という国人が単独で関東管領と敵対することはできない。そんなことをすれば、瞬く間に豊島氏は潰されてしまうだろう。そのため、豊島氏は道灌に対する敵意を腹の中に抑え込んで、今日まで耐えてきたのである。ところが、風向きが変わったのだ。長尾景春関東管領に対して謀反を企てると、多くの同調者が現れ関東管領の本拠地である五十子陣を落としてしまったのだ。豊島氏はこの機に乗じて長尾景春の一味に加わり、太田道灌を倒して武蔵南部の支配権を取り戻そうとしたのである。

 私が思うに、もしも長尾景春が反乱を起こさず、豊島氏が景春の反乱に加担することがなければ、太田道灌という武将が歴史に名を残すことはなかっただろう。長尾景春の乱が起きるまで、道灌に関する歴史的な記録は江戸城を築城したこと以外ほとんど残っていないのである。長尾景春の乱以前の道灌は、関東にいるその他大勢の武将のひとりにすぎず、注目されるような武将ではなかったのかもしれない。

 しかし、歴史の流れは道灌を放っておかなかった。豊島氏が反乱に加担したことで、道灌の運命が大きく変わったのである。景春に五十子陣を落とされたことで、上杉勢の主力はみな利根川の東岸に避難しており、武蔵国には道灌以外に上杉の軍勢を動かせる武将がいなかった。その意味では、豊島氏が挙兵したことで太田道灌が歴史の表舞台に登場するおぜん立てが出来上がったと言っても過言ではないのである。

 

◆江古田・沼袋の戦い

 このころ、豊島氏は石神井城の他に練馬城という城を持っていたが、これらの城が長尾景春の味方につくことで、河越城江戸城の連絡が遮断され、道灌の江戸城は孤立した状況に追い込まれたのである。道灌は事態を打開するために豊島氏の城を落とす必要に迫られたが、豊島氏の本拠地である石神井城は要害に築かれた難攻不落の城であった。

 この城は平城でありながら三宝寺池石神井川に囲まれた場所に築かれていたため容易に攻めることができなかった。特に城の北側に位置する三宝寺池は広大な湿地帯を形成しているので、北側から城を攻撃することは不可能であったと思われる。現在城跡は石神井公園となっているが、公園内には石垣や空堀の跡が点在し、そこかしこにかつての城の痕跡が残っている。道灌は江戸城を守るために、なんとしても石神井城を攻略し、豊島氏を倒さねばならなかったのだ。

 1477年3月太田道灌石神井城と練馬城を攻撃するために、相模から扇谷の軍勢を呼び寄せることにした。しかし、この時関東地方を豪雨が襲い、多摩川が氾濫したのである。そのため、扇谷の軍勢は多摩川を渡河することができなかったのだ。この時の多摩川氾濫の記録は、今も多摩地方の神社に残されている。東京都調布市ある布多天神は今からおよそ1940年も前に創建された歴史ある神社であるが、その御由緒によると、もともとこの神社があったのは古天神と呼ばれる場所で、現在よりも多摩川に近い場所にあったという。ところが1477年(文明九年)の多摩川の洪水で被害を受け現在の甲州街道沿いの場所に移されたのだということだ。多摩川の氾濫は流域に暮らす人々に大きな被害を与えただけではなく、合戦に向かおうとしていた相模や武蔵の軍勢にも大きな影響を与えに違いない。

 このような非常事態において、強いリーダーシップを発揮したのが太田道灌である。突然の災害によって軍事行動が中断され、兵士たちは混乱していたはずである。そのような状況の中で、道灌は素早く作戦を変更し、将兵たちに的確な命令を出していち早く軍勢の立て直しを図ったのである。想定外の災害が起きたことは、道灌が相模・武蔵の軍勢を掌握することにプラスに働いたかもしれない。なぜなら、これまでのところ道灌は父道真の影に隠れて合戦で大きな実績をあげていないのだ。江戸城将兵を除いて相模や河越の将兵たちが道灌の采配通りに動くかどうかは未知数であった。しかし、災害という非常事態の中で道灌が強いリーダーシップを発揮したことで、道灌は将兵たちの信頼を勝ち取ったのである。

