歴史楽者のひとりごと

こんにちは、歴史を楽しむ者のブログです。

江戸の行楽地「深川」を散歩する

 知り合いの人に誘われて阪急交通社が企画した「深川史跡巡り」に参加しました。江戸時代の面影が残る深川の町をガイドさんの案内で散策する街歩きです。

 案内役は、自称「江戸町人」の素敵な女性ガイドさんです。ガイドさんの豊富な知識とわかりやすい説明を聞きながら、深川の町に残る江戸の痕跡を探して歩く旅は楽しいひと時となりました。当然のことながらコロナ感染防止対策を万全に整えての企画です。

 さて、ガイドさんからお聞きした説明をもとにして、江戸時代の深川の様子を思い描いてみましょう。

 江戸時代の初期、深川一帯は江戸湾に接しており中洲や小島が点在する場所だったそうです。そのような深川が発展するきっかけとなった場所が永代島と呼ばれていた小島でした。寛永四年(1627)に菅原道真の末裔といわれる長盛法印が神託を受け、この島に八幡神を祀ったのです。

 やがて、深川一帯は干拓や埋め立てによって開発が進み永代島も陸地となりました。八幡神を祀った社は、富岡八幡宮別当寺(神社を管理する寺院)の永代寺へと発展しその門前には茶店や商店はもちろんのこと非公認の遊郭である「岡場所」が建ち並ぶようになりました。その賑やかさを目当てにして、江戸市中から大勢の人々が深川を訪れるようになり、深川は江戸の一大行楽地となったということです。

 深川が、発展した理由は行楽地だけではありません。もともと海辺だった深川の町中には縦横無尽に水路や運河が通っていました。それらは、江戸湾と江戸市中をつなぐ重要な交通網だったのです。そのため、深川は江戸の物流拠点となりました。特に栄えたのが材木問屋でした。当時の江戸は、建設ラッシュの真っ最中であったので材木の需要は無尽蔵にあり多くの材木問屋が深川に軒を並べたのです。その中には豪商として有名な紀伊国屋文左衛門もいたということです。

 また、深川には数多くの寺院が集まりました。そのきっかけとなったのが明暦三年(1657)に江戸を襲った「明暦の大火」です。この大火の後、「霊巌寺」などの大寺院が深川へ移転してきたのです。現在も、深川には江戸時代から続く歴史ある寺院が数多く残っています。今回の街歩きでは、そのようなお寺を訪れ閻魔大王や巨大なお地蔵さまに出会うことができました。

 深川は、行楽地、物流拠点、寺院など様々な表情を持った町でした。さらに、深川は江戸時代の文化人たちを生み出した町でもありました。「南総里見八犬伝」の作者である滝沢馬琴は深川の生まれです。また、松尾芭蕉は、奥の細道へ旅立つ前に深川へ移り住んでいました。

 元禄時代芭蕉は江戸日本橋に居を構え俳句の世界で隆盛を極めていました。その当時の江戸では俳句の愛好者が集まり句会を催すことが流行していました。参加した人々は芭蕉のような師匠から自作の俳句に点数をつけてもらい、中にはその点数の優劣にお金を賭ける不届き者をいたのです。

 芭蕉は句会に参加する顧客から謝礼を受け取っていました。江戸で屈指の俳句師である芭蕉ですから多額の謝礼を貰うことが可能でした。もしも、芭蕉がその生活に満足していれば、「奥の細道」は誕生しなかったでしょう。

 しかし、芭蕉は当時の江戸の俳句に危機感を抱いていたのです。「このままでは、俳句は単なる庶民の道楽で終わってしまう。しかし、自分はそれを見過ごすことはできない。ここは、なんとしてでも俳句を芸術の域に高めるため自分が俳句の道を究めるしかない。」このような思いが、芭蕉の胸の内にはあったのです。

 そこで、芭蕉は富も名誉も捨て、俳句の道を究めるために奥の細道へ旅立ったのです。その旅の出発点となったのが深川でした。今回の街歩きで私が最も心を惹かれたのは、このような芭蕉の生き様でした。なんと高尚な生き様でしょう。人間かくありたいものです。

 さて、最後に現在の深川にも触れておきましょう。江戸時代に繁栄を極めた材木問屋はすっかり影をひそめ、お洒落なカフェへと変貌を遂げていました。なんでも、材木倉庫は天井が高くコーヒーを焙煎するのに都合がよく、ゆったりとした空間でコーヒーを楽しむのに最適だそうです。最近では、深川でカフェ巡りをする人たちも増えているそうです。

 深川の史跡を巡る街歩きは、江戸時代の歴史に触れることはもちろんのこと、江戸時代から現代へ続く歴史の営みを知る旅となりました。

 

今回参考にさせて頂いた資料は以下の通りです。

このまちアーカイブス(三井住友トラスト不動産) 東京都 深川・城東 編

おくのほそ道を旅しよう 田辺聖子 角川ソフィア文庫