歴史楽者のひとりごと

こんにちは、歴史を楽しむ者のブログです。

江戸という地名の謎

 2019年5月1日に新天皇が即位され、元号が令和に改められました。新しい時代の幕が開き、日本国内は祝賀ムードに包まれ、人々の心には新しい時代への夢や希望がふくらんでいます。
 今から151年前の1868年9月、時の政府は元号を明治に改めました。そして、改元の2ヶ月前に、江戸は東京にその名前を改められたのです。翌1869年に日本の首都は京都から東京へ遷されました。それ以来、東京は日本の首都として発展してきたのです。
 その一方で、江戸という地名は、長い歴史と伝統に育まれ、今も私たちの暮らしの中に息づいています。美しい硝子細工の器といえば江戸切り子ですし、美味しいお寿司といえば江戸前ですよね。
 さて、この江戸という地名にはどのような意味があるのでしょうか?実は、その名の由来には諸説あって、未だ結論は出ていないようです。そこで、今回は江戸という地名の謎に迫るとともに、江戸の歴史をたどってみたいと思います。
 江戸の地名の由来については、「家康はなぜ江戸を選んだか」(岡野友彦)という本の中に詳しく書いてあるので、その本を参考にさせて頂きました。

 「江の門戸」説
 江戸、水戸、坂戸など戸のつく地名は戸口という意味。江戸は江の門戸、つまり入江の出入り口という意味です。
 
 「荏土」説
 「荏所」の略語で、エゴマやアサ、アシばかりが生えていた土地という意味です。

 「江に臨む所」説
 鎌倉中期に作られた「沙石集」という説話集に「武蔵の江所」という記述がある。これこそ中世の江戸であり、江所とは入江のある場所を意味しており、江戸は入江に臨む所とう意味です。

 「江の湊」説
 江戸の「江」は日比谷の入江を指しており江戸の「戸」は船が停泊するところの意味であり、江戸とは入江のある湊という意味です。

 その他、律令制で郷という行政単位を作るときに、郷にまとめることのできなかった余った戸=余戸という説や、アイヌ語の「エツ」で鼻という意味だというユニークな説も載っています。

 この本に取り上げられている説の中で「江の門戸」「江に臨む所」「江の湊」の三つの説は江戸が海に面した土地であるという地理的要因に由来している地名だと思います。
 つまり、江戸とは海と河川が接する特別な場所なのです。古来から、人々はそこが豊かな海の恵みを享受できる場所であり、また交易をするのにも便利な場所であることを知っていたのでしょう。


