歴史楽者のひとりごと

こんにちは、歴史を楽しむ者のブログです。

関東の戦国 北条氏綱の侵略を正当化させてしまった関東足利氏の争い「下総国相模台合戦」

 天文六年(1537年)七月、北条氏綱は扇谷朝定の本拠地である河越城を攻略しました。翌天文七年二月に氏綱は、扇谷家の家臣大石氏が守る葛西城(東京都葛飾区)を落城させ、さらに太田資正の居城である岩付城(さいたま市岩槻区)を攻撃し城の周辺を焼き討ちしました。氏綱は扇谷氏の勢力を退けて武蔵国の実質的な支配権を手に入れたのです。新たな領国を獲得した北条氏綱は、古河公方足利晴氏に接近し古河公方の権威によって領国の支配権を正当化しようと考えていました。

 この北条氏綱の動きに対して警戒を強めている者がいました。下総国小弓城を本拠地とする小弓公方足利義明です。足利義明は、関東足利氏の正統な後継者という地位を巡って兄の古河公方足利高基と激しく対立し西下総の江戸川流域や手賀沼周辺で長年に渡り戦いを繰り広げていました。高基は天文四年に亡くなりましたが、その跡を継いだ古河公方足利晴氏は、亡父の意志を引き継ぎ小弓公方との戦いを継続していました。その足利晴氏北条氏綱と手を組んで勢力を強めることは、足利義明にとって不利な状況を生み出すことになります。そのため、小弓公方足利義明は、北条氏綱を討伐し古河公方の勢力拡大を阻もうとしたのです。

 まったく、足利氏という一族は同族内での争いが絶えない一族でした。一族の歴史を振り返ると、足利尊氏と直義が起こした観応の擾乱は「日本史上最大の兄弟げんか」と言われていますし、応仁の乱では足利義政と義視が対立しました。さらに、関東で古河公方小弓公方が対立していた同時時代の畿内では義政の流れを汲む足利義晴と義視の流れを汲む足利義維が将軍の座を巡り争っていました。この争乱の中から三好長慶織田信長が台頭し、戦国時代は日本各地で戦国大名が領土の拡大を巡り争っていた時代から、有力な戦国大名が天下取りを目指す時代へと転換したのです。

 こういう歴史の流れを考えると、足利一族の争いが日本の歴史に大きな影響を与えてきたことがわかります。そして、古河公方小弓公方の争いも、関東の戦国時代の流れに大きな影響を与えることになりました。関東足利氏の正統な後継者争いが、北条氏綱の関東侵略に正当性を与えることになったのです。その経緯を詳しくみていきましょう。

 

 小弓公方足利義明は、北条氏綱を攻撃するために軍事行動を起こしました。天文七年の春頃、義明は下総国国府台城に軍勢を送り込んだのです。この城は江戸川東岸の河岸段丘の上に築かれた城であり、江戸城や葛西城を一望のもとに見渡すことができました。この場所に最初に城を築いたのは太田道灌です。文明十年(1478年)道灌は下総の千葉孝胤を討伐するための前線基地として国府台に陣城を構築しました。そのことからもわかるように国府台は軍事上の要衝であったのです。

 足利義明が北条方へ攻撃する動きを見せたことに対して、北条氏綱はすぐさま軍事行動を起こそうとはせずに和平工作を取ることにしました。古文書によれば、北条氏綱小弓公方足利義明に対して誠実な態度を怠らず、数回に渡って義明に使者を送り戦いを回避しようと努力したということです。

 しかし、足利義明は和平交渉に応じることはありませんでした。そのため、古河公方足利晴氏北条氏綱に対して「小弓公方足利義明の追討を命じる御内書」を下したのです。こうして氏綱は、古河公方の上意によって小弓公方と戦う大義名分を得たのです。すなわち、この後に起きた「下総国相模台合戦」は北条氏綱古河公方の命を受けて小弓公方を討伐する戦いという様相を呈していたのです。

 

 北条氏綱は、合戦の準備を始めました。江戸・河越の両城に兵糧を運び込み、両城の堀を深くし、櫓を上げて城の守りを十分に固めました。そして天文七年(1538年)10月2日、息子の氏康とともに小田原城を出立し、10月5日江戸城に入りました。江戸城には伊豆、相模、武蔵の軍勢が続々と集まってきました。小田原北条記には二万余騎の軍勢が集まったと記されています。

 これに対して、足利義明が軍勢を率いて国府台城に入ったのは9月末頃でした。義明に従ったのは嫡男義純、弟基頼など小弓公方の一族と馬廻衆安房の里見義堯、上総の真里谷武田信応など上総、下総、安房の軍勢でした。軍勢の正確な数はわかりませんが人数の比較では北条方は小弓方の5倍の軍勢を率いていたのではないかと推測されています。

 10月6日、北条氏綱江戸城から軍勢を率いて国府台へ向かいました。国府台城は江戸川の東岸にあるので、北条軍は江戸川を渡って敵を攻めることになります。このとき氏綱が渡河地点に選んだのは国府台の北方の松戸付近でした。6日の夕刻、北条軍は江戸川の西岸に到着し堤の下で待機しました。そして、夜明けとともに北条軍の先陣が江戸川を渡り「松戸のたいという山」に橋頭保を築きました。

 このとき、小弓方の椎津、村上、堀江、鹿嶋の軍勢が北条方の渡河地点の北側にある相模台城に詰めていたのですが、みすみす北条方の渡河を許してしまったのです。江戸川の東岸に橋頭保を築き渡河地点を確保した北条の軍勢は続々と川を渡り始めました。相模台城から国府台城の足利義明に、敵の渡河を知らせる急報が送られました。急報がもたらされた国府台城では、足利義明と家臣の間でつぎのようなやり取りがあったと小田原北条記は伝えています。