 道灌は、弟資忠の軍勢を河越に派遣し河越城の守備を強化する一方、相模勢には溝呂木城、小磯城など相模国内にある景春方の城を攻撃させて攻略に成功し、さらに小沢城の攻撃に向かわせた。また、江戸城の人数が手薄になったので、上杉朝昌、三浦道含、千葉自胤、吉良成高、大森実頼などの軍勢を江戸へ呼び寄せたのである。

 景春方は、小沢城を救援するために小机城から軍勢を出したが、勝原(埼玉県坂戸市)というところで河越城から出撃してきた扇谷軍と合戦し敗れた。道灌は最初の戦いで見事な勝利を挙げたのだ。

 こうして相模の景春勢に打撃を与えた道灌は、いよいよ豊島氏の攻略に向かうのである。1477年4月13日太田道灌の軍勢は江戸城を出撃した。永享記によれば、このとき道灌に従っていた軍勢はわずか50騎の小勢であったという。道灌は豊島平右衛門尉が守っている練馬城へ向かうと、場内に矢を射込み、城の周辺に火を放って立ち去ったのである。道灌が練馬城で行った攻撃は、現代でいうところの威力偵察という作戦である。機動力のある少人数の部隊で敵の出方を窺いつつ攻撃を行ったのだ。

 練馬城からの急報を受けた豊島勘解由左衛門尉は、敵の軍勢が小勢であることを知ると道灌を討ち取る千載一遇の好機到来とばかりに石神井城を出撃し、石神井・練馬の軍勢で道灌を追撃しようとしたのである。しかし、豊島勢は城の外に出たことで道灌の作戦に嵌められてしまったのだ。先に道灌が練馬城で行った威力偵察は、石神井城から豊島勢を誘い出すための囮だったのだ。そうとも知らずに豊島勢は道灌の軍勢を追いかけたのである。

 豊島勢が大勢で追撃してきたので、道灌の部隊はあわてて逃げ出し始めた。しかし、これも道灌の作戦であった。「孫子の兵法」では「戦いの巧者は、敵に利益を見せて誘い出し、裏をかいて敵を倒す」とあるが、道灌はまさにこの戦法を使ったのだ。前述したように豊島氏の石神井城は難攻不落の城である。道灌はその城から敵を誘い出すために、わざと小勢の部隊で練馬城に威力偵察を行い、敵が城から出てくると逃げ惑ったふりをして味方の軍勢が待ち伏せしている江古田原に敵を誘導したのだ。江古田川と妙正寺川の合流点である江古田原には、上杉朝昌と千葉自胤の軍勢が別動隊となって待ち伏せしていたのだ。不意を突かれた豊島勢は江古田原の合戦でさんざんに打ち負かされ150騎が討ち取られたという。

 翌4月14日太田道灌は、豊島氏の本城である石神井城を取り囲んだ。このとき道灌が本陣を置いた場所が、現在の西武新宿線沼袋駅前にある氷川神社の境内である。氷川神社一帯は、高台にあり陣所とするのにふさわしい場所であった。かつて神社の境内には「道灌杉」と呼ばれる巨木があったということだ。この杉の木は、石神井城攻撃を前に太田道灌が戦勝を祈願して献植したもので、なんと昭和17年ころまで残っていたという。当時の記録によれば、高さ30m樹齢数百年の杉の巨木であったということだ。この巨木の根はいまでも残っており、氷川神社に参拝した人は道灌杉の根にもお参りするということだ。

 前日の合戦で大敗北を喫した豊島氏は、道灌の軍勢に城を囲まれるともはや抵抗することができず降伏を申し出たのだ。道灌は石神井城を破却することを条件に豊島氏の降伏を認めたが、豊島氏がいっこうに約束を履行しなかったので、味方に城の総攻撃を命じ石神井城は落城した。しかし、豊島勘解由左衛門尉は落城前夜、夜陰にまぎれて城から逃げ出していたのだ。

 こうして、太田道灌江戸城孤立という危機を脱し、武蔵南部と相模の景春勢を掃討することに成功したのだ。江古田・沼袋の合戦における鮮やかな勝利によって、道灌の武名は関八州に轟いたのだ。道灌は一気に関東大戦乱の主役に躍り出たのである。江古田・沼袋の合戦は、道灌にとっての桶狭間であった。

 

今回参考にした資料は下記の通りです。

 

図説 太田道灌 黒田基樹 戒光詳出版

関東戦国史(全) 千野原靖方 崙書房出版

 

次回は道灌の最期をお届けします。