 では、この江戸に人々が暮らし始めたのはいつ頃からなのでしょうか?
 人々が江戸付近で暮らし始めた古い痕跡を留めているのが、東京都品川区にある「大森貝塚」です。
 大森貝塚は米国の学者モースによって発見されました。明治10年モースは明治政府の招きを承けて来日し、東京大学の動物学教授に就任しました。そして、就任して間もなく大森貝塚を発見したのです。
 大森貝塚縄文時代後期から晩期にかけての遺跡です。貝塚からは多種におよぶ貝のほかに、魚や動物の骨や土器、石器、人骨などが見つかっています。つまり、今からおよそ3500年ほど前から人々は江戸付近で暮らし始め、海の恵みを受けていたのです。
 さらに、大森貝塚と同じ品川区にある「大井鹿島遺跡」からは、古墳時代から奈良、平安時代にかけて断続的に形成された村落の痕跡が見つかっています。人々は江戸の地に定住し暮らしの場所を広げていったのでしょう。
 また、古い時代に人々が暮らしていた痕跡は遺跡だけではなく、お寺や神社の「御由緒」にも残っています。
 浅草の三社祭りで有名な浅草寺の「浅草寺縁起」によれば飛鳥時代推古天皇36年すなわち西暦628年に江戸浦(隅田川)で魚を穫っていた三兄弟の漁師が観音像を引き上げて、そのご尊像をお祀りしたのが浅草寺の始まりだとされています。
 大化元年(645年)には勝海上人がこの地を訪れて観音堂を建立したので、浅草一帯は門前町として栄えるようになったということです。今や海外からの観光客で賑わう浅草のルーツは飛鳥時代にあり、古来から栄えた門前町であるのです。
 さて、前出した「家康はなぜ江戸を選んだか」によると「江戸」という地名が歴史に登場したのは、「吾妻鏡」に書かれたのが最初だということです。
 「吾妻鏡」とは鎌倉時代に書かれた歴史書であり、源頼朝がいかにして平家を倒し、鎌倉幕府を築いたのかが書かれた文書です。
 治承四年(1180年)源頼朝は伊豆において平家打倒の兵を挙げました。しかし、頼朝は石橋山の合戦に敗れ、船に乗って房総半島へ逃れたのです。房総半島で再起を図った頼朝は、東国にいる武将たちに御書を出して味方を募るのです。その時、武蔵国の武将葛西三郎清重に宛てた御書に江戸の地名が出ています。その部分を「現代語訳 吾妻鏡」(五味文彦本郷和人 編)より抜粋します。
 「清重は、源氏に対して忠節をはげんでいる者であるが、その居所は江戸と河越の中間であるので、動きが取りにくいであろう。早く海路を経てやってくるように」
 頼朝が発した御書に多くの坂東武者が従い、頼朝のもとに大軍勢が集結します。この部分の詳しいお話は、小職のブログ「坂東武者の系譜 源頼朝」に書いています。
 吾妻鏡によれば、頼朝は三万騎の軍勢を率いて江戸川と隅田川を渡り武蔵国に入ったそうです。三万騎という数字が真実かどうかは別にしても、石橋山の合戦に敗れてから僅か1ヶ月で、頼朝が大軍勢を集めることができたのは驚きです。
 また、大軍勢をそろえなければいけないほど、下総国から武蔵国への国境を通過するのは非常に危険であったということがわかるのです。つまり、国境に接した江戸は軍事的にも非常に重要な場所であったということです。
 一説によれば、この時頼朝が渡河に使った船は、江戸重長が用意した船だということです。江戸氏は平良文につながる秩父平氏の子孫で、後三年の役では源義家に従い先陣を努めたこともある由緒正しき武将の家柄です。平安時代末より江戸を領地とし地名を名字としたのでしょう。
 江戸重長は浅草一帯をも支配し、浅草にある石浜湊には数多くの西国の船が集まっていたということです。重長は江戸湾の湊に集まっていた船を総動員して頼朝の武蔵国入りを支えたのだと思います。
 そして、このことは、平安時代末までに江戸と西国の間には航路が開かれ、交易が行われていたことを示しているのです。江戸はこの頃から港湾都市として機能していた場所なのです。
 鎌倉時代のころ、江戸には隅田川の河口に位置する石浜湊や目黒川の河口に位置する品川湊が栄えていました。そのことから考えると、江戸という地名は大きな川の河口にある湊という意味が一番ふさわしいのではないでしょうか。
 以前に「徳川家康が来る前の江戸」でも話した通り、家康公が来る以前の江戸は決して寂しい漁村ではなく、中世から港湾都市として栄えていたのです。
 太古の昔から人々は江戸一帯に住み着き始めました。そこは穏やかな海に面した場所であり、豊かな海の恵みを享受できる場所でした。
 やがて、浅草ではありがたい観音様の像が祀られ、お堂が建立されました。その評判はたちまち広まり、浅草には多くの参拝客が訪れるようになったのです。
 中世になると、伊勢との間に航路が開かれ西国の産物が江戸にもたらされるようになりました。この航路を切り開いたのは、熊野権現の信仰を伝える目的で航海に出た人々でした。彼らの一部は江戸にたどり着き、そこで船乗りと商人を兼ねる存在(問丸)になったのです。 
 こうして隅田川や目黒川の河口に生まれた海辺の集落は、仏教の聖地となり、海運・商業の拠点となることで港湾都市に変貌を遂げました。さらに、武士の時代が到来すると江戸は軍事的にも重要な場所になり、室町時代に関東で大戦乱が起きると、太田道灌によって江戸城が築かれたのです。

