歴史楽者のひとりごと

こんにちは、歴史を楽しむ者のブログです。

2020-01-01から1年間の記事一覧

関東の戦国 戦国武将と化した関東足利氏

大永四年(1524年)正月北条氏綱は扇谷朝良の居城である江戸城を急襲し、城を奪い取りました。敗れた扇谷朝良は、武蔵国の河越城へ退き上野国の上杉憲房や甲斐国の武田信虎と手を結び態勢の立て直しを図っていました。 上野国の平井城を居城とする関東管領上…

関東の戦国 北条氏綱の江戸城攻略

関東の名門武家上杉氏の先祖は、もともと京都の公家でした。鎌倉時代の中頃、上杉氏の先祖は皇族初の将軍となった宗尊親王に従って鎌倉に下向し武家となったのです。このとき、上杉重房は丹波国上杉庄を領地として賜り、その土地の名にちなんで上杉氏を名乗…

関東の戦国 長尾為景の下克上と上杉顕定の死

関東の戦国時代は山内上杉と扇谷上杉の覇権争いで幕を開けました。この争いは17年間続きましたが、永正二年(1505年)に扇谷朝良が降伏したことでようやく決着しました。両上杉の争いに勝利したのは関東管領上杉顕定でしたが、長い戦いで両上杉とも疲弊し関…

関東の戦国 山内上杉と扇谷上杉の覇権争い

室町時代に関東管領を代々世襲してきた山内上杉家は関東公方の執権として上野、越後など広大な領国を持ち関東に勢力を広げていました。しかし、享徳三年(1454年)に享徳の乱が始まると、太田道灌が家宰を務める扇谷上杉家が次第に勢力を拡大し山内上杉家に…

将軍足利義輝を死に追い込んだのは誰か

永禄8年(1565年)5月将軍足利義輝は三好義継と松永久通によって暗殺されました。歴史上在任中の将軍が暗殺されたのは義輝を含めて3人です。3代鎌倉将軍源実朝(頼朝の二男)は甥の公暁(くぎょう)によって暗殺されました。また6代室町将軍足利義教は播磨国…

信長がくる前の京都 三好長慶の天下

明応2年(1493)細川政元が起こした「明応の政変」こそは、日本を戦国時代に突入させた真の引き金でした。政元は京都でクーデターを起こし、将軍の首をすげ替えたのです。将軍の首をすげ替えることさえ可能な細川京兆家の絶大な権力を巡り、政元の3人の養子…

信長が来る前の京都 何故麒麟はいなくなったのか

戦国時代は、歴史に興味を持つ者にとって最も関心の深い時代だと思います。私たちは、織田信長や武田信玄あるいは上杉謙信など戦国武将たちの活躍を通して戦国時代の歴史を知ることになるのです。彼らは、尾張、甲斐、越後などまず地方を制してから京都へ上…

関東の戦国 北条早雲の伊豆侵略はかたき討ちのためだった

関東の戦国時代の幕開けは、北条早雲による伊豆侵略です。これは、一介の浪人であった伊勢新九郎が駿河の今川家の食客となり堀国公方茶々丸を追放して伊豆一国を手に入れた出世物語であり、戦国時代の下克上の代表例として捉えられてきました。ところが、近…

太田道灌 戦国時代前夜を鮮やかに駆け抜けた悲運の名将 後編ー当方滅亡

◆関東管領方の内情 1477年5月利根川東岸へ逃れていた関東管領上杉顕定は、太田道灌に守られて五十子陣へ帰還した。このとき享徳の乱が始まって既に23年もの歳月が流れていたが、その間に関東管領方の顔ぶれは大きく様変わりしていた。享徳の乱は、1454年に関…

戦国末期に徳川家康と手を結んだオランダとはどんな国だったか

7月5日に放送された「NHKスペシャル 戦国 激動の世界と日本(2)徳川家康×オランダ」は非常に見応えのある番組でした。徳川家康の天下取りを陰で支えていたのがオランダであり、対する豊臣家にはスペインが肩入れしていたということを私は初めて知りとて…

太田道灌 戦国時代前夜を鮮やかに駆け抜けた悲運の名将 中編ー名将道灌

◆堀越公方の登場 1458年室町幕府の八代将軍足利義政は、弟の足利政知を関東へ派遣した。室町幕府は足利政知を新たな鎌倉公方として就任させ、古河公方足利成氏に対抗させようとしたのだ。しかし、足利政知は鎌倉入りを果たすことができなかった。そのころ、…

太田道灌 戦国時代前夜を鮮やかに駆け抜けた悲運の名将 前編ー江戸城築城

東京都千代田区丸の内にある東京国際フォーラムは、ガラス張りの外観と船の竜骨をイメージしたデザインが印象的なビルである。この現代的なビルの一角に、古式ゆかしい狩装束に身を包んだ武人の像が置かれている。武人の名は太田道灌。徳川家康に先駆けるこ…

感謝 アクセス数が一万件を突破しました!

