歴史楽者のひとりごと

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太田道灌 戦国時代前夜を鮮やかに駆け抜けた悲運の名将 後編ー当方滅亡

関東管領方の内情

 1477年5月利根川東岸へ逃れていた関東管領上杉顕定は、太田道灌に守られて五十子陣へ帰還した。このとき享徳の乱が始まって既に23年もの歳月が流れていたが、その間に関東管領方の顔ぶれは大きく様変わりしていた。享徳の乱は、1454年に関東上杉憲忠鎌倉公方足利成氏の軍勢によって謀殺されたことによって始まったが、その後関東管領に就いたのは殺された上杉憲忠の弟である上杉房顕であった。その房顕は、1466年に五十子陣中で急死した。享年32歳の若さであった。このとき山内上杉家には房顕の跡を継ぐのにふさわしい者がいなかったのであろうか、山内上杉家家督を継いだのは越後国守護上杉房定の二男である顕定であった。翌1467年に上杉顕定は14歳で関東管領職についたのである。同じ年、関東管領方を長年支えてきた扇谷持朝も52歳で病死している。扇谷家の家督を継いだのが孫の政真であったが、政真は1473年に22歳で討ち死にした。政真の跡を継いだのが扇谷定正である。このように、関東管領方は長い戦乱の中で首脳陣が相次いで亡くなっていたのである。関東管領方が劣勢に陥っていたのは、このことが原因であるのかもしれない。

 しかし、1477年太田道灌が主導権を握って戦場に登場した後、関東管領方はようやく優勢な立場をとることができるようになった。道灌はこの時46歳の働き盛りである。一方、関東管領上杉顕定は24歳、道灌の主君である扇谷定正は35歳であった。

 道灌は、関東管領方を勝利に導くため若い二人の上司に対して様々な進言をするのだが、道灌の進言が却下されることが度々あったという。上杉顕定が信頼していたのは山内上杉家の家宰である長尾忠景であった。家格では長尾家が太田家よりはるかに上位であったので、顕定は道灌をどこか見下していたのかもしれない。また、顕定と忠景は年齢が近く何かと話が合ったのかもしれない。しかし、道灌の目には長尾忠景は佞臣として映っていた。この頃道灌は上野国内で長尾景春の軍勢と戦っていたのだが、忠景の横やりが入ることで道灌の作戦は支障をきたし、長尾景春を何度も取り逃がしていたのだ。

 あるとき、太田道灌は長尾忠景には相談せず独断で作戦行動を開始した。このとき長尾景春は梅沢というところに陣を置いていた。忠景の主張では、梅沢は要害であるので攻撃するのは困難であるとのことだった。しかし、道灌の考えは違っており、梅沢へ迫り景春軍の退路を断とうとすれば景春軍は梅沢から平地へでてくると考えたのである。実際に道灌が作戦行動を開始すると、道灌軍の動きに動揺した景春の軍勢は梅沢の陣から出て後退を始めたのである。景春軍が逃げ出したことに気が付いた山内上杉、扇谷上杉、長尾忠景らの軍勢は全軍でこれを追いかけ用土原というところで合戦になり、長尾景春の軍勢は大敗して鉢形城へ戻ったのである。道灌の作戦がまんまと的中したのだ。

 用土原の合戦で大敗し窮地に陥った長尾景春は、古河公方足利成氏に救援を求めたのだ。1477年7月古河公方は結城、那須、佐々木などの軍勢数戦騎を従えて景春の援軍に出てきたのである。景春軍と古河公方軍が合体したことで、関東の戦乱は再び古河公方関東管領という図式に戻ったのである。

 

◆広馬場の対陣

 1477年12月古河公方足利成氏は長年の戦いに決着をつけるため、八千騎の大軍勢を率いて出陣し広馬場というところに陣を敷いた。広馬場とは、群馬県榛名山麓にある榛東村付近のことである。古河公方の動きに対して、山内・扇谷両上杉の軍勢五千騎は上野の白井城を出て広馬場に進軍し、古河公方軍の北側に陣を展開した。この時、太田道灌古河公方軍の背後から攻撃する作戦を主張したが、越後勢は白井城を背にして戦う方が有利だとして道灌の作戦を受け入れなかった。

 古河公方の軍勢には松陰という僧侶が従軍していた。室町時代の合戦では陣僧と呼ばれる僧侶が戦場に従軍し戦死者を弔っていたのだ。その陣僧のなかには合戦の記録を残した者もいる。松陰は「松陰私語」という文書を書き残しているが、そのなかで広馬場の対陣についてふれている。それによると、古河公方軍と両上杉軍は2里ほどの距離をおいて対峙し、広馬場には両軍の将兵が満ちあふれていたという。両軍が展開している様子は日本の歴史上かつてないほどの規模で、その昔起きた源平合戦でさえこれほどの大軍勢同士が決戦に臨んだことはないだろうと松陰は語っている。広馬場の大軍勢は戦機が熟すのを今や遅しと待っていた。