 今回参考にさせて頂いた文献は下記の通りです。

家康はなぜ江戸を選んだか 岡野友彦

現代語訳 吾妻鏡 五味文彦本郷和人 編

品川歴史館解説シート No2大森貝塚   No21古代の村のくらし

Wikipedia 江戸重長

日本の歴史と天皇の関わり

 平成31年4月30日は天皇が退位される日です。天皇が退位されるのは約200年ぶりとのことで、5月1日には新天皇が即位され令和という新しい時代が始まります。
 そこで、日本の歴史の節目にあたり、歴史と天皇の関わりについて考えてみました。
 まず、教科書に載っている年表によって、天皇の歴史をザックリとたどってみたいと思います。参考にしたのは、高校日本史のサブテキスト「新詳日本史」(浜島書店)です。
 古代の日本では文書による記録がなく、日本の歴史を知る手がかりは、古代中国の歴史書の記述にあります。
 古代中国の歴史書宋書」によると、4世紀から5世紀にかけて日本には「讃、珍、済、興、武」という大王がいたことが記されています。いわゆる倭の五王です。
 近畿地方には仁徳天皇陵などの巨大な前方後円墳が存在していますが、それらを築いた大王たちが倭の五王であると考えられています。そして、古事記日本書紀に登場する応神天皇仁徳天皇允恭天皇安康天皇雄略天皇などが、倭の五王に当たるのではないかと推定されていますが、確実ではありません。
 この倭の五王の中で最も存在したことが確かなのは倭王武です。宋書によれば武は478年に宋に特使を派遣し、安東大将軍と呼ばれ倭国王であると認められているのです。
 埼玉県稲荷山古墳や熊本県江田船山古墳から出土した鉄剣には「ワカタケル大王」の名が刻まれており、その年代からワカタケル大王が倭王武であり、雄略天皇であると推定されています。
 ワカタケルは関東から九州にかけて勢力を広げた大王でした。しかし、ワカタケル大王の死後、天皇皇位継承をめぐり、有力な豪族たちが争いを起こします。その結果、北陸地方の豪族に後押しされたオホド王が迎えられ、507年に継体天皇となります。
 その後も豪族たちの勢力争いは続きますが、やがて蘇我氏が台頭し大きな力を持つようになります。
 592年には日本で初の女性天皇である推古天皇が即位します。推古天皇を補佐したのが聖徳太子です。推古天皇のもとで聖徳太子は冠位十二階を制定したり17条の憲法を制定したりするのです。
 645年中大兄皇子中臣鎌足らとともにクーデターを起こし蘇我入鹿を暗殺し蘇我氏を滅ぼします。以前は大化改新と呼ばれていたこの出来事は、最近では「乙巳の変」(いっしのへん)と呼ぶそうです。
 この時、日本史上初の元号が定められました。それが大化であることは皆さんもご存知の通りです。そして、この時の天皇孝徳天皇です。
 中大兄皇子天皇に即位し天智天皇になるのは668年です。それから3年後の671年に天智天皇は亡くなります。その後、天智天皇の息子大友皇子天智天皇の弟大海皇子との間で皇位継承争いが起きます。世に言う「壬申の乱」です。
 大海皇子は畿内を脱出し伊勢へ向かいます。伊勢を通過する途中、大海皇子は海を挟んで伊勢神宮の方向を一望できる場所にたたずみ天照大神を遙拝します。おそらく、大海皇子は、ここまで無事に逃げてこれたことに感謝し、戦いに勝利することを祈願したのでしょう。
 大海皇子は伊勢を通過し美濃に至ります。大海皇子は美濃の不破の関へ進み、そこで大軍勢を味方につけることに成功します。じつは、この大軍勢は大友皇子が集めた軍勢だったのですが、大海皇子側に寝返ったのです。
これで一気に優位に立った大海皇子は軍勢を大友皇子のいる近江に進め、大友軍を破り勝利を得るのです。
 ちなみに、この不破の関があった場所ということで名付けられたのが関ヶ原です。関ヶ原とはその地名の由来からしても、天下分け目の大合戦が起きる場所として運命付けられていたのかもしれません。
 話を元に戻します。673年大海皇子は天武天皇として即位します。天武天皇律令の編纂を開始したり、国史の編纂を開始するなど、日本が律令国家になるための基礎を築いた天皇です。
 天武天皇の死後跡を継いだのは皇后であった持統天皇でした。持統天皇は孫が成長し天皇に就くまでのつなぎ役として天皇になったのですが大いに活躍します。
