歴史楽者のひとりごと

こんにちは、歴史を楽しむ者のブログです。

桃配山の伝説と壬申の乱

 慶長五年(1600)9月15日の早朝、天下分け目の合戦に臨んだ徳川家康は、関ヶ原の東端に位置する「桃配山」に本陣を置きました。そこは、関ヶ原を一望のもとに見渡すことができる高台で、家康が東軍の指揮を執るのに絶好の場所であったのです。さらに桃配山は地理的・軍事的に重要な場所であったことに加え、古代の英雄伝説の舞台となった場所でもありました。

 その伝説とは、古代における天下分け目の戦い「壬申の乱」に勝利したのち天武天皇となった大海人皇子(おおあまのみこ)にまつわるのもでした。家康が関ヶ原の合戦の際に桃配山に本陣を置いた理由は、古代の英雄に自分自身をなぞらえて、東西両軍合わせて15万もの軍勢が戦う一大決戦に勝利し、天下を手に入れようという強い意志の表れだったのです。

 家康がこだわった桃配山の伝説とはどのようなものであったのでしょうか、今回は壬申の乱の展開を辿りながら古代の英雄伝説について迫っていきたいと思います。

 

乙巳の変(いっしのへん)から天智天皇の死まで

 まず、壬申の乱が始まる前の歴史についてお話します。

 大化元年(645)中大兄皇子は、中臣鎌足の協力を得て蘇我蝦夷・入鹿を滅ぼしました。世に言う「乙巳の変」が起きたのです。その後、皇位に就いたのは孝徳天皇で、中大兄皇子は皇太子となり新政権を樹立させました。新政権のもとで中大兄皇子は権力を拡大し中央集権化をすすめました。この時行われた諸改革が歴史の教科書に載っている「大化改新」です。

 このころ朝鮮半島では唐と結んだ新羅が勢力を拡大していました。孝徳天皇の次に皇位に就いた斉明天皇は、唐と新羅によって滅ぼされた百済の復興を支援するため倭国から朝鮮半島に大軍を派遣しました。しかし、倭国の軍勢は663年に起きた白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗しました。その後、西日本の各地には、朝鮮半島からの脅威に備えるため多くの山城が築かれたのです。

 667年、中大兄皇子は都を近江大津宮に移し、668年に即位して天智天皇となりました。乙巳の変から22年後に中大兄皇子はようやく天皇の座についたのです。これから本格的に天皇として政権運営を進めていこうとした矢先の671年9月、天智天皇は病に倒れます。天智天皇の病状は重く回復の見込みはありませんでした。

 このとき、皇位継承者として候補に挙がっていたのが、天智天皇の息子である大友皇子天智天皇の弟である大海人皇子でした。死期を悟った天智天皇は、宮殿に大海人皇子を招き皇位継承を打診しました。

 しかし、天智天皇の本心は、息子である大友皇子皇位を継承することでした。そこで、天智天皇大海人皇子の返答次第では、宮殿内で大海人皇子の命を奪おうと考えていたのです。ところが、大海人皇子は、天智天皇の企みを察知していたのです。そのため、天皇の病床に呼ばれた大海人皇子は、皇位継承を丁重に断り天皇の許しを得て出家したいと願い出たのです。

 天智天皇が許しを与えたので、大海人皇子はその日のうちに出家し法衣を身に着けました。さらに、大海人皇子は謀反を起こす意志が無いことを示すために武器を返納しました。この時の大海人皇子の行為は、すべて天智天皇が企んだ暗殺計画から逃れるための手段でした。窮地を脱した大海人皇子は、近江大津宮を去り吉野へ向かいました。大海人皇子が吉野へ向かった表向きの理由は「仏教の修行に打ち込むため」というものでした。

 しかし、この時大海人皇子の胸中には、大きな野心が膨らんでいたのです。そのことに気が付いていた天智政権の群臣たちは、吉野へ去っていく大海人皇子の後ろ姿を見送りながら、「これでは、虎に翼をつけて野に放ったようなものだ」とつぶやいたということです。

 天智天皇皇位継承争いの火種を消すことができないまま、671年12月3日に近江大津宮において死去しました。

 

◆決死の逃避行

 年が明けた672年、大友皇子は亡くなった天智天皇の葬礼に忙殺されていました。それは、大友皇子天智天皇の正式な後継者であることを広く世に知らしめるための儀式でもありました。

 大友皇子は、天皇の陵墓を造営するためと称して多くの民衆を集めていました。しかし、その実態は集めた民衆に武器を持たせ兵士として動員していたのでした。大友皇子は、大海人皇子が吉野に潜伏している間に、先手をとって戦うための準備を始めていたのです。

 大友皇子大海人皇子にダメージを与えるため、あえて大海人皇子の領地である美濃・尾張の民衆を兵士として動員することを思いつきました。672年5月大海人皇子は、舎人(私的な従者)の一人を美濃へ使いに出しました。そこで舎人が目撃したのは、大友皇子の命令を受けた役人が美濃の成年男子を徴発している様子でした。舎人は大急ぎで吉野へ戻り、美濃で目撃したことを大海人皇子に報告しました。