歴史楽者のひとりごとをご覧のみなさまへ 昨夜当ブログのアクセス数が一万件を突破しました。 一年九か月前に始めたブログですが、私が考えていたよりもはるかに多くの方々からアクセスを頂き、本当に感謝しております。ありがとうございます。 今は長い自粛…

一杯の日本酒から辿る歴史 佐竹氏

安倍政権は緊急事態宣言を出しましたが、新型コロナウィルスの猛威は一向に衰える気配をみせません。そのおかげで私たちは不要不急の外出を控え、家にこもる日々が続いています。おかげで、本を読む機会はずいぶん増えましたが、それでも時間はあり余るほど…

戦国大名を生み出した足利義満の政策

室町幕府の3代将軍足利義満は室町幕府の全盛期を築き上げましたが、しっかりとした後継者を育てることなく急死してしまいました。義満の跡を継いだ凡庸な息子たちは歴史の大転換点において足利将軍家の繁栄を継続するための未来設計図を持ち合わせておらず、…

室町時代を戦国時代へと向かわせた歴史的大転換点 足利義満の死

1.いまは歴史の大転換点 日本はいま新型コロナウイルスの猛威にさらされ非常に困難な時代を迎えています。ほんの数か月前まで日本の未来は希望に満ちあふれているような気がしていました。インバウンドによる好景気、平成から令和の改元と新天皇のご即位に…

鎌倉公方がNHK大河ドラマの主人公になれない訳

鎌倉公方とはいったいどんな存在であったのか、私は好奇心に駆られてその実像を調べました。おもしろいことに、鎌倉公方の歴史を調べることは、関東の視点から室町時代を考えるということにつながっていきました。さらに、想定外の非常事態に直面したことが…

徳川家康が最も恐れた刀 妖刀村正

皆さんは「妖刀村正」をご存じでしょうか。刀女子や刀大好きなオジサンなら知っていてあたりまえですが、歴史は好きだけど日本刀はあまり興味ないという方も是非ご一読下さい。 日本刀には数々の名刀があり、今日でも歴史に縁のある名刀が博物館に所蔵されて…

東の将軍 鎌倉公方 その10-足利持氏 室町将軍に挑み死す

上杉禅秀の乱終結後の関東 1417年1月上杉禅秀の乱は終結しました。無事に鎌倉へ戻ることのできた足利持氏は、反乱に加担した者たちへの討伐に着手しました。この年持氏は、上野国の岩松満純、甲斐国の武田信満を討伐しました。彼らは上杉禅秀の乱に加担した…

東の将軍 鎌倉公方 その9ー 上杉禅秀の乱

満兼の死後、その跡を継いで四代鎌倉公方に就いたのは満兼の嫡男幸王丸でした。関東足利家は初代鎌倉公方基氏の尽力によって関東を平定し、その後二代氏満、三代満兼と安定した政権を確立し関東を支配してきました。ところが、四代幸王丸(元服後は持氏)が鎌…

東の将軍 鎌倉公方 その8ー 井の中の蛙だった足利満兼

1398年足利氏満は、病で亡くなりました。享年40才です。両上杉の管領に支えられた氏満は、関東の支配体制を充実させ、鎌倉公方を関東の将軍ともいえる立場へ押し上げたのです。氏満の跡を継ぎ三代鎌倉公方の座に就いたのは、氏満の嫡男である満兼でした。初…

東の将軍 鎌倉公方 その7ー 康暦の政変と足利氏満

1367年に急死した足利基氏の跡を継いで二代鎌倉公方の座に就いたのは、基氏の嫡男氏満でしたが、この時まだ9歳でした。幼い関東公方にとって幸いだったのは、父基氏が命を懸けて関東平定に邁進したことで、氏満の代になると関東の軍事情勢が落ち着いていたこ…

東の将軍 鎌倉公方 その6ー 平一揆の反乱と上杉氏

基氏の跡を継ぎ二代鎌倉公方の座に就いたのは、基氏の嫡男である氏満でした。このとき氏満はまだ9歳でしたが、京都の将軍義詮は氏満が鎌倉公方を継承することを容認したのです。この事実によって、鎌倉公方は足利基氏の子孫が代々世襲していくことになるので…

東の将軍 鎌倉公方 その5ー 基氏関東平定に乗り出す

新田義興の暗殺 1358年足利尊氏は京都で他界しました。享年54歳でした。尊氏が亡くなると南朝方の動きが再び活発になりました。尊氏に敗れ越後へ逃れていた新田義興が、再び関東へ攻め込む準備を始めたのです。義興が攻め込んでくることを恐れた鎌倉公方足利…

東の将軍 鎌倉公方 その4ー 基氏、将軍の力を手に入れる

前回のお話で、ようやく初代鎌倉公方足利基氏が登場するところまでたどり着きました。少し遠回りをしましたが、鎌倉公方がいかなるものであるのかを知るためには避けては通れない道なのです。歴史を学ぶことは、暗記ではなく過去の壮大な物語を理解すること…

東の将軍 鎌倉公方 その3ー 足利義詮京へ上る

1343年千寿王は元服し足利義詮と名乗りました。鎌倉の主である義詮は、足利政権の関東方面軍司令官として関東十ヵ国ににらみをきかしていました。本来ならば、足利義詮こそが初代鎌倉公方と呼ばれるべきですが、義詮はこの後京へ上り、父足利尊氏の跡を継い…

東の将軍 鎌倉公方 その2ー 尊氏鎌倉府を設置する

1333年鎌倉幕府は滅亡しました。北条氏がいなくなった鎌倉を占拠したのは、足利尊氏の嫡男千寿王を旗頭とする足利の軍勢でした。鎌倉幕府を倒した最大の功労者である新田義貞が京都の後醍醐天皇に拝謁しに行った隙をついて、足利氏は易々と源氏の聖地である…

東の将軍 鎌倉公方 その1ー 尊氏鎌倉を手に入れる

1336年湊川の合戦で宿敵楠木正成を倒した足利尊氏は、武家政権を樹立する目的で建武式目を定めました。建武式目において、尊氏は京都に幕府を開くことを明らかにし、鎌倉には関東十ヵ国(相模、武蔵、上総、下総、上野、下野、常陸、安房の関東八ヵ国に加えて…