 持統天皇は、伊勢神宮に祀られている天照大神への感謝の意を示し、夫天武天皇の偉業を後世に伝える為に、伊勢神宮の社殿を新築し20年毎に建て替えるという式年遷宮を創始したのだと云われています。こうしてみると伊勢神宮と皇室の関わりがいかに深いかがわかります。
 794年桓武天皇平安京へ遷都すると、律令国家を運営するため、官僚機構が整備され貴族が政治運営をする時代になりました。
その中で台頭してきたのが藤原北家です。
 藤原北家は娘を天皇の后にし、その后から男子が生まれ天皇となることで摂関政治を展開するようになりました。そして藤原道長・頼通の時代に全盛期を迎えるのです。
 これに対して、天皇藤原氏から政治の実権を奪い返すために院政を始めるのです。1086年白河上皇は歴史上初の院政を開始します。これ以降、政治権力を奪い合うために天皇上皇藤原氏は武士の力を利用するようになります。そして、それが源氏や平氏などの武士の台頭を招くのです。
 清和源氏桓武平氏と呼ばれるように、源氏や平氏はもともと天皇の子息でした。しかし9世紀になると増えすぎた皇族を整理するために身分の低い女性から生まれた皇子は貴族へと降下させられたのです。これが源氏や平氏の始まりでした。
 貴族となった源氏や平氏は地方へ赴き国司に就任しました。彼らは地方を拠点にして勢力を養い、武士としての力を蓄えたのです。
 やがて平安時代後期になると天皇上皇藤原氏が複雑に入り乱れて権力争いを始めます。そこへ源氏や平氏は巻き込まれることになるのです。そして武士の軍事力なくしては政治権力を得ることはできなくなり、武士の存在価値は大いに高まりました。
 その流れの中で、数々の戦いに勝利してきた平清盛が頂点に立つことができたのです。安徳天皇の外祖父となった清盛は時の最高権力者であり、平氏はその当時の日本最強の軍事集団であったのです。
 その平氏全盛の時代にあって異議を唱える皇族が現れました。高倉天皇の第三皇子である以仁王です。1180年以仁王は自分が天皇になりたいがために反乱を企て、平氏追討の令旨(りょうじ)を出したのでした。
 このことをきっかけにして、源平合戦が起きたのです。1185年壇ノ浦の合戦で平氏は滅亡しました。勝利した源頼朝鎌倉幕府を開き本格的な武家政治の時代が始まりした。
 政治の実権を失った天皇は、鎌倉幕府を倒す機会を待つほかありませんでした。1219年三代将軍源実朝が暗殺され鎌倉幕府は危機に直面します。
 これを好機ととらえた後鳥羽上皇は、鎌倉幕府打倒のため1221年に挙兵します。世に言う「承久の乱」です。しかし、北条政子の必死の訴えによって、東国武士は北条氏のもとに結集し、京都へ攻め込んで鎌倉幕府は勝利を得たのです。この後、およそ100年の間鎌倉幕府は続きました。
 鎌倉時代の末期に後醍醐天皇が挙兵し一時は建武の新政を展開しましたが、足利尊氏に敗れました。天皇が政治権力を得るために戦いを起こしたのはこれが最後でした。その後室町時代、戦国時代、江戸時代と武士の時代が長く続くのです。
 天皇が歴史の表舞台に再び登場したのは1853年にペリーが浦賀に来航した時です。この時の天皇孝明天皇でした。そして幕末の動乱を経て、明治維新を迎えたのです。
 明治以降、日本は外国との戦争を経験しました。第二次世界大戦で日本は、アジア地域を侵略するという暴挙を起こし、アメリカやイギリスと戦うことになりました。そして戦争に敗れ、反省し平和な国家として新たな歩みを始めたのです。
 天皇は日本の象徴となりました。「象徴とは何であるか」という問いに答えを出すのは大変難しいことですが、日本の歴史と天皇の関わりを知ることで、その答えのヒントがみつかるような気がします。
 私たち日本人の祖先が、同じ仲間として国を作ろうと思い始めたのが、今から約1600年前のことのようです。そのとき、リーダーとなって国作りを進めたのが大王=天皇です。国家の仕組みを作るだけではなく、私たちが誇りにしている日本の伝統や文化を作り出すところでも天皇はリーダーでした。
 そして栄枯盛衰を繰り返しながらも、今日まで天皇家は存続し、私たちに日本の歴史の長さと奥行きの深さを教えてくれるのです。
 平成に続く令和の時代も、天皇は日本の象徴としていらっしゃるでしょう。そして私たち日本人は、令和という元号に込められているような「平和でより良き時代」を力を合わせて築いていくのです。