 ところが、戦端が開かれる前に広馬場一帯は突然の大雪に見舞われたのである。この急激な天候の悪化で両軍の将兵は戦意を喪失し広馬場の決戦は起きなかったという。そして、上杉方から使者が出て古河公方への和睦を申し入れたのだ。話し合いの結果、関東管領古河公方室町幕府の和議を仲介することを条件に停戦が成立したのである。こうして、1478年正月に両軍は広馬場の対陣を解いてそれぞれ引き上げていったのである。

 

◆下総千葉氏との戦い

 太田道灌上野国内で長尾景春と戦っていたころ、道灌不在の江戸では、豊島氏が再び活動を始めていた。豊島氏は平塚城に立て籠り、江戸と河越の連絡を遮断したのである。しかし、広馬場の対陣が解けて道灌が河越まで戻り、平塚城の豊島氏を攻撃する姿勢を見せると、豊島氏は平塚城を捨てて逃げ出したのである。道灌は豊島氏を再起不能にするために徹敵的な掃討戦を展開した。豊島氏は景春方の小机城に逃げ込んだが、1478年4月道灌は小机城を陥落させ、豊島氏はこのときの合戦で滅亡したのだ。豊島氏の所領は扇谷家が全て没収しその大部分が道灌の所領になったという。

 同年8月太田道灌は景春方の下総千葉氏の攻略に乗り出した。享徳の乱が勃発すると関東の名門千葉氏は下総千葉氏と武蔵千葉氏の二流に分かれて争いを続けていた。千葉氏本家の血を引く武蔵千葉氏の千葉自胤は道灌の味方についており、江古田・沼袋の合戦では道灌軍の別動隊として活躍した武将である。千葉自胤は、その後も道灌に従って長尾景春との戦いに参戦していたのだ。道灌は下総千葉氏を倒し、千葉自胤の本来の所領である下総を取り戻そうしていたのである。

 一方、下総千葉氏は千葉氏の傍流でありながら古河公方の支援を受けて千葉氏本家の家督を奪い取ったのである。下総千葉氏の首領千葉孝胤は、先に結ばれた古河公方関東管領の停戦協定に反対し戦いを続けることを主張していた。道灌にとって千葉孝胤をたおすことは、古河公方との停戦を維持するためにも必要なことであった。そのため、道灌は千葉孝胤を攻撃する前に、古河公方の了承を得る必要があった。孝胤を攻撃する目的は、武蔵千葉氏を本家に戻すための軍事行動であり、停戦協定を破る行為ではないということを示しておく必要があったのだ。道灌は扇谷定正上杉顕定に依頼して話を通してもらい、下総千葉氏攻撃に関する古河公方の了承を得たのである。 

 同年12月道灌率いる扇谷勢と武蔵千葉勢は下総に攻め込んだ。道灌は国府台に進出しここに陣を張った。国府台は江戸川に面した高台であり要害の地である。JR総武線に乗って東京から千葉方面へ向かうとき、江戸川を渡る鉄橋の左手に見える高台がそれである。この地は戦国時代に何度も決戦の場となっているが、この地に砦を築いたのは道灌が最初であった。一方千葉孝胤は千葉城を出撃し境根原に陣を敷いた。両軍は境根原で激突し道灌軍が勝利した。敗れた千葉孝胤は下総の白井城に籠城したが、孝胤には上総の武田氏が援軍につき激しく抵抗したので戦いは長期化した。道灌は上杉顕定に援軍を頼んだが、顕定の援軍が来ることはなかった。顕定の周辺には佞臣がおり下総の戦いは道灌の私戦であるから援軍を送る必要なはいと言っていたのである。

 1479年正月、長い戦いの末太田道灌白井城を陥落させた。しかし、千葉孝胤を仕留めることはできず孝胤は千葉城へ逃げかえっていた。また、この戦いでは道灌の弟である太田資忠が討ち死にしている。白井城は千葉自胤の城となったが、道灌にとっては大きな代償を伴う勝利であった。さらに、この戦いで道灌は古河公方の協力を仰ぐことになり、道灌と古河公方の距離は接近したが、上杉顕定は両者の接近を快く思っていなかったようである。顕定の心なかでは、道灌は自分の存在を脅かす危険な存在となりつつあった。

