歴史楽者のひとりごと

こんにちは、歴史を楽しむ者のブログです。

鎌倉公方がNHK大河ドラマの主人公になれない訳

 鎌倉公方とはいったいどんな存在であったのか、私は好奇心に駆られてその実像を調べました。おもしろいことに、鎌倉公方の歴史を調べることは、関東の視点から室町時代を考えるということにつながっていきました。さらに、想定外の非常事態に直面したことが足利将軍家の運命を変えたこともわかってきました。これは現在日本が直面している事態を考える上でもとても参考になることだと思います。

 南北朝の争乱の時代、足利尊氏は関東を支配するために三男基氏を鎌倉公方に配しました。当初の鎌倉公方の任務は、戦闘司令官として新田義興など関東に存在する南朝方と戦うことで、関東に対する政治的な命令は全て京都の将軍から出されていました。関東の南朝勢力は手強く、鎌倉公方が鎌倉を追い出される事態に見舞われることもありました。鎌倉公方南朝方を倒すために、強力な軍事勢力である関東武士たちを味方にする必要があったのです。そのため、鎌倉公方は地域限定ながら将軍と同等の権力を持ち、武士の所領を安堵することで主従関係を結び関東の武士たちを味方に引き入れることができたのです。関東の武士たちにとって将軍のような存在となった鎌倉公方足利基氏は、関東の南朝勢力を倒し東国武士を配下におさめ関東を平定することに成功したのです。基氏の跡を継いだ二代目以降、東国武士団の頂点に立った鎌倉公方の目は西に向きました。足利尊氏の子孫として「自分には将軍になる権利がある」と鎌倉公方は考えたのです。しかし、将軍の座を奪うという鎌倉公方の挑戦は、ことごとく室町将軍によって跳ね返されました。これでは、鎌倉公方NHK大河ドラマの主人公になることはありませんね。室町時代の始まりとともに誕生した室町将軍と鎌倉公方ですが、いったい何が室町将軍と鎌倉公方との間にこんなにも大きな力の差を生じさせてのでしょうか。その答えは、室町幕府が開かれた「京都」と鎌倉府が開かれた「鎌倉」という場所の違いにあると思います。

 室町幕府が開かれた京都は平安時代の昔から都として栄えてきた場所です。桓武天皇平安京に遷都したのは794年ですが、源頼朝征夷大将軍になったのはそれから約400年後のことでした。そして、その400年もの間、京の都に君臨して日本を支配してきたのは天皇藤原氏などの上級貴族でした。また京都の周辺には比叡山延暦寺などの宗教勢力も存在していました。足利尊氏は、このように旧勢力が存在する京都にあえて幕府を開いたのです。尊氏は後醍醐天皇との激しい争いに勝利して武家政権を樹立したのですが、旧勢力を武力だけで封じ込めることはできなかったでしょう。室町幕府の将軍は、京都に存在する旧勢力と渡り合うことで、知略や政治力を身に着けたのだと思います。室町幕府の全盛期を築いた足利義満は、貴族の向こうを張る権謀術策を駆使して日本の国王のような存在となり、自分の息子を天皇の位につけるあと一歩のとこまできていたのです。とても、鎌倉公方が対等に戦えるような相手ではありませんでした。

 一方、鎌倉は1180年(治承四年)に源頼朝武家政権を誕生させて以来およそ100年の間武家政権の中心地として存在していました。頼朝が鎌倉を本拠地に選んだ理由は、三方を山に囲まれ前面は海という鎌倉の地形が天然の要害であったということもあるのですが、この地が清和源氏にとってゆかりのある地であったということが大きく影響していると思います。源頼朝からさかのぼること6代前、八幡太郎と呼ばれた源義家が祖父平直方(たいらのなおかた)から譲りうけたのが鎌倉の地でした。それ以来鎌倉は清和源氏にとって聖地のような場所になったのです。しかし、源実朝が暗殺された後、鎌倉幕府の執権であった北条氏が鎌倉の主になっていたのです

 そこで、足利尊氏鎌倉幕府が滅亡した後、東国武士団を支配し関東を平定するためになんとしても清和源氏の聖地である鎌倉を本拠地とする必要があったのです。そして幸運にも鎌倉は足利氏のものになりました。鎌倉幕府を倒した新田義貞は、鎌倉を占拠せず京都へ向かったのです。こうして足利氏は鎌倉に拠点を置いて関東支配に乗り出しました。しかし、武家政権の中心地として発展してきた鎌倉には武士ばかりが住んでおり、京都のように皇族・貴族や宗教勢力が大勢いるわけではありません。そのため、鎌倉では武士とは異なる文化や価値観を持った人々と接する機会が少なかったでしょう。それが、鎌倉公方を「井の中の蛙」にしてしまったのです。そして、関東の支配者の視野の狭さは、戦国時代の小田原北条氏まで続くのです。