ブラックホールを予言した天才 チャンドラセカール

 先日天文学の世界で大きなニュースがありました。人類はついにブラックホールの撮影に成功したのです。南米やハワイなどの電波望遠鏡をつないで地球規模の観測装置(イベント ホライズン テレスコープ)を作りブラックホールを撮影することができたのです。撮影されたのは、M87銀河の中心に存在するモンスターブラックホールです。
 巨大な星が一生の終わりに超新星爆発を起こしてブラックホールが生まれるのですが、今回撮影されたようなモンスターブラックホールがどのようにして生まれるのかは、まだ謎のままです。
 ともあれ、アインシュタインが発表した一般相対性理論によって、その存在が理論上予測された奇妙な天体ブラックホールの実在がついに証明されたのです。この成功を受けて今後さらに研究が進み、ブラックホールの謎が解明されて行くことでしょう。
 ブラックホールの撮影に成功した快挙は、連日のようにネットでも取り上げられています。そこで、私も今回はブラックホールに関する一人の天才科学者について話をしたいと思います。
 その科学者の名前はチャンドラセカール。非常に重い恒星が一生の最後にブラックホールになることを予言した人です。
 19歳でインドの大学を卒業したチャンドラセカールはイギリスのケンブリッジ大学に留学することになりました。1930年イギリスへ向かう船旅の途中で、チャンドラセカールは、天才的なひらめきを得ました。それは「非常に重たい恒星の一生の終わりは白色矮星ではなく、ブラックホールになる」という考えでした。
 チャンドラセカールの考えは非常に斬新なものでした。1930年頃まで天文学の世界では恒星は全て一生の終わりに白色矮星になると考えられていました。
 しかし、チャンドラセカールは一般相対性理論を考慮して計算した結果、非常に重たい星は、その重さゆえに白色矮星にとどまることができず無限に収縮していきブラックホールになるという結論に達したのです。
 ケンブリッジ大に留学したチャンドラセカールは偉大な天文学者エディントンに師事しこのアイデアを伝えたのです。エディントンはアインシュタイン一般相対性理論の正しさを証明した人物でした。
 しかし、エディントンはチャンドラセカールの考えを全否定しました。エディントンはブラックホールのような奇妙な天体が、宇宙に存在することを認めてくれなかったのです。
 アインシュタイン一般相対性理論を発表した直後、ドイツの天文学者シュヴァルツシルトによって一般相対性理論の方程式が解かれ、ブラックホールが理論上は存在することが予測されていたにもかかわらずです。
 エディントンとチャンドラセカールの間では激しい論争が繰り広げられました。しかし、当時の世界的権威であるエディントンが相手では、チャンドラセカールにとうてい勝ち目はありません。論争に疲れたチャンドラセカールはケンブリッジ大を去りました。
 ところが、その後欧米の天文学者たちがチャンドラセカールの理論を研究し、それが正しいことが認められたのです。
 のちにチャンドラセカールは、その功績が認められノーベル物理学賞を受賞しました。またNASAが打ち上げたX線観測衛星は「チャンドラ」と名付けられました。
 歴史上初めて星がブラックホールになること予言したのはチャンドラセカールです。もしも、彼がインド人ではなく欧米人であればエディントンの受けとめ方は違っていたのではないでしょうか?
 科学の世界では時として権威主義や偏見が進歩を妨げることがあるのです。しかし、我々人類が持つ好奇心はそのような障壁を乗り越えて前進していくのです。
 およそ90年前にチャンドラセカールが予言した奇妙な天体ブラックホールは、科学技術の進歩と世界中の科学者が協力することでついに、その姿をとらえられました。チャンドラセカールが生きていればきっと喜んだことでしょう。そして、私はこの機会にチャンドラセカールの功績を世界中の人々に知って欲しいと思います。

 時々、「ブラックホールが撮影できたことが何の役に立つのですか?」という愚問を発する人がいます。
 ブラックホールについて研究することが何か直接的に人間の生活に利便性を与えることは、なかなかないかもしれません。
 しかし、ブラックホールについて知りたいという好奇心は我々人間だけが持つものです。この好奇心こそが人間を進化させてきたのではないでしょうか。「あの山の向こうには何があるのだろうか?」「この海の向こうにはどんな世界があるのだろうか?」人間はこのような好奇心に突き動かされ新天地を開拓したり、舟を発明し大海原を渡る冒険にでることができたのです。
 何かを知りたいという好奇心と、知るために挑戦すること、それが人間を進化させ同時に人間の持つ技術力を高めてきたのです。月に行きたいという好奇心が人間にロケットを発明させ、月面に人類が降り立つことができたのです。
 何かを知りたいという好奇心に突き動かされ挑戦し続けること、それが我々が人類であるということの証なのです。