 北条軍が大軍勢で渡河中であるとの知らせを聞いた重臣のひとりが、足利義明に次のような進言をしました。「敵は大軍であり味方の人数は敵に劣っています。互角の戦いはできません。小が大を討つためには今すぐ敵に急襲を仕掛けるか、あるいは、一度退却するようにみせかけて敵軍を誘い込み、敵軍が川のなかばを越えた時に一気に先陣を攻撃すれば、敵軍を川へ追い落とすことができ味方は大勝するでしょう。」周囲にいた諸将たちは、この重臣の進言は的を得ていると思いました。

 しかし、足利義明はこの進言を一笑に付し、こう言いました。「退却するふりを装えば、敵を有利にする端緒となろう。戦いは軍勢の多少には関係しない。ただ兵が豪胆か臆病かによっているのだ。氏綱の武勇にどれほどのことがあろう。川を渡らせ近々と引き付け、わが手にかけて氏綱を討ち取って東国をたやすく治めよう。」

 この場のやりとりが史実であるかどうかはわかりません。小田原北条記は、勝った側の記述であるので負けた足利義明をことさら「宋襄の仁」のような愚か者に仕立てているのかもしれません。

 それはともかく、北条軍は敵方の妨害や攻撃を受けることなく、易々と江戸川を渡河したのです。対岸に上陸した北条軍は数で勝っており、義明の軍勢を圧倒しました。午前中の合戦で義明の嫡男義純と弟基頼は討ち死にしました。もはや、義明軍の敗北は明らかであり、義明の重臣逸見入道が義明に落ちのびることを進言しましたが、義明は激怒して「どうみても味方の軍勢が臆病で負けたのであろう。義明が先駆けして強力なことをやつらに思い知らせてやる」と叫んで先頭をきって攻撃に出ました。

 この日の義明は、赤地の直垂に、銅製の裾金物を打ち付けた唐綾おどしの鎧を着て、来国行の三尺二寸の「面影」という太刀と二尺七寸の先祖伝来の太刀を二振り腰につるという、まさに武家の棟梁たる源氏の大将にふさわしいいで立ちでした。武勇を誇る義明は、「法城寺」の大長刀の柄を短めに持ち、奥州三戸産の名馬「鬼つき毛」にまたがり敵陣めがけて駆け出したのです。

 義明は乗馬の名手で、剣術の達人でしたので馬上で長刀をふるい次々と敵をなぎ倒していきました。しかし、最期は、「八州にならぶもののない強弓引き」という高名を得ていた三浦城代の横井神介という武将が射た矢が義明に当たり、倒れたところで松田弥次郎に首を落とされ討ち死にしました。

 足利義明の軍勢は大敗しました。古文書によれば、「天文七年十月七日、下総国相模台合戦で足利義明、義純、基頼の三人を始め千余人が討ち死にした」との記述があるそうです。足利義明に従い戦場に赴いた真里谷武田と安房里見の軍勢は、日和見をして戦闘らしい戦闘もせず早々に戦場を離脱しました。彼らははじめから小弓公方に勝ち目はないと見限っていたようです。

 

 下総国相模台合戦で見事な勝利を収めた北条氏綱は、10月8日に国府台城に入って首実検を行いました。その後、足利義明・義純親子の首は古河城へ送られたということです。氏綱は戦後処置を実施し、小弓城には旧城主の原氏を入れ、武田真里谷信隆も一族の惣領として復活させました。こうして、上総国下総国南部は北条氏綱の傘下に入ったのです。

 また、小弓公方足利義明が滅亡したことで、長年続いた古河公方小弓公方の争いに終止符が打たれ、古河公方足利晴氏が関東足利氏の正統な後継者となったのです。天文七年十月、足利晴氏北条氏綱の勲功を賞して御内書を下し、氏綱を関東管領に任じました。本来、関東管領職の人事権を握っているのは室町幕府の将軍であるので、北条氏綱が正式な関東管領に就任したわけではありません。現に、この時には上野国の平井城に山内上杉家家督を相続し関東管領職に就いていた上杉憲政が健在であったのです。

 したがって、古河公方北条氏綱に対して関東管領職を授けたのは全くの茶番劇でしかなかったのです。しかしながら、たとえ茶番であるにせよ古河公方は、北条氏綱の戦勝に報いる必要がありました。古河公方小弓公方は長年争ってきましたが、古河公方は自分の力では小弓公方を倒すことはできませんでした。

 ところが、古河公方北条氏綱小弓公方の討伐を命じたところ、わずか一日の合戦で氏綱は小弓公方を滅亡させてしまったのです。北条氏綱の軍事力は他を圧倒しておりました。古河公方も氏綱の軍事力を脅威に感じたことでしょう。古河公方は、氏綱の機嫌を損ね矛先を自分に向けられることだけは避けねばなりませんでした。

 そのため、古河公方は氏綱に対して融和策を取らざるを得なかったのです。こうして北条氏綱は、古河公方から関東管領職の補任を受けることになりました。関東管領の肩書は正式なものではありませんが、氏綱はこの肩書を大いに利用し、自分が南関東相模国武蔵国上総国下総国南部)の正当な支配者であるということを主張したのです。さらに、天文八年(1539年)八月、北条氏綱は娘(芳春院殿)を足利晴氏に嫁がせて足利氏との姻戚関係を結び、北条家は関東足利氏の御一家であるという立場を築くことで、関東での政治力や支配力を一層強固なものにしたのです。

 

今回参考にした文献は次の通りです。

 原本現代訳 小田原北条記(上) 江西逸志子原著  岸正尚訳 ニュートンプレス

 関東戦国史(全) 千野原靖方 崙書房出版