歴史楽者のひとりごと

こんにちは、歴史を楽しむ者のブログです。

信長が来る前の京都 何故麒麟はいなくなったのか

 戦国時代は、歴史に興味を持つ者にとって最も関心の深い時代だと思います。私たちは、織田信長武田信玄あるいは上杉謙信など戦国武将たちの活躍を通して戦国時代の歴史を知ることになるのです。彼らは、尾張、甲斐、越後などまず地方を制してから京都へ上り天下統一を目指していきます。そのため、私たちは戦国時代の地方の情勢に関しては様々な知識を持っているのですが、日本の中心である京都の戦国時代についてはほとんど情報を持っていないのです。

 歴史の教科書では、京都で応仁の乱が起こったことで足利将軍の権威は失墜し、日本各地に戦乱が広がり下克上が横行して戦国時代になったといわれています。そして、その戦乱のなから台頭してきた織田信長が天下統一をめざして京都へ上洛するという流れになっています。応仁の乱終結したのが1477年であり、信長が足利義昭を奉じて上洛を果たしたのが1568年です。この約90年の間、私たちの目は地方の歴史に向けられており京都や足利将軍の歴史については全く注目されていないのです。

 NHKの大河ドラマ麒麟がくる」では、向井理さんが演じる13代将軍足利義輝も無力な将軍として描かれています。いったいなぜ、足利将軍は力を失い、三好長慶松永久秀が京都を支配するようになったのでしょうか?そこで、今回は大河ドラマ歴史小説では語られない「信長がくる前の京都」の歴史に光を当て、足利将軍のもとから「何故麒麟がいなくなった」のかを探りたいと思います。

 

 1477年応仁の乱終結し、足利義政日野富子の間に生まれた足利義尚が9代将軍としての地位を確かなものとし、新たな支配者として歩み始めました。ところが、足利義尚は1489年3月25歳の若さで病死してしまうのです。ようやく戦乱の終えた京都に、再び将軍の後継者問題が浮上し戦乱の気配がしのびよってきました。

 このとき、将軍の候補者は二人いました。ひとりは、応仁の乱の主役の一人であった足利義視の息子である足利義稙でした。義稙(よしたね)は、義材(よしき)、義尹(よしただ)と名乗った時代もありますが、本文では義稙で統一します。義稙は日野富子の妹が産んだ子であり、日野富子の支持を得て将軍候補者となりました。

 もう一人の候補者は、堀越公方足利政知の息子である足利義澄です。義澄も義遐(よしとお)、義高(よしたか)と名乗った時代がありますが、本文では義澄で統一します。義澄を支持したのが細川勝元の息子で管領細川政元でした。

 この時の争いでは、日野富子の巨大な財力がものを言ったのでしょうか、義稙が後継者争いに勝利し10代将軍足利義稙となったのです。その後、日野富子と義稙は対立し、富子は義稙を失脚させる政変に加担します。

 1491年将軍となった義稙は軍勢を率いて近江へ遠征し、寺社本所領を横領していた六角高頼を征伐し、将軍としての力を誇示しました。1493年義稙は河内へ遠征し再び軍事力によって己の力を誇示しようと試みました。今回標的とされたのは河内を支配している畠山基家でした。大軍勢を率いた義稙は河内へ向け進軍を開始し、京都を留守にしました。

 このすきをついて義稙に反旗を翻した者がいます。さきの将軍後継者争いで義澄を担いで敗れた細川政元でした。政元は義稙の将軍職を一方的にはく奪すると、足利義澄を将軍の座に就けたのです。この事件は「明応の政変」と呼ばれています。明応の政変には、日野富子や幕府政所を司る伊勢貞宗も加担しています。京都で政変が起きると、不思議なことに足利義稙に従って河内へ遠征していた大軍勢の武将たちは、次々と細川政元の側へ寝返り京都へ帰還してしまったのです。

 見捨てられた義稙のもとに最後まで残っていたのは、わずか40人ばかりの近臣たちだけでした。義稙は細川方に捕らえられ京都に幽閉され、あわや毒殺されるところでしたが、なんとかその窮地を脱出し、越中へ逃れました。このとき、義稙が生き残ったことがその後の歴史を混乱させる要因になるのです。