坂東武者の系譜 源頼朝

 先日、平成に代わる新しい元号が決定されました。「令和」です。万葉集の梅花の歌の序文「初春の令月にして気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす」が出典だということです。
 私は、この万葉集の序文の説明によって「令」という字に「縁起がよい」とか「りっぱな」という意味があることを知りました。
もし、この序文の説明がなければ、「令」という文字から受ける率直な印象は、命令だと思います。
 歴史学者本郷和人先生は、新元号として「令和」という文字を使う時の問題点のひとつに、「令」は「令旨」(りょうじ)につながるということをおしゃっています。令旨とは皇太子や親王が出す命令のことです。その意味では、新天皇が即位される時の元号としてふさわしくないとのことでした。
 日本の歴史のなかでは、この令旨が出され歴史を大きく動かしたことがあります。
 治承四年(1180年)四月に以仁王(もちひとおう)が発した平氏追討の令旨もそのひとつだと思います。
 以仁王後白河上皇の第三皇子でした。第一皇子の二条天皇が即位したので、以仁王は仏門に入ろうとしたのですが、出家する機会を失い、皇子として元服していました。以仁王は、皇位継承の機会が巡ってくるかもしれないという淡い期待を抱いていたのです。
 しかし、二条天皇の後皇位についたのは後白河上皇の第七皇子である高倉天皇でした。さらに皇位高倉天皇から安徳天皇へ継承されました。こうして以仁王天皇になる望みはついえたのです。
 さらに、以仁王を不幸が襲いました。平清盛以仁王の所領を没収してしまったのです。この悲惨な状況で自暴自棄になった以仁王はクーデターを起こして平清盛を倒し、天皇位の簒奪を狙ったのでした。
 そこで以仁王が発したのが平氏追討の令旨でした。令旨は源行家によって東国の源氏にもたらされたのです。
 しかし、以仁王の令旨を受け取った東国の源氏のなかに、すぐさま立ち上がる武士はいませんでした。この時、平清盛に刃向かえる武士など日本中どこにもいなかったのです。安徳天皇平清盛の娘である徳子が生んだ天皇です。すなわち、清盛は天皇の外祖父として時の最高権力者になっていました。そして、平氏は当時の日本で最強の武家集団であったからです。平氏に刃向かうことは、即滅亡を意味していたのです。
 平氏追討の陰謀はすぐさま露見し、以仁王は土佐へ配流されることになったのですが、抵抗したので命を落としてしまいました。
 平清盛以仁王を処罰しただけではなく令旨を受け取った源氏も討伐することにしました。そこで、東国の源氏の動きを監視するために大庭景親を派遣したのです。
 ここにおいて、源頼朝はついに平氏追討のため挙兵することを決断したのです。本来ならば、頼朝は伊豆でひっそりとした暮らしを続けたかったはずです。
 しかし、以仁王の令旨を受け取ったことで平清盛から圧迫され、命を奪われる危機に直面することになりました。頼朝の挙兵は源氏対平氏の最終決戦としてとらえがちですが、実は、頼朝が「窮鼠猫を噛む」という状況に追い込まれたという見方が適切なのです。
 結果として、以仁王の令旨が平氏追討のきっかけを作り歴史を動かしたのでした。
 頼朝に協力した坂東武者も、それぞれ危機的状況に陥っていました。大庭景親相模国に下向してきたことで、相模国の三浦氏や中村氏は勢力を景親に奪われていました。
 また、房総の上総氏や千葉氏は平治の乱の後一族の中で勢力争いが起きていました。平治の乱の時点で源義朝に味方していた武士たちは、皆一様に苦境に立たされていました。彼らは平氏方についた同族の武士たちや、新たに台頭してきた常陸源氏の佐竹氏に勢力を奪われていたのです。このままでは衰退する一方であった旧義朝派の武士たちは、挙兵して平清盛に対して反旗を翻すほか選択の余地が無かったのです。
 破れかぶれの坂東武者たちが、打倒平氏に立ち上がった時、反乱の旗印としたのが源頼朝でした。落ちぶれたとは言え、頼朝は源氏の棟梁の嫡流です。坂東の長い歴史のなかで坂東武者たちは幾度も源氏の棟梁に従い勢力を拡大してきたのです。
 絶対絶命の危機に直面したこの時こそ、坂東武者たちは源頼信、頼義、義家、義朝の血を引く頼朝に、全てを賭けて新しい時代を切り開こうとしたのです。
 そして、坂東武者たちのイチかバチかの賭けは成功しました。頼朝は挙兵直後の石橋山の戦いに敗れはしたものの、房総半島へ逃れた後は、勢力を挽回しました。頼朝のもとには続々と味方が集まってきたのです。
 石橋山の戦いでは敵方であった畠山重忠江戸重長らも、頼朝の軍勢が日増しに拡大していく様を見てこれに加わりました。こうして治承四年十月六日、源頼朝はついに鎌倉入りを果たしたのです。

