歴史楽者のひとりごと

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東の将軍 鎌倉公方 その3ー 足利義詮京へ上る

1343年千寿王は元服足利義詮と名乗りました。鎌倉の主である義詮は、足利政権の関東方面軍司令官として関東十ヵ国ににらみをきかしていました。本来ならば、足利義詮こそが初代鎌倉公方と呼ばれるべきですが、義詮はこの後京へ上り、父足利尊氏の跡を継いで足利幕府の二代将軍となるので、歴史上足利義詮が初代鎌倉公方とは呼ばれることはないのです。初代鎌倉公方と呼ばれるのは、義詮の跡を継いで鎌倉公方となった弟の基氏です。
基氏が誕生したのは1340年で、尊氏の正室登子の生んだ3番目の男子です。基氏は京都で生まれ育ったのですが、兄義詮が鎌倉を離れ上洛してくるのと入れ替わりに鎌倉へ下向したのです。義詮が上洛したのは1349年のことですが、この時義詮の上洛を巡りひとつの事件が起きていました。
その事件は、やがて日本史上最大の兄弟喧嘩とも言われる「観応の擾乱」へと発展していきます。事件の発端となったのは、足利尊氏の弟直義と尊氏の執事である高師直の対立でした。足利尊氏は情けに深い親分肌の武将で、足利氏を支持する武士たちにとって象徴的な存在でした。ひとたび尊氏が戦場に立てば、味方の軍勢は奮い立ち、無敵の軍団に変貌を遂げるのです。これに対し、弟の直義は実務能力に優れていたので、発足当時の足利政権において行政を担当し、足利政権の政治統率者となっていたのです。
直義の政治姿勢は、足利政権の力を強化するために、守護や地方の軍事勢力の行動を厳しく抑制するものでした。このころ守護や地方の有力な武将たちは、戦乱を理由に寺社や貴族の荘園の年貢を差し押さえ、その半分を自分たちの兵糧にしてしまうという事態が横行していたのです。直義は守護や有力武将たちのそのような行為を厳しく制限したのです。
この直義の政策に対して、佐々木道誉土岐氏など足利一門ではない有力武将たちは反発をしました。そして、不満を持つ武士たちの急先鋒が高師直でした。師直の率いる高一族は、南朝方との戦いの中で大きな戦果をあげ足利政権内での発言力を高めていました。師直は事あるごとに直義に反発し、両者は対立を深めていったのです。
南北朝の争いが激しくなるにつれ、足利政権内における反直義派の圧力が強まり、直義と師直の対立も一気に表面化しました。この状況を打開するために、先に手を打ったのは直義でした。直義は兄尊氏に働きかけ師直を尊氏の執事から降ろすことに成功したのです。しかし、師直はこの動きに反発し、直義の屋敷を軍勢で取り囲みクーデターを起こそうとしたのです。身の危険を感じた直義は、尊氏に助けを求めました。尊氏は仲裁に乗りだし、直義と師直の軍事衝突は回避され和解が成立しました。このとき尊氏が出した和解の条件は、直義が政権統率者の地位を降り、尊氏の嫡男義詮が新たに政権統率者の座に就くというものでした。そして、義詮の補佐役として高師直を抜擢したのです。
結局、この和解で得をしたのは尊氏と師直でした。実は、高師直が企てたクーデターは尊氏と師直が仕組んだ芝居だったと言われています。その目的は、尊氏の嫡男義詮を政権統率者の地位に就けることでした。尊氏は義詮を京都に呼び寄せ足利幕府の後継者として指名したかったのです。しかし、政治的な実力者である直義の存在が、尊氏の思惑を妨げていました。そこで、尊氏と師直は裏で通じあい直義を失脚させるために一芝居打ったのです。
こうして、幼い頃から鎌倉の主として振る舞ってきた足利義詮が晴れて京へ上り尊氏の後継者として足利幕府の表舞台に登場したのです。そして、義詮と入れ替わるように、弟の足利基氏が鎌倉へ下り鎌倉公方に就任したのです。しかし、基氏の船出は順風満帆とはいきませんでした。父尊氏が樹立した足利幕府はまだ不安定であり、南北朝の争いは激化していました。また、尊氏と直義の兄弟の間にも亀裂が生じていました。鎌倉へ向かう基氏の前には過酷な運命が待ち受けていたのです。