 さらに、大海人皇子のもとには、大友皇子側の動きが次々に報告されてきました。大友皇子は、近江から吉野へ至る道の要所要所に監視所を設け、宇治橋橋守に命じて吉野へ運び込まれる物資の輸送を遮断しているというのです。

 再び窮地に追い込まれた大海人皇子は、怒りに震え「このまま黙って滅ぼされてたまるか」と言ったということです。この時、大海人皇子は何としても大友皇子を倒し自分が天皇になると決意したのです。大海人皇子大友皇子に対抗するための策を練り実行に移しました。672年6月、大海人皇子の密命を受けた3名の舎人が美濃へ急行しました。彼らの使命は、美濃の有力者に面会し協力を仰いで兵士を動員し、その兵力ですみやかに不破道を封鎖することでした。

 不破は後の時代に不破の関が設けられたことからもわかるように交通の要衝です。この地を軍事力で押さえることがでれば、大友皇子の拠点である近江と美濃・尾張の連絡を遮断することができ、大友皇子は東国で動員した兵力を用いることができなくなるのです。まさに、この策が成功するかどうかが、大海人皇子の運命を決めると言っても過言ではありませんでした。

 大海人皇子は、三人の使者に美濃での工作を命じた一方で、自らは吉野を脱出し美濃へ向かうことにしました。672年6月24日大海人皇子は妻子とわずかな従者を連れて吉野を出発しました。険しい山道を辿る決死の逃避行でした。

 ところが、この決死の逃避行の最中、大海人皇子はいくつかの幸運に恵まれることになるのです。大海人皇子の一行は山中で20人余りの猟師の一団と遭遇しましたが、猟師たちは大海人皇子の一行に加わることになりました。さらのその先の村では50頭の馬を手に入れることができ、大海人皇子の一行は徒歩ではなく馬で進むことができるようになったのです。

 そして大海人皇子の一行は、いよいよ伊賀の地へ入っていきました。伊賀は大友皇子の母親の故郷であり大海人皇子にとっては敵地です。敵の目を逃れるため、大海人皇子の一行は夜の闇に紛れ決死の伊賀越えを敢行したのです。

 実は、この時からおよそ900年後に大海人皇子と同じように決死の伊賀越えをした人物がいます。それが徳川家康です。家康は、本能寺の変が起きた時に信長に招かれて摂津国の堺を見物しているところでした。信長が明智光秀の謀反で死んだとの知らせはすぐさま家康にも伝わりました。そこから、家康の決死の伊賀越えが始まったのです。信長の死が伝わると各地で一揆が蜂起していました。家康はわずかな手勢と共に数々の危機を乗り越え三河へたどり着くことができたのです。

 命からがら三河へたどり着くことのできた家康は、つくづく自分の運の良さを実感したことでしょう。おそらく、この時家康は自分と同じように決死の伊賀越えを敢行した大海人皇子のことを知ったのではないでしょうか?その後家康は大海人皇子に関する歴史を学び、自分には「天下取り」の天命があるのかもしれないと思ったのかもしれません。

 

大友皇子、判断を誤る

 大海人皇子が吉野を脱出したとの情報は、その日のうちに大友皇子にもたらされました。6月24日の夜、大友皇子は群臣を集めて対応策を協議しました。その会議の席上では、騎兵の精鋭部隊を派遣し大海人皇子の一行を追撃するという作戦が提案されたのです。しかし、大友皇子はこの案を却下しました。

 もしも、この時大友皇子が追撃作戦を実行していれば、日本の歴史は変わっていたかもしれません。何故、大友皇子は追撃作戦を採用しなかったのでしょうか?歴史家の中には、大友皇子は追撃するのが遅すぎる判断したと考えている方もいらっしゃれば、大友皇子は王者として堂々と戦う道を選んだと考えている方もいっらしゃいます。

 仮に大友皇子の判断が「王者の戦い」に基づくものであったとすれば、私は大友皇子石田三成には類似性があるのだなと思ってしまいます。やはり、天下を取れない人物は肝心な時に的確な判断ができないのだなと思います。あるいは、勝負に負ける者は好機が訪れているのにもかかわらず、その好機を掴むことができなのではないかと思います。歴史とは、時にそのような教訓を冷酷に伝えるものなのです。

 24日の会議の結果、大友皇子はさらに兵力の増強をはかるため、各地へ使者を派遣し兵士の動員をうながしたのでした。

 

大海人皇子、兵力を手に入れる

 6月25日朝、大海人皇子の一行は無事に伊賀越えを終えていました。思いもかけぬことに、昨夜伊賀の豪族が数百人の兵士を従えて大海人皇子の軍勢に加わってきました。敵地である伊賀の豪族の中にも、大海人皇子に心を寄せる者がいたのです。次第に勢力が増していく大海人皇子のもとへ、近江から脱出してきた高市皇子が合流しました。高市皇子大海人皇子の息子ですが、大津近江宮で大友皇子に仕えていたのです。24日夜に父親が吉野を脱出したとの知らせを受けた高市皇子は、部下を連れて密かに大見を脱出したのでした。高市皇子が引き連れてきたのは、いずれも馬にまたがった屈強な男たちばかりでした。