 昨年の12月から12回にわたって坂東武者の系譜という話をしてきました。私がこの話を取り上げたのは、源頼朝が挙兵した時、なぜ坂東武者たちは、何の権力も持っていない裸同然の源頼朝に協力し、平清盛に戦いを挑んだのか、その理由が理解できなかったからです。
 頼朝に従った坂東武者の多くが、坂東平氏の子孫です。もし頼朝の挙兵が源平合戦という源氏と平氏の雌雄を決した戦いであるならば、坂東平氏平清盛に味方するべきではないでしょうか?
 それにもかかわず、その当時の日本で最大の権力者であり最強の武家である平清盛に対して、全く無力である源頼朝になぜ多くの坂東平氏が協力したのでしょうか?この問題は私にとって大きな謎でした。
 しかし、長い坂東武者の歴史をたどることで、ようやくその謎が解けました。天皇の子孫である桓武平氏清和源氏が坂東に下向して武家貴族が生まれました。ある者は坂東に土着し在地の武士となりました。またある者は都と坂東を往還し、天皇の子孫であるという貴種性を保ちながら坂東武者を従える立場になりました。
 その長い歴史のなかで、源氏の棟梁と坂東武者との間に深い絆が育まれました。源氏の棟梁に従った坂東武者の多くが、もとは平氏の流れを汲む武士たちです。彼らは平氏という血筋よりも坂東武者の気風を貴び、源氏の棟梁と結んだ絆を尊重したのです。
 全盛期を迎えた平清盛は、以仁王の令旨を契機にして、自分に敵対する武士を滅ぼそうと決断しました。それは、平氏一族の永遠の繁栄を願っての決断だったのでしょう。しかし、清盛のこの決断が結果として裏目に出ました。
 弱者を窮地に追い込み過ぎたのです。絶体絶命の危機に瀕した源頼朝と坂東武者が、起死回生の策として選択したのが打倒平氏のために挙兵することだったのです。彼らは、どうせ清盛に滅ぼされるのなら、せめて坂東武者らしく華々しく戦って散ろうと思ったのです。そして、その行動が彼らの未来を切り開いたのです。
 私たちは源平合戦という言葉に惑わされ、源氏と平氏が宿命のライバルとして雌雄を決したように思いがちですが、その認識には大きな誤りであるのです。

本シリーズを書くにあったて参考にした文献は下記の通りです。

現代語訳 吾妻鏡(1) 五味文彦本郷和人(編) 吉川弘文館
源氏と坂東武士  野口 実 吉川弘文館
河内源氏     元木泰雄 中公新書
陰謀の日本中世史 呉座勇一 角川新書

