歴史楽者のひとりごと

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東の将軍 鎌倉公方 その2ー 尊氏鎌倉府を設置する

1333年鎌倉幕府は滅亡しました。北条氏がいなくなった鎌倉を占拠したのは、足利尊氏の嫡男千寿王を旗頭とする足利の軍勢でした。鎌倉幕府を倒した最大の功労者である新田義貞が京都の後醍醐天皇に拝謁しに行った隙をついて、足利氏は易々と源氏の聖地である鎌倉を手にいれることができたのです。
しかし、足利氏にとっても鎌倉を守り続けることは容易なことではありませんでした。1337年7月北条高時の遺児時行が、北条方の残党を集めて突如鎌倉を襲撃してきたのです。世に言う「中先代の乱」です。この時鎌倉には後醍醐天皇の皇子である成良親王を奉じた足利直義と千寿王がいました。足利尊氏後醍醐天皇に対して関東十ヵ国を支配する鎌倉将軍府を創設することを要求していました。後醍醐天皇は尊氏の要求を受け入れつつ、鎌倉将軍の座には自分の皇子を据えることで尊氏の武力を抑制しようと考えたのです。
北条時行は、後醍醐天皇足利尊氏が主導権争いをしている隙をついて鎌倉を襲撃してきたのです。不意をつかれた足利直義らは、北条時行の急襲を防ぎきれず鎌倉を放棄して東海方面へ逃げ出しました。直義と千寿王は三河国矢作で京都から救援にかけつけてきた足利尊氏の軍勢と遭遇したのです。
ここで、成良親王は京都へ戻ることになり、尊氏の軍勢と合流した直義と千寿王の軍勢は鎌倉へ引き返すことになりました。尊氏の率いた軍勢は戦意旺盛であり、鎌倉へたどりつくと瞬く間に北条氏の残党をせん滅しました。
鎌倉を奪還した足利尊氏は、ついに後醍醐天皇に反旗を翻しました。鎌倉幕府を倒した後、尊氏と後醍醐天皇は互いに反目し合っていました。後醍醐天皇は公家中心の政権を打ち立て、貴族たちは権力の座に返り咲いたことに夢中になり、足利氏など武家のことは全く顧みていなかったのです。
後醍醐の政策に不満をつのらせていた尊氏は、武家による政権を樹立し鎌倉幕府を倒した武士たちの働きに報いてやりたいと考えていたのです。尊氏謀反の報を受けた後醍醐天皇は、新田義貞に尊氏追討の命を下しました。
義貞は尊氏討伐の軍勢を率いて鎌倉へ発進しました。義貞は尊氏に対して強い敵意を抱いていました。同じ源氏の棟梁の血を引きながら、坂東武者の棟梁のような振る舞いをしている尊氏をゆるせなかったのです。義貞の胸中は、これぞ尊氏を倒す千載一遇の好機であり、この機会に尊氏を完膚なきまでに叩きのめし、新田こそが武家の棟梁であることを天下に知らしめてやると意気込んでいたことでしょう。
しかし、勝ちを急いだ新田義貞は、京都を発進する際に楠木正成から受けた忠告に耳をかさず鎌倉への攻撃を仕掛けたので、尊氏からの反撃を受け箱根・竹ノ下の合戦に敗れ京都へ逃げ戻ったのでした。ちなみに楠木正成の忠告とは、箱根の西側に防御線を構築し尊氏を関東に封じ込めるという作戦でした。この作戦に従うと、尊氏を倒すという新田義貞の願望は叶わなかったのです。
逃げる新田を追いかけ尊氏は京都へ攻め込みます。この時も、尊氏は鎌倉に千寿王を残して行きました。京都へ攻め込んだ尊氏の軍勢は、いったんは勝利を挙げ洛中へ入りました。しかし、後醍醐方の武将で軍事の天才である楠木正成の奇策によって尊氏は敗れ、京都を追われて九州へ敗走したのです。
ところが九州では、尊氏に味方する武士が大勢いました。1336年勢力を盛り返した足利尊氏は、西国の軍勢を率いて再び京都へ攻め込みました。行く手に待ち受けていたのは宿敵楠木正成です。尊氏は湊川の合戦でついに楠木正成を倒しました。軍事力の要であった楠木正成を失い、後醍醐方は京都を尊氏に明け渡しました。
1336年8月足利尊氏光明天皇を擁立し北朝を再建しました。同年11月には建武式目を制定し鎌倉府を設置したのです。一方、京都を追われた後醍醐天皇は、吉野へ逃れここで新たな政権を樹立しました。この時から持明院統天皇を擁する北朝と、大覚寺統天皇を擁する南朝という二つの朝廷が出現し、南北朝の争乱が続くことになるのです。
なお、後醍醐方が京都を失った際、新田義貞は北陸方面へ逃げ、敦賀にある金ヶ崎城に立て籠りました。しかし、金ヶ崎城は周囲を足利の軍勢に取り囲まれ兵糧攻めに遭いました。飢餓に苦しめられた金ヶ崎城は落城します。この時新田義貞は生き残りますが、1338年越前藤島城を攻撃中に戦死しました。
さて、1336年鎌倉府が設置された時、鎌倉の主となったのは足利尊氏の嫡男千寿王でした。このとき千寿王はまだ6歳でした。当然のことながら6歳の幼子に鎌倉府の仕事が勤まるはずはなく、尊氏は千寿王の補佐役を置きました。その役目に就いたのは、足利氏の親戚である斯波氏や細川氏、あるいは足利氏の有力な被官である上杉氏や高氏です。こうして鎌倉府による関東支配の基盤作りが始まったのです。