歴史楽者のひとりごと

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東の将軍 鎌倉公方 その10-足利持氏 室町将軍に挑み死す

上杉禅秀の乱終結後の関東

 1417年1月上杉禅秀の乱終結しました。無事に鎌倉へ戻ることのできた足利持氏は、反乱に加担した者たちへの討伐に着手しました。この年持氏は、上野国の岩松満純、甲斐国武田信満を討伐しました。彼らは上杉禅秀の乱に加担したものの、室町幕府からの寝返りの呼びかけに応じていた者たちでした。幕府は寝返りに応じた者に対しては、謀反の罪を問わないと約束していたのです。

 しかし、鎌倉公方足利持氏は謀反に加担した者たちを決して許さず、徹底した弾圧を加えたのです。そのため、持氏から弾圧の標的にされた関東武士の中には、自分の身を守るために室町幕府に庇護を求める者がでてきたのです。彼らは、幕府から庇護を受ける見返りに、鎌倉府や鎌倉公方の動向を監視し幕府の手先となって、鎌倉公方を牽制する役割を担うようになりました。このような関東武士のことを「京都御扶持衆」と呼びます。京都御扶持衆となった主な関東武士は、稲村御所の足利満貞、白河結城氏、下野国の宇都宮氏、常陸国の小栗氏、真壁氏などです。

 謀反に加担した武士を弾圧する足利持氏の行動は、関東内部に敵対勢力を増大させる行為でしたが、この時期持氏の近臣には持氏の暴走を止めることのできる者がいませんでした。本来ならば、関東管領鎌倉公方を補佐する立場として、持氏に意見すべきでしたが、その関東管領職に就いていたのは10歳の少年上杉憲実でした。

 上杉禅秀の乱が勃発した時、関東管領の座についていたのは上杉憲基でした。憲基は禅秀との戦いに敗れ越後国へ逃れていました。越後国は1341年に山内上杉家の祖である上杉憲顕が守護に任じられて以来、上杉氏が守護職に就いていた国です。越後上杉家では、憲顕の息子憲栄が病死すると、山内上杉家より憲顕の孫である房方を越後へ呼び寄せ家督を継がせていました。このように越後国山内上杉家にとって信頼できる国でした。そのため上杉憲基は禅秀の乱が終結するまで越後国に逃れていたのです。その後、憲基は鎌倉に復帰していたのですが、病に倒れてしまいました。そこで、憲基の養子になっていた上杉憲実(越後上杉家の生まれ)が山内上杉家家督を継ぎ10歳で関東管領職についていたのです。

 10歳の少年が関東管領では、足利持氏の暴走を止めることはできず、この時期の持氏は半ば独裁者として関東に君臨していたのです。持氏に弾圧された武士の中には京都御扶持衆にならなかった佐竹氏や千葉氏などもいましたが、彼らは持氏に対して深い恨みを持ちました。そして、この時に生じた遺恨が、後に起こる関東大乱の火種となるのです。

 

くじ引き将軍 足利義教

 1425年京都では五代将軍足利義量が亡くなりました。享年19歳の義量にはまだ跡継ぎの子供がいませんでした。ただし、義量の父で四代将軍であった足利義持は健在でした。義量の死後、足利義持は前将軍として室町幕府の実権を握っていましたが、自らが将軍に返り咲くことはありませんでした。ところが、義持は将軍の後継者を急いで決める気配もありませんでした。義持には、病死した義量の他に子供がいなかったのですが、このとき義持の年齢は40代の男盛りでしたので、これから跡取り息子ができると思っていたようです。そのため、室町将軍の座は空位になっていたのです。

 このことに色めき立った者がいました。鎌倉公方足利持氏です。持氏もまた将軍になりたいという宿痾に取りつかれていたのです。持氏は使者を立てて京都へ派遣し、足利義持の猶子となり将軍の座に就きたいと願い出たのです。しかし、持氏の申し出はあまりにも難題であったため、使者は義持に対面することすらできませんでした。室町幕府の将軍になれるのは、二代将軍足利義詮の血を引く者でなければなりませんでした。ところが、鎌倉公方は義詮の弟である基氏の血を引いた家系です。たとえ足利尊氏の子孫であったとしても、二代目の時に室町将軍と鎌倉公方に分かれた血筋は決定的な違いになっていたのです。それが理解できていなかったのは、鎌倉公方だけでした。

 1428年足利持氏は急死しました。原因は入浴中に背中にできた腫物をかきむしり、それがもとで体調をくずしたことによるものです。義持が将軍の跡継ぎを決めないままに死去したので、室町幕府重臣たちは次期将軍を「くじ引き」で決めることにしました。前代未聞の事態です。次期将軍の候補者とされたのは義持の兄弟4人で4人とも僧籍に入っていました。義持の兄弟ではない持氏は、当然のことながら候補者のなかに入ることすらできませんでした。おそらく、鎌倉の持氏は地団駄を踏んで悔しがったことでしょう。

