歴史楽者のひとりごと

こんにちは、歴史を楽しむ者のブログです。

一杯の日本酒から辿る歴史 佐竹氏

 安倍政権は緊急事態宣言を出しましたが、新型コロナウィルスの猛威は一向に衰える気配をみせません。そのおかげで私たちは不要不急の外出を控え、家にこもる日々が続いています。おかげで、本を読む機会はずいぶん増えましたが、それでも時間はあり余るほどあります。時間を持て余した私は、ついつい家で一人酒を楽しむことになってしまいます。最近では東京の小売店でも全国各地の日本酒が手に入るのですが、そのなかでも私が気に入っているのが秋田の「福小町」というお酒です。純米酒でありながら手ごろな価格で、きりりとした味わいの美味しいお酒です。そのラベルを見ると「創業元和元年 秋田 木村酒造」とあります。

 元和元年(1615年)といえば徳川家康大坂城を攻撃し豊臣家が滅亡した大坂夏の陣が起こった年です。その前年に起きた冬の陣も含めた大坂の陣については司馬遼太郎の「城塞」や津本陽の「乾坤の夢」あるいは池波正太郎の「真田太平記」など歴史小説の名作で取り上げられているので、あえて私が何かを言うことはありません。そこで今回の歴史楽者のひとりごとでは、元和元年に秋田を治めていた大名佐竹氏について語りたいと思います。

 佐竹氏はもともと常陸の大名で、天下分け目の関ヶ原の合戦では東西どちらの陣営にもつかず中立の立場をとっていました。しかし、佐竹氏は裏では石田三成上杉景勝と密約を結んでいたのです。そのことを知った徳川家康は、関ヶ原の合戦に勝利した後に佐竹氏を罰し秋田への国替えを命じたのです。そのため、佐竹氏は常陸54万石の大大名から秋田20万5千800石の大名へとなってしまいました。

 佐竹氏の先祖は、清和源氏源頼義の息子である新羅三郎義光です。義光の子孫には佐竹氏の他にも甲斐の武田氏がおり源氏の名門の家柄であるのです。佐竹氏と名乗るようになったのは平安時代の終わりころで、新羅三郎義光の孫にあたる昌義が常陸国北部の久慈川山田川の合流点近くに位置する久慈郡佐竹郷を本拠地とした時からだといわれています。ちなみに、武田氏もはじめは常陸国那賀郡武田郷を本拠地としていたのですが、故あって甲斐へ移り住んだのです。

 さて、佐竹氏が産声をあげた時代は、源義朝平治の乱に敗れ源氏は衰退し平家の全盛期でした。そのため佐竹氏は清和源氏の子孫でありながらも家運隆盛のために平家に接近し、平家の力を借りて常陸国での勢力を広げる道を選択しました。佐竹昌義の息子たちは、平家政権の下で「常陸介」に任じられ大きな勢力を持つ一族となっていたのです。常陸国平安時代より親王国司に任じられる重要な国でした。基本的に親王常陸国司に任じられても任地に赴くことはなく都に住んだままでしたので、国司の補佐官である「常陸介」は在地の最高位の役職であったのです。

 しかし、治承四年(1180年)源頼朝が打倒平家のため挙兵すると状況は一変しました。頼朝が平家打倒を成し遂げると、平家方についていた佐竹氏は窮地に陥りました。佐竹氏は、やむなく頼朝の軍門に下ることにしました。頼朝が奥羽州藤原氏征伐に向かうと、その軍勢に加わることで佐竹氏はかろうじて滅亡を逃れたのです。その後も佐竹には暗い時代が続きました。

 佐竹氏に転機が訪れたのは鎌倉時代の末でした。佐竹氏は足利尊氏の下につくことで息を吹き返したのです。足利氏も佐竹氏も同じ清和源氏の子孫ですが、足利氏が清和源氏嫡流である八幡太郎義家の子孫であるのに対して、佐竹氏は新羅三郎義光の子孫であるという違いが両者の間に上下関係を生んだのでしょうか。ところが、最近の研究によれば同じ八幡太郎義家の子孫である足利氏と新田氏の間にも上下関係があり新田義貞足利尊氏の配下にいたという説が出ています。そうすると鎌倉幕府を倒したのは新田義貞なのに、その後鎌倉を支配したのは足利尊氏であるということがうまく説明できると思います。

 話を佐竹氏に戻します。佐竹氏は鎌倉幕府打倒の時から観応の擾乱南北朝の争乱という長い戦乱のなかで首尾一貫して足利尊氏に従っていました。そのため尊氏からの信頼を得ることができ常陸国の守護に就くことができたのです。室町時代の関東は足利尊氏が設けた鎌倉府が関東十ヵ国を支配していました。鎌倉府の長官を鎌倉公方かまくらくぼう)といい、初代鎌倉公方の地位に就いたのは尊氏の三男である基氏でした。以来、鎌倉公方は基氏の子孫が世襲していくことになるのです。

 鎌倉公方は軍事力を行使して関東を平定し、安定した支配体制を確立しました。二代鎌倉公方足利氏満の末期には、鎌倉公方を支える関東の有力な武将として関東八家と呼ばれる武家が定められるようになりました。佐竹氏は、その関東八家に名を連ねており、関東の武家のなかでも特別な地位を持つ存在になっていました。