 さて、細川政元が起こした明応の政変は、公職にもついていない細川政元が、時の将軍の首をすげ替えたのですから、前代未聞の大事件でした。政元は足利義稙が将軍職に就いた時に管領になっていたのですが、たった一日で辞職していたのです。過去にも6代将軍足利義教が播磨守護の赤松満祐に暗殺されるという「嘉吉の変」がありましたが、このときは将軍を殺した赤松満祐は幕府軍によって討伐されており、足利将軍の支配体制はまだ維持されていました。

 しかし、明応の政変が起きたことで、天下の真の支配者は細川政元になり、足利将軍は政元の操り人形にされてしまったのです。なぜ細川政元は、将軍よりも強い権力を握ることができたのでしょうか?その答えは、細川一族の結束にありました。

 政元は細川本家の家督者です。細川本家は代々右京太夫の官途を継承したことから「京兆家」と呼ばれていました。京兆家は摂津、丹波、讃岐、土佐の守護を兼務していました。細川一族は、この京兆家を中心に典厩家、野州家、阿波守護家、和泉上下守護家、備中守護家、淡路守護家があり、細川一族で八か国の守護を独占し近畿から瀬戸内海東部を支配する一大勢力でした。この時代の日本で細川一族ほど広大な分国を領有し瀬戸内海や日本海の経済的な要地を支配している者は他にはいませんでした。

 ここにおいて、日本の歴史の中に新たな支配者の形態が生まれました。細川政元は、公職にはついていませんが、京兆家という細川一族の総帥であるという立場で絶大な権力を手にし、「天下無双の権威」と呼ばれる支配者となったのです。

 

 細川政元は絶大な権力を手にし、その栄華は永らく続くかと思われました。ところが政元は一風変わった生き方をしており、そのことで運命を狂わせてしまうのです。政元は修験道に傾倒していました。そのため、政元は妻帯しておらず跡取りとなる息子がいなかったのです。

 当初、政元は細川高国を養子にしようとしていましたが、政元の母が反対し高国は野州細川家に入れられました。次に政元は前関白九条政基の息子である澄之を養子に迎えました。ところが、細川一族の中から細川家の血筋ではない者に京兆家を継がせることに難色を示す者が現れました。澄之反対派の三好之長は、阿波守護細川家の澄元を擁立して上洛してきました。三好の軍事的圧力に押された政元は、澄元に家督を譲る決断をします。

 細川政元が後継者を誰にするか二転三転したことで、京兆家の家督を巡り三つ巴の争いが起き、一枚岩で結束していたはずの細川一族は分裂してしまったのです。後継者争いは武力闘争に発展し、そのあおりを受けて政元は暗殺されてしまいました。政元の死後、泥沼の後継者争いを制したのは細川高国でした。高国は澄之を自害に追い込むと、西国の太守大内義興に庇護されていた足利義稙と手を結び、細川澄元と三好之長を阿波へ追い落とし、将軍足利義澄も近江へ退かせました。

 細川高国の取った行動は拙速であったと言わざるを得ません。権力者が衰退していく過程の多くは、目先の利益にとらわれて、安易な妥協したために、後に大きな禍根を残し、その禍根がもとで自分が滅びるという図式です。高国の場合は、京兆家の家督を得るために、足利義稙と手を組み、わざわざ将軍家の争いのもとを都に呼び戻したということです。

 

 1508年7月足利義稙が上洛して将軍の座に復位し、細川高国が京兆家の家督を継ぎ大内義興が軍事力を提供して政権を支えるという体制が生まれたのです。一見強固な政権が誕生した印象を受けますが、この政権はガラス細工のようにもろいものでした。

 まず、義稙が政権の主導権を巡り高国や義興と対立します。義稙は、明応の政変で失脚し軍事力も無ければ、経済力もありません。義稙にあるのは、足利将軍家の血筋だけです。身の程知らずの義稙の存在はこの政権の大きな足かせになっていました。 

 そして、政権発足から10年後の1518年大内義興が都を去り、周防へ帰還してしまいます。大内義興は明貿易で巨額の富を稼いでいたのですが、それでも長期間京都に滞在することは大きな負担だったのです。さらに、大内義興が領国を留守にしている間、山陰の尼子氏が勢力を拡大し大内氏の領国をおびやかし始めたのです。そのため、大内義興は帰国せざるを得ませんでした。

