歴史楽者のひとりごと

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東の将軍 鎌倉公方 その4ー 基氏、将軍の力を手に入れる

前回のお話で、ようやく初代鎌倉公方足利基氏が登場するところまでたどり着きました。少し遠回りをしましたが、鎌倉公方がいかなるものであるのかを知るためには避けては通れない道なのです。歴史を学ぶことは、暗記ではなく過去の壮大な物語を理解することだと私は思います。我々日本人が、どのような道をたどって今に至っているのかを知ることが大切なのです。そして、過去の歴史を未来に向かう道標として活用することが、さらに大切なことです。

ちょっと脇道にそれてしまいました。鎌倉公方のお話にもどりますが、基氏の話に入る前に、もう少しだけ尊氏と直義の争い(観応の擾乱)について言及しなければなりません。
足利直義は尊氏の息子直冬を養子にしていました。1349年まだ足利政権の政治統率者であった直義は直冬を山陰・山陽地方を統括する中国探題として備後国の鞆に派遣していました。しかし、養父直義が失脚すると、直冬は鞆を去り九州へ逃れました。そのころ、九州では小弐氏(しょうにし)が勢力を誇っていました。
もともと小弐氏は武藤氏と名乗っており関東の武蔵国の武士でした。武藤氏は源頼朝が挙兵した際に頼朝のもとへ馳せ参じ、頼朝に重用された武士でした。そして頼朝の命によって九州へ下向し太宰小弐という役職に就いたのです。太宰小弐とは太宰府の長官を補佐する役職でした。やがて、武藤氏は九州に土着し小弐氏と称するようになったのです。武勇に優れた小弐氏は肥前筑前豊前支配下に置く北部九州きっての有力な武将でした。足利直冬は幸運にも小弐氏に庇護され勢力を回復することができたのです。
直義派の直冬が九州で勢力を増大させたことは、足利尊氏にとって大きな脅威となりました。尊氏は直冬討伐を決意し、高師直と共に軍勢を率いて西へ向かったのです。1351年尊氏が直冬討伐のため西へ向かい京都の守りが手薄になった隙をついて直義派の武将が畿内で挙兵しました。この挙兵は成功し直義は京都を手中に収めたのです。
しかし、尊氏は九州への遠征を中止し、すぐさま京都へ戻ってきました。尊氏軍の反撃を受けた直義は、京都を捨て鎌倉の基氏を頼って関東へ逃げ込んだのです。
鎌倉公方足利基氏は直義を快く受け入れました。基氏は幼い頃に直義のもとに預けられたいたこともあり、直義に大きな信頼を寄せていました。また基氏の補佐役である関東管領上杉憲顕も、直義の政治姿勢に好感をもっており直義の味方になってくれました。こうして鎌倉府は直義派として足利尊氏と対立することになったのです。
尊氏は直義を討伐すべく軍勢を率いて関東へ出陣することにしましたが、後顧の憂いをなくすために南朝方と急遽和睦を結ぶことにしました。この和睦のことを「正平一統」と呼びます。尊氏は外部の敵は後回しにして内部の敵を倒すことを優先したのです。
関東へ向かった尊氏ですが、鎌倉へ接近することができずに駿河国の薩埵山に陣をしきました。駿河以東の国々では直義に味方する武士が大勢いたので、さすがの足利尊氏といえども鎌倉へ一気に攻め込むことができなかったのです。このため、尊氏の軍勢は一月ほど薩埵山に陣をしいたまま動くことができませんでした。
ところが、尊氏に味方する宇都宮・小山の大軍勢が援軍に駆けつけるとの情報が流れると、直義派の軍勢に動揺が生じ、戦う前に直義軍の兵士が逃亡を始めたのです。このため、直義は尊氏に降伏せざるを得ませんでした。直義は尊氏に捕らえられ鎌倉で監視されていましたが、1352年2月に死去しました。一説には尊氏に毒殺されたとも言われています。
この時、父親と叔父の不和を嘆いていた基氏は鎌倉を離れており安房国に引き込もっていたそうです。世を疎んじていた基氏ですが、安房を訪れた尊氏の使者に説得され鎌倉に戻りました。この年足利基氏元服し、左馬頭に任じられ従五位下に除せられました。

足利直義が死去し足利氏の内部抗争が終息すると、正平一統は破れ尊氏と南朝方は再び争いを開始しました。1352年2月南朝新田義貞の次男である新田義興に対して足利尊氏の追討を命じました。義興は弟の新田義宗や従兄弟の脇屋義治ともとに上野国で挙兵しました。2月8日上野国を発進した新田義興の軍勢はわずか800騎でした。ところが、南朝から征夷大将軍に任じられた宗良親王が新田軍に迎え入れられると、関東武士の多くが新田勢が有利と思い込み、次々と味方に加わり始め、新田軍は大軍勢に膨れ上がりました。また、観応の擾乱の際に直義に味方して敗れた上杉憲顕も、信濃国から出てきて新田軍に加わっていました。
直義の死後も鎌倉にとどまっていた足利尊氏は、鎌倉で大軍勢を迎え撃つのは不利と判断し、2月17日に鎌倉を離れ武蔵国の石浜(現在の浅草付近)に移動しました。尊氏が去ったあとの鎌倉を新田義興が占拠しここを本拠地としました。こののち両軍は武蔵国の各地で激戦を繰り広げるので、この戦いは武蔵野合戦と呼ばれています。
2月20日両軍が最初に激突したのは武蔵国の金井原(東京都小金井市)でした。戦いは激戦となりましたが勝利をおさめたのは足利軍でした。敗れた新田義興は鎌倉に逃げ込み、新田義宗小手指原に布陣しましたが、小手指原の合戦でも勝利したのは足利軍です。その後も、入間河原(埼玉県狭山市)の合戦、高麗原(埼玉県日高市)の合戦において新田軍は敗れました。敗戦が続く新田義宗の軍勢は後退を強いられ、ついに笛吹峠に追い込まれ最後の決戦を挑むことになりました。決戦前夜、新田義宗の本陣から美しい笛の音が流れてきました。陣中にいた宗良親王が、月明かりのもとで笛を吹いたということです。この故事にちなんで、この地を笛吹峠(埼玉県鳩山町)と呼ぶようになったそうです。
最後の決戦に挑んだ新田義宗の軍勢は、笛吹峠の合戦でも敗れ越後国へ逃げていきました。また、鎌倉を占拠していた新田義興の軍勢も義宗軍が敗れたという知らせを受けると、足利軍と戦うことなく鎌倉を放棄し越後国へ退いていったということです。