 翌26日には、大海人皇子に朗報がもたらされました。美濃へ派遣していた使者が大海人皇子のもとに現れ、美濃で三千人の兵士を動員し、不破道を封鎖したことを報告したのです。絶対絶命の危機に陥っていた大海人皇子ですが、あきらめずに起死回生の策を実行し、今や大友皇子大海人皇子の形勢は逆転しそうな勢いでした。大いに士気の上がった大海人皇子の一行は、その日のうちに桑名へ到着しました。不破まではもう少しです。大海人皇子は桑名に留まり、息子の高市皇子を不破へ先行させました。

 その翌日、高市皇子大海人皇子に対して不破と桑名では距離が離れすぎており連絡が取りづらいので、不破まで進出してきてほしいと要請しました。この要請に応え、大海人皇子は直ちに桑名を出発しました。

 不破へ向かう大海人皇子に大きな知らせが届きました。なんと2万の兵士が大海人皇子の軍勢に加わったというのです。その兵士たちは、もともと大友皇子が美濃・尾張で徴発したものでした。しかし、美濃・尾張の有力者たちは、権威を振りかざして横暴にふるまう大友皇子の家来や役人たちに嫌気がさしていたのです。ちょうどそこへ、大海人皇子が派遣した舎人たちが、美濃の有力者に対して寝返りを要請してきたのです。美濃・尾張の有力者たちはその要請に応じ、大海人皇子は大きな戦力を手に入れることができたのです。

 

◆桃配山伝説

 大海人皇子は不破へ到着し、味方についてくれた美濃・尾張の長老たちの労をねぎらいました。その場には不破の民衆たちも集まっていました。民衆の中の代表者がおずぞずと大海人皇子に近づき収穫したばかりの山桃を献上したところ、大海人皇子はたいそうお喜びになりました。

 古来から山桃は魔除けになると信じられていました。大海人皇子は、兵士たちにも山桃を配りたいと言って、不破一帯の山桃を全て買い上げることにしました。この話は不破一帯に伝わる伝説であり、日本書紀や天武記には記載されていません。あくまで民衆の間で口伝に語られてきた伝説なのです。

 日本書紀に書かれているのは、大海人皇子が不破の地で全軍を指揮する権限を高市皇子にゆだねると宣言したことです。指揮権を得た高市皇子は、後に「関ヶ原」と呼ばれるようになる平地に兵士を集め軍事訓練を行いました。大海人皇子は6月28日と29日に関ヶ原を訪れ兵士たちを閲兵しました。想像の翼を広げるならば、大海人皇子が兵士たちに山桃を配ったのはこの時ではなかったかということです。

 大海人皇子は後に「桃配山」と呼ばれるようになる山のふもとで兵士たちを閲兵したのです。数万もの兵士たちが整然と並び、精鋭部隊の兵士たちには魔除けの山桃が配られました。また、兵士たち全員には赤い布が配られました。これは敵味方を区別するための目印です。大海人皇子の兵士たちは赤い軍勢となったのです。赤布を受け取った兵士たちは皆戦いに臨む覚悟をきめたことでしょう。法衣を身に着けた大海人皇子は、兵士たちに檄を飛ばし出撃の日が近いことを告げました。兵士たちは手にした武器を突き上げこれに応えたことでしょう。

 徳川家康は、このような桃配山の民間伝承を丁寧に拾い集め自らの天下取りの縁起担ぎとしたのです。壬申の乱に勝利し天皇となった大海人皇子が歩んだ道である「決死の伊賀越え」「近江を目指しての東国からの進軍」「敵方の兵力を寝返らせたこと」これら一つ一つの出来事を自分の人生と重ね合わせた時、徳川家康は自分はまさに大海人皇子と同じ道を辿り天下取りへ進んでいるのだと信じ、心を奮い立たせたのではないでしょうか。だからこそ、家康は関ヶ原の合戦において桃配山に本陣を置いたのです。

 

壬申の乱が日本の礎を造った

 672年7月2日大海人皇子関ヶ原に集結した全軍に進撃命令を下しました。ついに壬申の乱が始まったのです。大海人皇子の軍勢は近江を目指す軍勢と大和を目指す軍勢の二手に分かれ進軍を開始しました。これからおよそ一か月に渡り古代史上最大の戦いが繰り広げられたのです。その結果、大海人皇子は勝利し天武天皇となったのです。

 天武天皇は、律令制度の確立、国史の編纂、貨幣の鋳造、藤原京の造営などに着手しましたが、その完成前に亡くなりました。天武天皇の意志は皇后から天皇となった持統へ引き継がれたのです。天武・持統天皇が推し進めた政策は、現代へと続く日本という国の礎を築くことになったのです。

    壬申の乱は、時の権力者を決める天下分け目の戦いであっただけでなく、その後の日本の歴史を決定づける大きな分岐点でもあったのです。 

 

今回参考にした文献

壬申の乱 遠山美都男 中公新書

詳説日本史 山川出版