歴史楽者のひとりごと

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戦国大名を生み出した足利義満の政策

 室町幕府の3代将軍足利義満室町幕府の全盛期を築き上げましたが、しっかりとした後継者を育てることなく急死してしまいました。義満の跡を継いだ凡庸な息子たちは歴史の大転換点において足利将軍家の繁栄を継続するための未来設計図を持ち合わせておらず、いたずらに時を費やし足利将軍家を衰退させるきっかけを作ってしまいました。しかし、足利義満のとった政策そのものの中にも、のちに戦国大名が出現してくる下地が内在していたと考えられるのです。そこで今回はそのことについてお話します。

 1378年義満は京都の室町に壮麗な邸宅を造営し、ここで政治をおこなったので足利将軍の幕府を室町幕府と呼ぶようなりました。義満は管領や侍所、政所、評定衆などを設置して幕府の政治機構を整えました。「三管領」「四職」と言われるように将軍を補佐する管領には足利氏一門の細川・斯波・畠山の三氏が交代で任命され、京都の内外の警備や裁判を司る侍所の長官には有力守護の赤松・一色・山名・京極の四氏から任命されるのが慣例でした。義満は有力守護大名を京都に集め室町幕府の運営に当たらせていたのです。義満がこうした体制を作ったのは、有力守護大名を京都に住まわせることで、彼らの動きを監視し、足利将軍家に対抗する動きを牽制するためでした。在京した有力守護大名たちは連歌の会などを催し、華やかな都の生活を楽しむようになっていました。

 有力守護大名たちが都の華やかな生活を満喫している陰で、守護大名の領国では新たな勢力が台頭し始めていました。それが、在京守護に代わって領国を統治している守護代や地方の有力な国人たちでした。守護代や有力な国人が勢力を拡大することを可能にしたのは、ただ単に守護が領国を留守にしていたからではなく、室町時代になって経済が大きな発展をとげたからです。

 足利義満は瀬戸内海の海上交通権を手に入れ明との国交を開き日明貿易を推進しました。明国からは大量の銅銭が輸入され日本国内で流通するようになりました。この貨幣経済の発達こそが、地方の守護代や国人衆の勢力を強める大きな原動力となったのです。義満の時代には、日本各地に荘園が存在していました。荘園の所有者は天皇や上級貴族や大きな力を持つ寺社でした。しかし、荘園の所有者は直接領地へいって荘園経営をするのではなく、経営は現地にいる者にまかせていました。この荘園の経営を引き受けていたのが在地の守護代や有力国人であったのです。

 守護代や有力国人は荘園経営を請け負うことで大きな経済的利益を得ることができたのです。それを可能にしたのが、銅銭の大量流通による貨幣経済の発達です。たとえば荘園で生産された米は、米のまま荘園領主に年貢として納められるのではなく、堺など商業の発達した都市にある市場にもちこまれ、高い相場で売ることができれば大きな利益を得ることができたわけです。守護代などは、荘園経営の請負契約を交わした時にとりきめた年貢の金額よりも大きな金額を稼ぎだした場合は、その余剰部分を自分の利益にすることができるわけです。米だけではなく地方の特産物や工芸品など様々な商品が貨幣経済のもとで取引されました。こうして在地の守護代や国人たちは貨幣経済によって大きな力を持つことができるようになったのです。すなわち戦国時代に活躍する戦国大名たちには、現代の企業経営者にもつながるような経済感覚の持ち主がいたということです。彼らはその経済力を背景にして軍備を増強したり、有能な人材を確保したわけです。織田信長は当初、明智光秀を銀七千貫というお金で召し抱えたと言われています。領地を与えなくてもお金によって家臣を召し抱えることができたのです。経済力のある武将は、お金で雇った家臣や兵士たちに、お金で準備した武器を持たせ隣国へ戦いを仕掛けて領地を拡大することができたのです。

 このように足利義満が行った日明貿易の推進は経済的な素養に優れた人物が台頭する機会を作ったのです。油売りであった斎藤道三美濃国の支配者になれたのにはこのような背景があったのです。また尾張国守護代の分家である織田信秀が台頭したのは、津島という商業地を支配し、そこから生まれる経済力をもとにして尾張半国を支配できる力を手に入れたからです。

 経済力を得て勢力を拡大した守護代や有力国人たちが、自分の持っている強大な力に気が付いたのが「応仁の乱」でした。応仁の乱は、京都が主戦場になったのですが、その戦場で必要な兵士、武器、兵糧は全て地方の領国に存在するのです。つまり、戦いの勝敗を左右する人、物、金は在地の有力者が押さえているのです。応仁の乱が膠着状態に陥ると、都で戦っている山名と細川の両陣営は、戦いを有利に進めるために在地の有力武将を自分の陣営に引きこもうとしました。その代表的な例が、越前国守護代である朝倉氏です。朝倉氏がいた越前国は、琵琶湖の水運を利用して都へ兵士や兵糧を運び込める重要な場所に位置していたのです。朝倉氏を味方にした陣営が戦いに勝利できる可能性が断然高くなるわけです。朝倉氏のもとには、山名、細川の両陣営から味方につくようにという誘いがきました。その見返りとして両陣営とも守護職を用意していたのは言うまでもありません。こうして、在地の守護代や有力国人は自分が持つ大きな力に気が付いたのです。「都にいる守護になりかわり自分が領国を直接支配してやる」という下克上が在地の守護代や有力国人を戦国大名へと変貌させるきっかけとなったのです。阿波国守護代であった三好氏は、守護の細川氏を押しのけ天下の支配者までのし上がったのです。

 足利義満室町幕府の全盛期を築き上げたのですが、「三管領」「四職」「日明貿易の推進」といった義満の政策の中に、地方に住む有力者たちが戦国大名へと成長していく種が含まれていたのです。こうしてみると足利義満貨幣経済の発達という新たな歴史の流れを作り出したにもかかわらず、自分が急死したことでその歴史の流れる方向を大きく転換させたといえるのかもしれません。

 「織田がつき羽柴がこねし天下餅すわりしままに食うは徳川」という江戸時代につくられた落首がありますが、その天下餅の原材料であるもち米の苗を植えたのは足利義満であったのです。

 

※今回参考にした資料は下記の通りです。

  

日本社会の歴史(下) 網野義彦 岩波新書

応仁の乱 呉座勇一 中公新書

詳説 日本史 山川出版社

新詳日本史 (株)浜島書店