歴史楽者のひとりごと

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東の将軍 鎌倉公方 その1ー 尊氏鎌倉を手に入れる

1336年湊川の合戦で宿敵楠木正成を倒した足利尊氏は、武家政権を樹立する目的で建武式目を定めました。建武式目において、尊氏は京都に幕府を開くことを明らかにし、鎌倉には関東十ヵ国(相模、武蔵、上総、下総、上野、下野、常陸安房の関東八ヵ国に加えて甲斐、伊豆)を支配する機関として鎌倉府を設置しました。鎌倉府の最高権力者は鎌倉公方と呼ばれ足利尊氏の子孫が代々その地位に就いたのです。
当初、鎌倉公方の役割は、室町幕府から派遣された関東方面軍の戦闘司令官でした。鎌倉公方の権限は軍事行動に限定されており、政治的な命令は全て京都の将軍から発せられていたのです。ところが、南北朝の争乱が続く中で、鎌倉公方は関東の武士たちに対して土地の所有権を保証する権限を行使できるようになるのです。
この権限は、本来将軍だけが持つ権限でした。幕府の出先機関の長官であった鎌倉公方は、所領安堵の権限を持ったことで、関東の武士たちと主従関係を結び、関東の支配者として君臨するようになりました。こうして鎌倉公方は、あたかも東の将軍として存在し西の室町幕府の将軍と並び立つ存在になったのです。やがて、鎌倉公方と室町将軍は争うようになり関東の歴史に大きな影響を及ぼします。
しかしながら、高校の日本史の教科書では鎌倉公方についての記述はわずか数行でしかありません。一般的には鎌倉公方は全く知られていない存在なのでず。そこで、今回は室町時代における東の将軍とも言うべき鎌倉公方について、調べていきたいと思います。
では、最初に鎌倉公方が誕生するまでの道のりをみていきます。1331年打倒鎌倉幕府を掲げた後醍醐天皇笠置山へ遷幸すると、楠木正成など勤皇の志を持った武将がこれに応じ挙兵しました。しかしながら、後醍醐天皇の企ては失敗し、北条政権は後醍醐天皇隠岐への流罪に処しました。1333年後醍醐天皇隠岐を脱出し、再び鎌倉幕府に対して反旗を翻しました。今回の蜂起では、楠木正成はもちろんのこと、名和長利など西国の有力な豪族も後醍醐天皇の呼び掛けに応じて武装蜂起しました。
鎌倉の執権北条高時は、後醍醐天皇の勢力を倒すため、東国武士で組織した幕府軍を編成し畿内に派遣したのです。幕府軍の指揮官に任命されたのは、足利尊氏でした。尊氏は畿内に出立する際に、嫡男千寿王(元服後は義詮)を人質として鎌倉に残していきました。源氏の棟梁の血を引く足利尊氏は、自らが武家の頂点に立つという野望を秘めていました。そのことは北条高時もうすうす気がついており、高時は尊氏の裏切りを警戒していたのです。
そして、北条高時の不安は的中しました。京都に入った尊氏は北条方を裏切り後醍醐天皇方へ寝返ると、一気に六波羅探題を攻撃しこれを攻め落としたのです。この時人質となっていた千寿王は密かに鎌倉を脱出していました。千寿王は上野国で挙兵した新田義貞の軍勢と遭遇し、そのまま鎌倉攻めの軍勢に加わることができたのです。1333年鎌倉幕府新田義貞の軍勢によって滅ぼされました。鎌倉幕府を滅亡させた第一の軍功は新田義貞にありますが、足利尊氏の嫡男である千寿王が足利氏の軍勢の旗頭として参戦していたことが、後の歴史に大きな影響を与えることになるのです。
鎌倉で見事な勝利を挙げた新田義貞は、後醍醐天皇に拝謁すべく京都へ向かいました。一方、千寿王は鎌倉にとどまり、鎌倉幕府を倒した戦いで軍功のあった関東武士に軍忠状を与えていました。千寿王はこの時3歳でしたが、千寿王の身の回りには足利尊氏の家臣が付き添い、あたかも倒幕軍の大将のようなふるまいをしていたのです。
こうして、足利尊氏は千寿王を尊氏の代理として鎌倉にとどめたことで、源氏にとっての聖地である鎌倉をいとも簡単に手に入れることに成功したのです。