 大内義興が京都を去ると、義稙と高国の連合政権は軍事力が大幅に低下しました。その時を待っていたかのように、阿波の細川澄元が動き兵庫へ上陸します。摂津国最大の国人である池田氏が澄元に呼応し高国に対して挙兵しました。

 この動きを見た足利義稙は、澄元が優勢とみて、高国を見限り澄元に京兆家の家督を認めました。いつのころからか、足利将軍家には義稙のようなひきょうな男が出るようになってしまいました。このような男が足利家の力をどんどん弱めていくのです。ともあれ、義稙が高国から澄元に乗りかえ、阿波からは三好之長が2万の軍勢を率いて上洛を果たし、足利義稙、細川澄元、三好之長による政権が誕生しました。

 しかし、細川澄元が病にかかったことで、状況は一変しました。阿波軍勢の総大将である澄元が弱っているすきをついて、細川高国が反撃に出たのです。高国は近江の六角氏や朽木氏、越前朝倉氏、美濃土岐氏丹波内藤氏を味方につけ洛北で三好之長の軍勢と対決し勝利をあげました。総大将の澄元を欠いた阿波の軍勢のなから高国側へ寝返るものが続出したのです。敗れた三好之長は切腹させられ、細川澄元は阿波へ逃れましたがそこで死にました。そして、足利義稙も淡路へ逃げたのです。

 1521年細川高国後柏原天皇即位式を執り行い天皇の信任を得て京兆家の家督を継ぎ、足利義澄の遺児である足利義晴を新将軍として京都に迎えたのです。

 一方、このとき淡路へ逃れていた足利義稙は阿波へ渡っていました。義稙のもとには養子の義維(よしつな)がいました。この義維は足利義澄のもうひとりの遺児でした。こののち、義維は義晴と将軍の座を争うことになっていくのです。

 

 織田信長が誕生したのは1534年のことです。信長が生まれる以前から京都では権力の座を巡る激しい戦乱が起こっていたわけです。近畿、瀬戸内海東部の八か国を領有する細川一族は絶大な権力を手にし、一族の総帥である京兆家の細川政元は、明応の政変を起こし将軍の首をすげ替えることさえできる支配者となっていました。

 しかし、政元に実子がいなかったために京兆家の家督相続をめぐる争いが生じ、細川一族は分裂してしまいました。細川高国家督相続争いを有利に運ぶため、足利義稙と手結び、細川家の争いに加えて将軍の座を巡る争いも再燃してしまいました。権力を巡る争いは手段を選ばず、武力に勝ることが最優先されます。そのため、戦いのすそ野は広がっていきました。足利氏も細川氏も軍事力を提供してくれる味方を必要としたのです。

 ところが、大内義興の例にみられるように、遠国から京都に遠征してきても長期間滞在することは不可能です。そのため、足利氏も細川氏も、京都周辺の有力国人衆はもとより、一向宗法華宗など宗教勢力であっても軍事力を持っている集団を利用しようとしました。いつしか、争いの主導権を握るのは、実際の軍勢を動員できる国人衆や宗教勢力に移ってしまい足利氏や細川氏は彼らを制御できなくなってしまったのです。彼らは自分たちの勢力を拡大するため勝手に争いをはじめ、京都はその戦場となってしまったのです。

 かくして、信長がくる前の京都は戦乱の巷と化し、世に平和をもたらす麒麟はいなくなってしまいました。将軍や細川氏は自分の身を守るため、味方になってくれる有力武将のもとに逃げ込むしかなかったのです。

 一方、阿波からは三好長慶畿内に進出してきました。1539年長慶は越水城に入城しここを拠点として摂津西半国を支配下におさめ畿内に根を下ろしました。阿波の領地は弟たちに任せることで畿内と四国の両方で軍事力を養い、世に出る機会をうかがっていたのです。長慶の活躍とその後の権力争いのゆくえは、また次回にお話しします。

 

 

今回の参考文献

 「応仁の乱」 呉座勇一 中公新書

 「室町幕府分裂と畿内近国の胎動」 天野忠幸 吉川弘文館