歴史楽者のひとりごと

こんにちは、歴史を楽しむ者のブログです。

創業は江戸時代 多摩の酒蔵で癒される

 ふと思いついて、蔵元を訪ねてみることにしました。蔵元と言えば、秋田や山形や新潟など北国の米どころにあると思いがちですが、実は、東京近郊にも歴史ある蔵元がいくつもあるのです。

 今回、私が訪れたのは福生にある蔵元で、多摩の銘酒「多摩自慢」を製造販売している石川酒造です。最寄駅は、JR青梅線拝島駅で新宿からの所要時間は約40分です。ここまでくると、もはや都会の喧騒はありません。奥多摩の山並みが間近に迫ってきます。さりとて鄙びた場所と言う訳ではなく、郊外のベッドタウンという感じのする場所です。

 拝島駅から歩くこと約15分、静かな住宅街の中に異質な空間が現れました。長く続く白壁の土蔵に、ひっそりと木立の影が落ちています。まるで、江戸時代にタイムスリップしたかのようなたたずまいをしている建物が石川酒造です。

 がっしりとした趣の門をくぐると、正面の奥まった場所に白壁の酒蔵が鎮座しています。入って左手には大きな二本の巨木がそびえており、その根元には弁天様と大黒様を祀った小さな祠があります。蔵元では弁天様と大黒様を夫婦の神様として祀ってあり、この祠は縁結びのパワースポットでもあるそうです。そして、祠の脇からは酒造りには欠かせない清らかな水が、深さ150メートルの地下から汲み上げられています。この場所に立っただけで、何かこの酒蔵に宿る不思議なパワーを全身に浴びているような気がしてきます。

 

 さて、私が石川酒造を訪れたのは毎月第四土曜日に開催されている「感謝デー」でした。この日は特別に酒蔵見学ができるのです。ただし、参加するには事前予約が必要ですので詳しくは石川酒造にお問い合わせください。

 酒蔵を案内してくれるのは、石川酒造で働いていらっしゃる素敵なお嬢さん。普段は日本酒のラベルをデザインする仕事をされているそうです。予定の時間になると酒蔵の扉が開かれて見学ツアーの始まりです。

 酒蔵の内部はほの暗く、気温は年間を通じて約15度に保たれひんやりとしています。酒蔵は2階建てになっており1階には緑色のタンクが林立しています。このタンクの中に、できたての日本酒が満たされ熟成され出荷の時を待っているのです。2階にはお酒を発酵させるための麹室があるそうです。私たち見学者は、1階で案内役のお嬢さんから日本酒造りにまつわる興味深い話をたくさん聞かせていただきました。もちろんお酒の試飲もあります。美味しいですよ。

 

 ところで、歴史を楽しむ者としては、お酒を楽しむばかりではなく歴史にまつわる話をしなければなりません。石川酒造の創業は文久三年(1863)ということですから時代は幕末です。何故、多摩地方での酒造りが幕末に始まったのでしょうか?その理由は、多摩地方が武蔵野台地の上にあるという地理的要因があるのです。

 ご存知の通り、台地の上は水が乏しく稲作には向いていません。江戸は武蔵野台地が海に突き出た先端に築かれた江戸城を中心に作られた城下町であり、やはり飲み水に適した水源に乏しい場所でした。徳川家康は江戸に城下町を造るに当たり、まず飲料水を確保するための用水を通すことを命じました。その玉川上水が完成したのが、承応二年(1653)のことです。

 玉川上水を流れる水は江戸城下で暮らす人々の飲料水にすることが主目的でしたが、武蔵野台地で暮らす人々の生活を潤す水でもありました。玉川上水は、多摩地方の村々に分水され徐々に乾いた台地を潤していきました。やがて、農民たちは稲作を始め人々はお米のご飯をたべることができるようになったのです。時が進むにつれて、稲作は盛んになりました。そして、余剰になったお米で日本酒が造られるようになったのが幕末の頃であったというわけです。

 すると、新たな疑問がわいてきました。幕末になるまで江戸市中の人々は一体どこで造られたお酒を飲んでいたのでしょうか?調べてみると、江戸で飲まれていた日本酒は関西から運ばれてきたものでした。江戸初期から中期にかけては、京都や伏見で造られた上質の日本酒「下り酒」が人気を博していたのです。

 その後、江戸は大都市となり日本酒の需要も一層増えたのです。大量に消費される日本酒を関西方面から江戸へ運ぶには、酒樽を船に乗せて海上輸送する必要がありました。そこで地の利を活かしたのが灘の酒、すなわち現在の神戸港付近で造られた日本酒です。こうして、江戸中期以降は「灘の酒」が江戸市中で好まれる日本酒になったのです。

 

 さて、次は日本の歴史全体に目を向けてみましょう。石川酒造が創業を始めた文久三年(1863)は、幕末の歴史に大きな影響を与える出来事が起きた年でもあります。この年より3年前(1860)に「桜田門外の変」が起きました。江戸城の目と鼻の先で大老井伊直弼が水戸浪士によって謀殺されたのです。この事件は、徳川幕府の力が弱体化したことを日本中に知らしめました。

 窮地に陥った幕府は、朝廷との連携を取る「公武合体策」によって局面を打開しようと模索しました。そして、文久三年に十四代将軍徳川家茂が上洛したのです。幕府は将軍を警固するため浪士を募集し浪士組を結成しました。浪士組は将軍に先立って上洛し「新選組」と名を改めたのです。

 新選組の局長近藤勇や副長土方歳三は多摩地方で生まれ育った若者でした。彼らは、幕末の激動の中に身を投じていったのです。新選組の活躍は、幕府と尊王攘夷派の対立を激化させ、やがてその流れが倒幕運動へと発展し、日本は明治維新を迎えることになったのです。

 

 それにしても、激動の時代にあっても人々は酒を飲んだのですね。いや、むしろ激動の時代であったからこそ、人は一杯の酒に安らぎを求めたのかもしれせん。時代は変わっても、それは同じことです。コロナ禍、ロシアによるウクライナ侵攻など私たちが生きている現代は混迷の時代であり、いつまでたっても明るい兆しは見えてきません。そのような時代であればこそ、私たちもまたひと時の安らぎや癒しを必要としているのです。

 お酒が苦手という方でも、長い歴史と自然が育んできた酒蔵を訪れてみれば、きっと癒しを感じることでしょう。併設されたイタリアンレストランでは美味しい食事を楽しむこともできます。レストランも予約制ですので、事前の確認をお願いします。皆さんも、都心からほど近い多摩の酒蔵を訪ねてみてはいかがでしょうか。