 

長尾景春を追い詰める

 1479年9月長尾景春が長井六郎とともに武蔵で蜂起した。蜂起した当初、景春は長井城(埼玉県熊谷市)に入っていたが、やがて秩父に本拠地を移した。道灌は休む間もなく景春退治に奔走することになった。道灌は攻略しやすい長井城から攻撃を始めた。1480年正月に長井城は陥落し、景春は秩父日野城に立て籠っていた。

 長井城が攻略され長尾景春は孤立無援の状況に陥るかと思われたが、そこに救援の手を差し伸べた者がいる。古河公方足利成氏である。成氏は室町幕府との和議が一向に進展しないことに腹を据えかねていた。関東管領と結んだ停戦協定では、関東管領が成氏と幕府の仲介をすることが条件になっていたが、関東管領が幕府に和議の斡旋をした様子は皆無であった。

 道灌は関東管領上杉顕定に和議の仲介を進めるように進言したが、顕定はこれに応じなかった。関東管領が和議の仲介に動かないことに業を煮やした古河公方は、東上野に軍勢を送り関東管領を牽制した。古河公方の動きに応じて公方に味方する者や景春に味方する者が不穏な動きを見せ始めた。

 戦況が著しく変化したので、太田道灌秩父の戦場を離れ江戸城に戻り態勢を立て直すことにした。道灌は江戸城の守りを固めた上で再度秩父へ進軍したのだ。道灌が秩父に着陣すると、上杉顕定から急いで日野城を攻略するように命令が出された。道灌はあらゆる手段を尽くして日野城を攻撃し1480年6月に日野城は陥落した。長尾景春日野城を脱出して古河公方のもとへ逃げ込んだが、これ以降反乱を起こすことはなかった。太田道灌日野城を攻略したことで、4年に渡る長尾景春の乱にようやく終止符が打たれたのである。

 

上杉顕定との軋轢

 文明14年(1482年)11月室町幕府古河公方足利成氏との間で和睦が成立した。ここにおいて28年に渡る享徳の乱がようやく終結したのである。1485年太田道灌江戸城でひとときの平和を楽しんでいた。道灌は美濃より万里集九を招き盛大な歌会を催していた。華やかな宴の席にいた道灌ではあったが、その胸中には複雑な思いが去来していたにちがいない。

 長尾景春の乱を終結させ関東に平和をもたらしたのは、ひとえに道灌の働きによるものであった。長尾景春の乱が勃発した時、油断していた上杉勢は五十子陣を落とされ、顕定をはじめとする主力はそろって利根川東岸へ避難しなす術もなかったのだ。相模、武蔵では景春の与党が次々に蜂起し、道灌は江戸城で四面楚歌の状況に追い込まれていた。

 しかし、道灌はこの状況に動じることなくただ一人で敵に立ち向かっていったのだ。相模の敵を倒し、豊島勘解由左衛門尉を江古田・沼袋の合戦で打ち破り、豊島勢の籠る石神井城は落城した。相模・武蔵の敵を一掃した道灌は、上野へ転戦し景春軍を追い払い上杉顕定を五十子陣へ、扇谷定正河越城へそれぞれ無事に帰還させたのである。

 古河公方関東管領の間では停戦協定が結ばれたものの、長尾景春や千葉孝胤はこれに従わず反乱の火は燻り続けていた。道灌はまたしても東奔西走し、長尾や千葉を征伐したのである。長い戦いの中で、道灌のもとには関東中から数多くの武将が馳せ参じ敵方との戦いに身を投じてくれたのである。道灌は彼らの労に報うべく、上杉顕定に恩賞の沙汰を上申したのだ。しかし、顕定からは何の音沙汰もなかった。これに対し道灌は再度書状を出して、顕定に催促していたのだ。この書状が太田道灌状である。

 顕定の周辺には佞臣がおり、道灌と共に戦った武将の軍功に対する恩賞を出すことに反対していたのである。佞臣どもは、五十子陣の帷幕の内で汗もかかずにただひたすら顕定の機嫌をとることに執心していた。佞臣どもの讒言を聞いていた顕定は、大局を見る目がなく、道灌の戦いは贔屓にしている武将に恩賞・所領を与えるための私戦だとみなしていた。道灌と顕定の間には大きな軋轢が生じていたのだ。