新田義興の軍勢を退けた足利尊氏は、1353年7月まで鎌倉にとどまりました。その期間に、尊氏は鎌倉公方の関東支配を磐石なものとすべく様々な手を打ちました。
まず、鎌倉公方足利基氏の補佐役として畠山国清関東管領に抜擢しました。畠山氏は、足利氏の親戚であり鎌倉幕府草創期に活躍した関東の名族です。ちょっと昔の話にもどってみましょう。治承四年(1180)源頼朝は打倒平家の兵を挙げました。頼朝は初戦の石橋山の合戦では敗れたものの、船で房総半島へ逃れ、そこで千葉氏の助けを得て鎌倉への進軍を始めました。頼朝の軍勢が武蔵国へ入ると、秩父平氏の有力な武将畠山重忠は頼朝に忠節を誓い軍勢に加わりました。その後、河越氏や江戸氏など武蔵国の坂東武者が次々に頼朝の軍勢に加わりました。大勢の坂東武者を従えた頼朝が鎌倉入りを果たした時、その先陣を任されていたのが畠山重忠です。重忠は頼朝の重臣として用いられたのです。
しかし、鎌倉幕府成立後、畠山重忠は不運に見舞われました。畠山氏の勢力が拡大することを恐れた北条時政は、重忠を殺害し畠山一族は滅びたのです。ところが、重忠の妻が生き残っており、足利義純と再婚したのです。この義純とは足利氏の祖である足利義康の孫にあたります。義純は関東の名族畠山氏が滅んだことを惜しみ、畠山氏を名乗ることにしたのです。こうして畠山氏は存続し室町時代に至って関東管領の地位に就いたのです。畠山国清は基氏にとって頼りになる補佐役でした。
次に、尊氏が基氏の為にしたことは、基氏に入間川在陣を命じたことです。関東には上野国を中心にして南朝に味方する武士が依然として存在しており不穏な動きを見せていました。基氏が鎌倉にいたのでは、上野国国境から離れ過ぎており、いざという時に素早い対応をすることができません。そこで、尊氏は武蔵国北部の入間川(埼玉県狭山市)に恒久的な足利氏の軍事拠点を構築し、基氏をそこに在陣させたのです。入間川陣は、上野国から武蔵国へ侵入してくる敵を迎え撃つのに適した場所です。また入間川陣は、尊氏に味方する武蔵国の平一揆の勢力圏の中に位置しています。平一揆とは、武蔵野合戦でも活躍した強力な軍事勢力です。前述した小手指原の合戦では、足利軍の先陣を平一揆が受け持ち、新田義宗の軍を大いに破ったそうです。入間川陣は、平一揆の軍勢に常に守られており、上野国との国境にも近く、南朝方の敵を牽制するのにうってつけの場所でした。
足利基氏は、1353年から1362年までの10年もの間入間川陣に在陣していました。そのため、入間川陣は鎌倉府の軍事拠点であるとともに、政治拠点でもあったとも考えられています。また、入間川陣に在陣したことは、尊氏と基氏の親子の絆を深めることにもつながったと私は考えます。尊氏の三男である基氏は幼い頃足利直義の養子に出されていたと言われています。そのため、尊氏と基氏の親子関係は希薄であったと思われるのです。それが、入間川陣で長らくともに過ごすうちに親子の情が深まったと思われるのです。尊氏が基氏のことを思いやる気持ちが強くなったからこそ、鎌倉公方は思いもよらぬ権限を持つことができたのです。
それが、尊氏が基氏のためにしてあげた最も重要なことです。それは、鎌倉公方に将軍と同等の権限を与えたことです。尊氏は、関東十ヵ国内において、鎌倉公方が武士に対して土地所有権や土地支配権を与える権限を持つことを許したのです。本来、この権限は京にいる将軍だけが持つことのできる権限でした。それを、関東分国内に限定してですが、鎌倉公方が行使できるようにしたのです。中世の武士にとって、最も重要なことは戦に出て手柄をあげ、その褒美として土地をもらうことでした。武士に土地を与える権限、あるいは土地を支配する権限を与えることができるのは将軍だけなのです。だからこそ、武士は将軍に忠節を誓い、戦に出て死に物狂いで働くのです。言わばこの権限は、将軍の支配力の源であるわけです。鎌倉公方はこの権限を持ったことで、関東の武士たちをを支配することのできる強力な力を手に入れたのです。さらに、鎌倉公方本領安堵新恩給与の権限を持ったことは、鎌倉公方と関東武士の間に主従関係が結ばれる大きな要因となりました。こうして、初代鎌倉公方足利基氏は、東の将軍とも言える存在になったのです。