 室町時代前半の関東は、鎌倉公方の支配のもとでおおむね安定した時代でしたが、四代鎌倉公方足利持氏室町幕府と対立し1438年に永享の乱を起こすと、関東は戦乱の時代に突入していきます。さらに、持氏の息子である足利成氏が五代鎌倉公方になると、公方の補佐役である関東管領鎌倉公方が対立し、1454年から1477年にかけて享徳の乱という長い戦乱起きました。少し遅れて京都では応仁の乱が勃発します。この戦乱の中で鎌倉公方は衰退し、関東の秩序は乱れて次第に戦国時代へと移行していくのです。

 関東の戦国時代の歴史は、北条早雲を祖とする小田原北条氏を軸に動いていました。関東の諸将たちは、北条氏の味方につく武将と北条氏の敵方になる武将とに分かれて戦乱に明け暮れることになるのです。北条早雲の孫である北条氏康は名うての戦上手でした。氏康は1546年河越合戦に勝利し勢いを得ると、関東管領上杉憲政に対して激しい攻勢を仕掛けました。1552年北条氏康に敗れた上杉憲政は、関東から脱出し越後の長尾景虎(後の上杉謙信)のもとに逃げ込むのです。北条氏の優勢が続く関東において、佐竹氏は反北条の立場を取り、常陸への進出を狙う北条氏と戦っていました。佐竹氏は北条氏康の強力な軍事力に対抗するため、越後の上杉謙信の力を借りることにしたのです。

 永禄三年(1560年)は、織田信長桶狭間今川義元の首を奪った年ですが、関東では、越後から越山してきた上杉謙信が瞬く間に関東を席捲し、翌年三月には北条氏の小田原城を包囲するまでに至ったのです。この時、佐竹氏は謙信に従って小田原に参陣し、小田原城を包囲する軍勢に加わっていました。しかし、上杉謙信による関東制覇は実現せず、逆に謙信が関東に進出したことで、甲斐の武田信玄も関東に干渉するようになりました。関東の戦国時代は、上杉、武田、北条が三つ巴で争う展開になったのです。戦国時代を代表する武将である謙信や信玄の影に隠れて、佐竹氏の活躍はあまり知られていませんが、佐竹氏は北関東の覇権をかけて筑波を本拠地とし北条の後押しを受けた小田氏と激しい戦いを繰り広げていました。また、関東の北辺を本拠地としていた佐竹氏は、北条氏と手を結んだ奥羽の葦名氏とも抗争を繰り返していたのです。そのころ活躍していたのが、鬼義重と呼ばれた武将佐竹義重です。

 しかし、天正十八年(1590年)に豊臣秀吉が小田原攻めを行い北条氏が滅亡すると、関東の戦乱にも終止符が打たれました。小田原城攻めに参陣し、秀吉の傘下に入った佐竹義重は、常陸54万石の支配権を秀吉に認めてもらうことができたのです。ところが、その後の佐竹氏は、関ヶ原の合戦時における微妙な態度を徳川家康にとがめられ、常陸から秋田へと国替えを命じられたのです。

 鎌倉幕府の成立期や徳川幕府の成立期といった歴史の大転換の時に決まって佐竹氏は窮地に陥るのですが、その難局をどうにか乗り切って滅亡することはありませんでした。鎌倉入りを果たした頼朝がすぐに西へ進軍しなかったのは、平家方についている佐竹氏の存在が気なったからです。また、徳川家康は上杉征伐を中止し大坂の石田三成と決戦することを決断したのですが、なかなか江戸から動こうとしませんでした。家康もまた、佐竹氏の動静を見極めるため江戸を発進することができなかったのです。後に征夷大将軍となる源頼朝徳川家康という二人の英雄をためらわせたのは、新羅三郎義光の子孫である清和源氏の名門佐竹氏の無言の圧力だったのです。頼朝も家康も佐竹氏との決戦を避け、味方につけることを選択したのです。無事これ名馬といいますが、足利氏、今川氏、武田氏といった名だたる源氏の名門が衰退していったなかで、戦国時代を生きのびた佐竹氏は近世大名として幕末まで存続したのです。

 冒頭に紹介した秋田の地酒「福小町」を造っている木村酒造は、豊臣秀吉重臣であった木村重成の一族が興した蔵元だそうです。秀吉と佐竹氏の縁が木村氏の一族を秋田へ招いたのかもしれません。木村重成は、豊臣秀頼からの信頼も厚く、家康の豊臣包囲網が迫ってくるなかで、豊臣方の主戦派として知られていました。大坂冬の陣では後藤又兵衛とともに活躍し、木村重成の武名は全国に知れ渡ったということです。その後、重成は大坂夏の陣において徳川四天王のひとりである井伊直正の軍勢と戦い、その合戦のさなか討ち死にしたと伝えられています。重成の髪には香が焚き染められており、その死の覚悟のほどに井伊方の武将たちも感じ入ったと云われています。

 今宵は、一杯の日本酒から佐竹氏の数奇な歴史を辿ることができました。

 

※今回参考にさせていただいた資料

木村酒造のホームページ

源氏と坂東武士 野口 実  吉川弘文館

関東戦国史(全) 千野原 靖方 崙書房出版

新詳日本史 (株)浜島書店

武家家伝 佐竹氏の項

Wikipedia 木村重成の項