 顕定は戦場に出て陣頭指揮を取る能力には劣っていたようだが、暗い陰謀を企む能力には長けていた。顕定の目に映っていたのは、長尾景春と戦っている道灌の声望が日増しに高まり、道灌の勢力が拡大していく様子であった。顕定の胸中には暗い思いが膨らんでいたに違いない。このまま道灌を放置しておけば、草木もなびく道灌の勢いはとどまるところを知らず、やがて山内上杉家は道灌に飲み込まれてしまうのではないかという懸念である。顕定はそうなる前に道灌を亡き者にする陰謀を企んだのである。顕定は自分の手を汚さず、道灌の主君である扇谷定正をそそのかして道灌を暗殺させることにしたのだ。

 

太田道灌の最期(当方滅亡)

 文明18年(1486年)7月26日太田道灌は、扇谷定正に招かれ相模国糟屋庄の糟屋館を訪れていた。上杉顕定から「道灌が謀反を起こしてあなたの命を奪おうとしている」との話を聞かされた扇谷定正は、糟屋館で道灌を暗殺することを決意していた。定正は道灌に風呂を進めて風呂場で道灌を暗殺したのである。死ぬ間際に道灌は「当方滅亡」と叫んだと云われている。一代の英雄のあえない最期であった。

 私は、道灌は死を覚悟して糟屋館に向かったと思っている。道灌のほど武将が、糟屋館に不穏な動きがあることぐらい見抜けたはずなのだ。それにもかかわらず、道灌が死地に赴いたのはよくよく考えてのことなのだと思う。

 太田道灌上杉顕定の軋轢はもはや抜き差しならぬ状況になっていたのだ。その時、道灌の前には三つの選択肢があったのだと思う。

 第一の選択は、顕定に頭を下げ許しを請うという選択である。道灌は今までの態度を改め、今後は顕定の命令に素直に従うことになるのだ。だが、道灌ほどの優れた武将が顕定のような凡庸な主君に従えるわけがないのだ。ましてや時代は変わろうとしていた。関東管領のような古い権威はもはや機能しなくなりつつあり、能力のある実力者が力で領国を支配する新しい時代が訪れようとしていた。道灌は上杉家から独立して江戸城を中心とした武蔵国南部を領国として支配し理想の国造りを目指していたはずである。

 第二の選択は、顕定に従わずに謀反を起こすことである。今や道灌の声望は関東中に広まっている。いざ道灌が兵を挙げ上杉と戦うというのならば、多くの武将が道灌のもとに集まり戦ってくれるだろう。しかし、この選択も道灌にはできなかった。道灌がこれまで粉骨砕身して戦ってきたのは、関東に平和をもたらすためであった。28年にも及ぶ戦乱の中で関東の民は疲弊しきっていた。その長い戦乱がようやく終わり、誰もが平和に暮らせる日々が戻ってきたのである。ここで道灌が謀反を起こせば、関東は再び戦乱の時代に逆戻りしてしまうのだ。それもまた道灌にはできない選択であった。

 第三の選択は、陰謀が待っている糟屋館へ堂々と赴き、後は天命にまかせるという選択であった。道灌は、無能な顕定や定正に頭を下げてまで上杉から禄を受ける気など毛頭ないのである。さりとて、謀反を起こして第二の長尾景春になる気もない。道灌という人間のあまりの高潔さが、死という運命を選んでしまったのである。

 戦国時代に先駆けて海と川の出合う江戸の地に難攻不落の城を取り立て江戸繁栄の礎を築き、向かうところ敵なしだった名将は悲劇的な最期を遂げてしまった。その武名は関東中に鳴り響き、将兵は草木がなびくがごとく道灌のもとへ集まり人望は厚かった。ただ、道灌の上司だけが歪んだ眼差しで道灌を見て、道灌の志を理解できず道灌を恐れていたのだ。いつの時代にも理不尽というものは存在する。その理不尽がはびこる世の中で、太田道灌の鮮やかな生き様を知った者は、道灌に心を寄せずにはいられないのだ。道灌の死から530年余り過ぎた今日でも、道灌の銅像は江戸の地にひっそりとたたずみ、正義とは何かを我々に問いかけてくるのである。

 

◆おわりに

 東京ではコロナウィルスの猛威が再び巻き起こり、第二波が始まっています。春先から外出を控え家に籠る日々が続いており、史跡や博物館を訪れることもできなければ図書館で歴史資料を調べることもできません。新しいネタがないにもかかわらず、何かを書きたいという思いだけは募り、過去に出した太田道灌の話をもう一度取り上げ少し長めの文章にして三部作にしてみました。まだまだ自粛の日々が続きそうです。退屈しのぎに愚作を読んでいただければ幸いです。

 

今回参考にした資料は下記の通りです。

 

図説 太田道灌 黒田基樹 戒光詳出版

 

関東戦国史(全) 千野原靖方 崙書房出版