歴史楽者のひとりごと

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関東の戦国 山内上杉と扇谷上杉の覇権争い

 室町時代関東管領を代々世襲してきた山内上杉家関東公方の執権として上野、越後など広大な領国を持ち関東に勢力を広げていました。しかし、享徳三年(1454年)に享徳の乱が始まると、太田道灌が家宰を務める扇谷上杉家が次第に勢力を拡大し山内上杉家に肩を並べる存在になってきました。

 文明十二年(1480年)、太田道灌の活躍によって関東の長い戦乱は終わりを告げ、関東はひと時の平穏な時代を迎えていました。しかし、その6年後太田道灌扇谷定正にあざむかれ謀殺されてしまいます。道灌の突然の死によって関東は再び戦乱の時代を迎えます。

 関東の秩序を保ってきた関東公方関東管領の権威はすっかり失われ関東の有力武将たちは戦国大名へ変貌していきます。また、伊豆一国を平定した伊勢宗瑞は関東進出の機会を虎視眈々と狙っていました。いよいよ関東は群雄が割拠する戦国時代を迎えることになるのです。

 

太田道灌の死と両上杉の対立 

 文明十八年(1486年)七月二十六日、名将太田道灌は主君扇谷定正の陰謀によって殺害されました。江戸城を築城し関東の大乱を平定した希代の英雄のあっけない最期でした。関東管領山内上杉顕定から、「道灌に謀反の意あり」との話を吹き込まれ扇谷定正は、道灌を相模の糟屋館に呼び寄せだまし討ちしたのです。

 上杉顕定の思惑は、関東一の名将太田道灌扇谷定正によって殺害させ、道灌の活躍によって相模、武蔵に勢力を拡大してきた扇谷上杉を潰すことにありました。そうとも知らず定正はまんまと顕定の計略に乗せられて道灌を殺してしまったのです。

 道灌の一族や家臣たちは、道灌殺害の裏の首謀者が上杉顕定であることなど知る由もなく、扇谷定正から離反し上杉顕定のもとへ走りました。顕定は道灌の一族を受け入れ扇谷定正ひとりを悪者に仕立てたのです。主を失った江戸城扇谷定正に接収され、相模の糟屋館で道灌に直接手を下した張本人である曾我兵庫助が江戸城代になりました。

 長享二年(1488年)二月上杉顕定はかねてからの計画通り、扇谷上杉のせん滅に乗り出しました。一千余騎余の軍勢を率いた上杉顕定は、武蔵鉢形城を出撃し扇谷上杉の糟屋館を攻めようとしましたが、逆に迎え撃った扇谷定正の軍勢に敗れました。

 顕定の予想に反し、道灌殺しの汚名を着せられて人望を失い劣勢に立っていたはずの扇谷定正は、扇谷一族の結束を固めて巧に戦い顕定の軍勢を何度も破ったのです。また、道灌が築いた江戸城河越城は堅固な城塞であり、上杉顕定の大軍に包囲されても容易に落城しませんでした。

 しかし、その定正にも運命の尽きる時がきました。明応三年(1494年)十月扇谷定正は武蔵高見原で上杉軍と交戦中に不慮の事故で死んでしまったのです。定正の死後、扇谷家の家督を継いだのは定正の兄朝昌の息子である朝良でした。扇谷朝良は本拠地の河越城に入り、伊豆の伊勢宗瑞や小田原の大森式部少輔らと連携し上杉顕定の勢力に対抗したのです。伊勢宗瑞が扇谷朝良の味方に付いたのは、まず難敵である上杉顕定を扇谷と協力して倒し、その後に扇谷朝良を倒せばよいと考えていたからでした。

 明応五年(1496年)七月上杉顕定の軍勢が小田原城に攻め寄せると、大森式部少輔は扇谷上杉を裏切り上杉顕定へ寝返りました。扇谷上杉と手を結んでいた伊勢宗瑞は、小田原攻撃の大義名分を得て明応十年(1501年)に大森式部の隙をついて攻撃し小田原城を奪取します。こうして、伊勢宗瑞は関東進出の橋頭保を築いたのでした。

 

◆立河原の合戦

 永正元年(1504年)九月、軍勢を集めた上杉顕定は扇谷朝良の居城である河越城を攻撃しました。防戦する扇谷朝良は伊勢宗瑞と今川氏親へ急ぎの使いを出し援軍を要請しました。要請を受けた伊勢、今川の軍勢は直ちに武蔵国に向かって進軍を始めたのです。伊勢宗瑞の率いる軍勢は、江ノ島、武蔵稲毛庄(川崎市高津区)を経て益形(川崎市多摩区)に着陣しました。今川氏親の率いる軍勢は相模国の海沿いを進軍し鎌倉を経て益形に進み、両軍はここで合流したのです。

 伊勢・今川の援軍が迫ってきたという知らせを受けた上杉顕定は、敵を迎え撃つべく立河に進出して陣を構えました。上杉の陣容は上杉顕定・憲房、古河公方足利政氏、上州一揆の軍勢でした。

 9月27日扇谷朝良、伊勢宗瑞、今川氏親の軍勢が立河原に展開すると正午ころから合戦が始まりました。戦いは数刻に及びましたが、顕定方の軍勢はおよそ二千の軍兵が討ち取られ大敗したということです。

 勝利した扇谷朝良は河越城に戻り、伊勢宗瑞と今川氏親の軍勢も陣を払ってそれぞれの領国へ帰還しました。しかし、上杉顕定はまだあきらめておらず、10月に越後から援軍が到来すると、この軍勢とともに河越城へ攻め寄せました。城方は善戦しましたが多数の死傷者を出しました。

 さらに、顕定は永正二年(1505年)3月にも河越城を攻撃し、ついに扇谷朝良を降伏させたのです。敗れた扇谷朝良は息子の朝興に家督を譲り江戸城に隠居したということです。山内上杉と扇谷上杉が和睦したので、山内上杉顕定のもとにいた道灌の子息である太田資康は江戸城に戻り朝興に仕えることになりました。

 山内上杉と扇谷上杉の覇権争いは17年にも及びました。長い抗争によって両上杉は疲弊し、その勢力はすっかり衰えてしまったのです。一方、伊豆一国を平定し小田原城を奪取した伊勢宗瑞は永正十六年(1519年)に没し、北条氏綱家督を継いでいました。氏綱は父宗瑞に劣らぬ優れた武将であり、小田原城で関東の覇権を虎視眈々と狙っていたのです。

 

関連ブログ 「太田道灌 戦国時代前夜を鮮やかに駆け抜けた悲運の名将」

      「東の将軍鎌倉公方 その6 平一揆の反乱と上杉氏」

 

今回参考にさせていただいた文献

図説 太田道灌 黒田基樹 戎光祥出版

関東戦国史(全) 千野原靖方 崙書房出版

小田原北条記(上) 江西逸志子 原著  岸正尚 訳 ニュートンプレイス