 しかし、持氏のことなどおかまいなしに、室町幕府重臣たちは粛々と将軍選びの「くじ引き」を進めていたのです。まず4人の候補者の名前を書いた「くじ」が用意されました。「くじ」に候補者の名前を書いたのは三代将軍足利義満に重用され「黒衣の宰相」と呼ばれた三宝満済です。「くじ引き」は石清水八幡宮の神前において管領畠山満家の手によって厳正に行われました。満家が引いた「くじ」には「青蓮院殿」と書いてあったそうです。当選した青蓮院門跡義円は還俗して足利義宣(よしのぶ)と称し、翌1429年に足利義教と名を改めて6代将軍の座に就きました。一説によれば、このくじ引きは八百長であったそうです。ただし、そのことは選ばれた義教には伝えられていなかったそうです。義教自身は、「自分は神様によって選ばれた将軍である」と思い込んでいたようです。

 

永享の乱勃発

 さてこの時、鎌倉の足利持氏はどうしていたでしょうか。くじ引きによる次期将軍選びに不満をつのらせていた持氏は、関東の軍勢を率いて京都へ攻め込もうと考えていました。持氏の出兵を思いとどまらせたのは、関東管領上杉憲実でした。憲実はこのとき21歳になっていました。かつて持氏の暴走をとめることのできなかった少年は、冷静沈着な大人へ成長し関東管領の職務を全うできるようになっていたのです。憲実は持氏の挙兵を押しとどめるために、新田氏が鎌倉へ攻め込んでくるという偽りの注進をしたのです。この注進に驚いた持氏は、京都へ攻めあがること断念せざるを得ませんでした。

 しかし、室町幕府には関東にいる京都御扶持衆を通じて、持氏の動きが全て伝わっていたのです。鎌倉公方足利持氏が挙兵し京都に攻め込もうとしたことも、関東管領上杉憲実が持氏の挙兵を押しとどめたことも全て幕府に筒抜けになっていたのです。このとき室町幕府重臣たちは上杉憲実の行動を見て、幕府への協力者であると思い込んでいました。しかし、憲実の真意は持氏を裏切って幕府に協力しようとしていたのではなく、幕府に敵対せず鎌倉府が安定して存在することだけを考えていたのです。ところが憲実の気持ちは持氏には伝わらず、憲実と持氏の関係には亀裂が生じ、その溝は次第に深まっていったのです。

 1429年足利義教が6代将軍の座に就きました。同年9月改元が実施され元号は正長から永享へ改められました。ところが、室町幕府に反発する足利持氏はこの改元に従わず、鎌倉府では正長の元号を使い続けたのです。関東管領上杉憲実は、改元に従わない持氏に諫言しましたが、持氏は聞く耳を持ちませんでした。室町幕府から敵視されることを恐れた上杉憲実は、1431年に京都へ使節を派遣し、改元を無視していることを幕府に」わびました。そして、この後鎌倉府は永享の元号を用いるようになったのです。

 1432年将軍足利義教は、富士山を遊覧するために駿河へ下向しました。義教の富士山遊覧は足利持氏を威嚇する軍事行動でもあったのです。自分の立場をわきまえずに将軍の座を望み、その無謀な望みがかなわないとなると、お門違いにも室町幕府に反発してくる足利持氏に対して、足利義教は強い敵意を抱いていました。義教は持氏を牽制するために陸奥国篠川公方足利満直に対して関東の支配権を認める御内書を出していました。しかし、足利満直は陸奥国内の諸勢力を制圧することもできていなかったので、鎌倉府に対して軍事行動を起こして足利持氏を倒せることなど到底不可能でした。

 ところが、将軍義教に足利持氏を倒す機会が到来したのです。きっかけは、足利持氏信濃国守護小笠原氏と村上氏の領地争いに介入しようとしたことでした。1436年信濃国の武将村上頼清は小笠原氏との領地争いに際して、鎌倉公方足利持氏に援軍を求めてきたのです。持氏はこの援軍要請を引き受け、鎌倉から軍勢を派遣しようとしました。しかし、関東管領上杉憲実は信濃へ軍勢を出すことに反対しました。信濃鎌倉公方の権力が及ぶ地域ではなく、室町将軍の支配下にある地域です。そこへ鎌倉から軍勢を派遣することは、室町幕府に反旗を翻すことと同じであると憲実は説いたのです。持氏が憲実の反対を無視して軍勢を派遣しようとしたので、憲実は上杉の軍勢を使って力ずくで持氏軍の信濃入りを阻止しました。