 このように、京都と鎌倉の歴史的な背景が、室町将軍と鎌倉公方に大きな影響を与えたわけですが、さらに、歴史だけではなく二つの土地の地理的な要因もまた大きな影響を与えました。京都は内陸の盆地にありながら人、物、金、情報の集まる集積地です。それを可能にしたのは京都周辺にある水運でした。京都の東には琵琶湖がありその水運によって北陸地方との往来が可能です。さらに敦賀の湊から日本海へ出ることができ、東北地方の日本海沿岸や山陰地方、九州地方はもちろんのこと中国大陸への航海も可能です。また、京都の南には淀川が流れており大阪湾に注いでいます。大阪湾を西へ進めば瀬戸内海に至り、山陽地方四国地方と繋がりさらに九州地方を経て外洋に出れば瀬戸内海ルートでも朝鮮半島や中国大陸とも繋がっていたわけです。すなわち、京都には日本国内の人、物、金、情報だけではなく、海外の文物・情報も容易に入ってきたわけです。この地理的な優位性を存分に利用して強大な力を持ったのが三代将軍の足利義満でした。 

 一方、鎌倉も海に面した都市です。鎌倉時代のころから伊勢と関東の間には航路が開かれていました。鎌倉にある鶴岡八幡宮は全国各地に荘園を所有していたので、その年貢が海路で六浦の湊(現在の金沢八景付近)まで運ばれてきていたのです。ですから鎌倉にも日本国内の文物や情報は容易に入ってきたわけです。しかし、海外の情報が鎌倉に直接入ってくることはそれほどなかったでょう。おそらく室町時代の鎌倉に入ってくる海外の情報は、西国で見聞きしたことを日本人が伝える二次的な情報だったでしょう。つまり、琵琶湖、日本海、瀬戸内海という情報・物流の回廊と繋がっている京都と比較すると、鎌倉に集まる文物や情報は質、量ともに劣っていたのです。ある意味では鎌倉時代から戦国時代を通じて関東地方は海外の情報から最も遠い地域にあったといえるのです。そのため、鎌倉公方は多種多様な文化や価値観に触れる機会が少なかったのです。このこともまた鎌倉公方井の中の蛙にしてしまったのではないでしょうか。

 関東では武士たちの頂点に立ち支配者として君臨することのできた鎌倉公方ですが、鎌倉のおかれた歴史的背景と地理的な要因によって、鎌倉公方は外の世界に触れる機会が少なかったために、現状に満足してしまい変革によって自分の力を発展させることができなかったのです。したがって、鎌倉公方は歴史の表舞台で活躍することがなくNHK大河ドラマの主人公になれるような歴史的業績を残すことができなかったのです。やがて、応仁の乱の13年前に始まった享徳の乱((1454年~1477年)によって関東は戦乱の時代に突入します。この戦乱で鎌倉は焼き討ちに遭遇し、第五代鎌倉公方足利成氏は本拠地を鎌倉から下総国の古河へ移し古河公方と呼ばれるようになりました。長い戦乱の中で古河公方の力は徐々に衰退していきます。そして、新たに台頭してきた小田原北条氏との争いに敗れた古河公方は、戦国時代の波に飲み込まれ、いつの間にか歴史の舞台からひっそりと姿を消していきました。

 鎌倉公方とは異なり、室町幕府の将軍は、京都に幕府を開いたことで強力な力を手にしました。ただし、室町幕府の将軍が強力な力を手にいれることができたのは、京都の歴史的背景と地理的優位性を存分に利用できる能力のあるカリスマ的な人物がいてはじめて可能になるのです。そのカリスマ的人物こそ、室町幕府の三代将軍足利義満でした。ここで、足利義満の業績を箇条書きにしてみましょう。

 1.南北朝の合体(1392年)

 2.朝廷から京都の市政権、段銭、棟別銭の徴収権を吸収

 3.室町に花の御所を造営

 4.有力守護大名の勢力削減

 5.日明貿易の推進

 6.五山・十刹の制の整備

※新詳日本史(浜島書店)から引用しました。

 上記のように、足利義満はわずか一代の間に南北朝の争乱を解決し、室町幕府の財政力を飛躍的に向上させ、専制的な支配体制を確立し、中国大陸の大国である明との外交によって自らを日本国王として認識させることができたのです。まさに、足利義満の時代に室町幕府は全盛期を迎えていました。室町幕府は、このまま永遠の繁栄が続くかと思われましたが、晴天の霹靂のような出来事によって衰退していきます。

 それは、足利義満の急死です。1406年足利義満天皇の准父となり、形式的には上皇の地位にありました。義満の息子義嗣は皇太子となり次の天皇になるはずでした。しかし、その矢先1408年に義満は急死してしまうのです。この想定外の非常事態が室町幕府足利将軍家の運命を変えてしまったのです。足利将軍家は義満が急死した後の対処を誤ったために衰退し、嘉吉の変、応仁の乱を経て戦国大名の台頭を招いたのです。

 この時日本が置かれていた状況は、何か現在の日本の状況と重なるような気がします。日本を訪れる外国人観光客の増加による好景気、2020年東京五輪の招致成功、そして平成から令和への改元と新天皇のご即位という祝賀ムードが漂っていた矢先、新型コロナウイルスの猛威という全く想定外の事態によって今まで日本を覆っていた好景気は一瞬にして吹き飛び、東京五輪は延期になりました。日本はいま非常に困難な局面を迎えています。これからの対処の仕方によって、未来の日本がどうなるかが決まると思います。まさに、今我々は歴史の大きな転換点に直面しているのです。私たちは一人一人がそのことを肝に銘じて生きていかなければならないと思います。