 この事件によって、持氏と憲実の対立は決定的なのもとなりました。翌1437年持氏は再び信濃国へ出兵するためと称して軍勢を集めましたが、関東諸国では持氏が集めた軍勢は上杉憲実を討つための軍勢であるとの風聞が立ちました。そのため、憲実を支持する勢力が鎌倉に集結し、鎌倉は騒然とした状況になったということです。持氏は憲実に対して和解を申し入れましたが、両者が和解することはありませんでした。

 1438年再び足利持氏が上杉憲実を討つとの風聞が立ちました。憲実は自分の真意を理解してくれない持氏のことを嘆き自害しようとしましたが近臣によって止められました。自害を断念した憲実は、鎌倉を脱出し領国の上野国へ逃れました。憲実が上野国へ逃れたことを知った持氏は、憲実討伐のため軍勢を率いて鎌倉を出立し武蔵国府中の高安寺に陣を構えました。

 関東で持氏と憲実の争いが勃発したことを知った将軍義教は、持氏を倒す機会が到来したとばかりに、憲実への援軍を派遣することにしました。8月22日幕府軍が京都を出発し、信濃国守護の小笠原氏に対しても足利持氏討伐の命令が下されました。朝廷は8月28日に後花園天皇が持氏討伐の綸旨を発し錦の御旗が幕府に与えられたのです。

 足利持氏は上杉憲実を攻撃するため一色氏の軍勢を上野国へ派遣する一方、自らは相模国へ進出し西からくる幕府軍を迎え撃とうとしました。しかし、持氏が朝敵となったことが味方に知れ渡ると、持氏軍の中から幕府側へ寝返る武士が続出しました。この情報は上野国で戦って一色軍にも伝わり、一色軍の中からも幕府側へ寝返る武士が次々に現れました。さらに、持氏から鎌倉防衛を任されていた三浦氏が幕府側に寝返り鎌倉を焼き討ちにしたのです。これによって持氏の敗色は決定的となりました。

 持氏は戦闘を中止し剃髪して幕府に対する恭順の姿勢を見せました。しかし、将軍足利義教に持氏を許す気はなく、上杉憲実に対して持氏の命を奪うように命令したのです。1432年上杉憲実は、足利持氏が幽閉されている鎌倉の永安寺を軍勢で取り囲みました。もはや助かる道はないと悟った持氏は、自ら寺に火を放って自害しました。およそ100年の間関東を支配した鎌倉公方はこの時をもって滅亡したのです。

 

 その後、足利義教は自分の息子を鎌倉へ下向させ鎌倉公方に就かせようとしたようですが、実現しなかったそうです。自分は神によって選ばれた将軍だと思い込んでいた義教は独断的な政治を行って暴走し1441年に赤松満祐によって暗殺されます。これを嘉吉の変と呼びます。その前年、関東では持氏方の残党が持氏の遺児である春王丸と安王丸を擁して下総国の結城城に立て籠り、室町幕府に反旗を翻しました。世にいう「結城合戦」です。反乱軍はおよそ1年の間籠城して抵抗しましたが、関東管領上杉清方が率いる幕府軍の総攻撃を受けて結城城は炎上し、反乱軍は壊滅しました。まだ12~13歳の春王丸と安王丸は幕府軍に捕らえられて京都へ護送されていましたが、その途中の美濃国垂井で殺害されてしまいました。

 その時、6歳であった万寿王丸だけは、まだ分別のつかない幼子であるとして命がたすかり母方の里である信濃国の大井氏のもとに匿われ大切に育てられました。一説によれば足利義教は万寿王丸の命も奪おうとしていたようですが、その決断をくだす前に自分の命を失ったのです。生きながらえた万寿王丸は、かつて鎌倉公方に恩顧のあった関東の武将たちにとって、希望の光でした。関東をうまく治めていくためには、どうしても源氏の棟梁の血筋の大将が必要だと考える武士が大勢いたのです。関東の有力武将たちは室町幕府重臣たちに多額の賄賂を渡して、鎌倉公方の復活を嘆願していました。その嘆願が実り、1447年室町幕府は万寿王丸を許して鎌倉公方に就くことを認めたのです。1449年元服した万寿王丸は足利成氏と称して鎌倉入りを果たし第五代鎌倉公方になったのです。しかし、成氏が鎌倉公方になったことが、関東に大戦乱を呼び起こすきっかけとなるのです。それは、享徳の乱とよばれる大戦乱でおよそ30年間も続きました。この大戦乱が関東に戦国時代をもたらすことになるのです。その詳しい話は、「歴史楽者のひとりごと」の中で「鎌倉公方の不在」から始まる一連のブログに書いています。こちらも記事もぜひご一読ください。

 

今回の「東の将軍鎌倉公方シリーズ」を書くにあたって参考にした資料は以下の通りです。

 

関東公方足利氏四代」 田辺久子 

「武蔵武士団」     関 幸彦

「武蔵武士と戦乱の時代」 田代 脩

「日本社会の歴史」(下)網野義彦

日本経済新聞 日本史ひと模様」 本郷和人