坂東武者の系譜 源義朝

 2019年3月21日偉大なメジャーリーガーイチローが引退しました。メジャーリーグに挑戦した天才打者イチローは、打撃成績において次々とMLBの記録を塗り替えました。イチローの活躍は日本人はもとよりアメリカの野球ファンにも多くの感銘を与えたと思います。
 まさに、イチローは現代のスーパースターです。かつて、これほどまで多くの人々を魅了した偉大なヒーローが日本にはいたのでしょうか?
 歴史上の人物とイチローを比較するのは困難なことですが、敢えてイチローに匹敵するヒーローを挙げるとするならば、その一番手に挙がるのは源義家だと思います。
 前九年合戦において鬼神のごとき活躍をした義家は「天下第一の武勇の士」と呼ばれ多くの人々から賞賛されました。
 しかし、後三年合戦では戦いに勝利したものの、朝廷から私戦を行ったとみなされた義家は、恩賞を賜ることはできませんでした。
 ところが、源義家に対する朝廷の処遇に憤慨した全国の人々が、義家に土地を寄進するという行動に出たのです。義家の人気は非常に高く、あまりにも多くの人々が義家に土地を寄進したので、朝廷はこれを法律で禁止したほどです。
 平安時代の人々にとって、源義家は、奥州にいる恐ろしい強敵を倒した偉大な英雄だったのです。
 その英雄源義家の曾孫に当たるのが源義朝です。義朝は少年時代に坂東へ下向し「坂東ソダチモノ」と呼ばれていました。義朝が坂東で育てられたということは、源為義の長男でありながら、源氏の棟梁の家督を継ぐ立場になかったことを示しています。
 源義親の反乱以来、源氏の勢力は衰退していました。ここでまた、源氏一族の中から乱行を働く者が出てくれば、源氏は滅亡しかねない状況におかれていたのです。
 源義朝はその後の行動からもわかるように武力にものを言わせるタイプの人間です。そのため、源氏の嫡子として都に住まわせておくことは危険だと判断され、板東へ送られたのでしょう。
 しかし、嫡子の座を追われた義朝はその不遇な境遇に甘んじることなく、自らの人生を切り開きました。荒々しい気風の板東で育ったことが、むしろ義朝には幸いしたのです。坂東で義朝を迎えたのは、上総国の有力な武将である上総氏でした。上総氏は房総平氏の祖である平忠常の直系の子孫で、まさに板東武者の中の坂東武者です。
 やがて、義朝は相模の有力武将である三浦義明の婿となり、鎌倉を本拠地とします。上総、相模の武士団を手中にした義朝は、その武力を大いに活用して近隣の武士団を次々と従え、強力な東国武士団を作り上げることができたのです。
 義朝の手法はかなり強引なものでした。たとえば、下総国相馬郡千葉常重の領地でしたが、義朝は上総常澄と結託して、千葉常重に圧力をかけ相馬郡を我がものとして、伊勢神宮に寄進し、自らが相馬御厨の下司職になるといった具合でした。
 義朝がこのような強引な手法がとれたのは義朝自信が武勇に優れた武将であるのはもちろんのこと、その背景に都の摂関家との繋がりがあったからです。義朝の父為義は、摂関家に仕えていました。義朝は摂関家の後ろ盾を得て、源氏の勢力を拡大していたのです。
 一方、在地の武士たちは、源義朝を武士団同士の紛争調停者として利用し、自分たちの勢力を拡大しようとしました。摂関家の後ろ盾がある義朝に従って行動すれば正当性がついてきたのです。
 坂東での勢力を拡大した義朝は、熱田大宮司家から正妻を迎えます。この婚姻が義朝の人生に大きな転機を与えます。熱田大宮司家は鳥羽天皇との関係が深い家柄でした。
 やがて、義朝は都へ上り鳥羽上皇に仕える機会を得ました。鳥羽院と結びついた義朝は出世し、仁平三年(1153年)下野守に就任しました。河内源氏の嫡男の座を追われ坂東に下向していた義朝が、国司の地位に就くことができたのです。
 このようにして、義朝は不遇な境遇から脱出し、都で栄達の道を歩み始めました。しかし、それは藤原摂関家から遠ざかることでもありました。父為義や兄弟たちが藤原摂関家につく一方で、義朝は鳥羽院と結びつき独自の道を歩み始めたのです。それが保元の乱における親兄弟の対決という悲劇を生み出したのでした。
 保元元年(1156年)日本の歴史上初めて平安京で武士同士の大がかりな合戦が行われました。祟徳上皇藤原頼長の勢力と後白河天皇に組みする勢力の対決でした。
 その結果、祟徳上皇側が敗れ、上皇側についた源為義一族は処刑されることになりました。後白河天皇側についた源義朝は実の親兄弟を処刑しなければならなかったのです。義朝は大きな犠牲を払いながら、源氏の棟梁の地位を取り戻したのです。
 保元の乱の後、朝廷の中では信西藤原信頼の権力争いが起こります。源義朝はこの権力争いに巻き込まれることになりました。
 藤原信頼陸奥守や武蔵守を歴任しており東国に大きな影響力を持っていました。その関係もあって義朝は藤原信頼派についていました。対する信西派には平清盛がついていました。
 この時点で、権力争いの主役はあくまでも藤原信頼信西でした。義朝と清盛は対立派閥の武力を担っている立場だったのです。
 平治元年(1159年)12月平清盛が熊野詣に出向いた隙をついた藤原信頼と義朝は、信西を急襲し討ち果たしました。藤原信頼と義朝の企ては成功し、一旦は権力を手中に収めることができたのです。
 しかし、藤原信頼派の勝利はつかの間のことでした。大軍勢を率いた平清盛が熊野詣から戻って来ると、形勢は逆転しました。藤原信頼派は大敗を喫しました。源義朝は東国へ逃れる途中で裏切りにあい、命を落としました。また義朝の嫡男頼朝は、捕らわれて伊豆に幽閉されたのです。
 保元・平治の乱は、貴族同士の権力争いに武士の力を持ち込みました。このことが、武士の時代を切り開く契機になったのです。そして、武士の時代の幕開けを勝利で飾ったのは平清盛でした。

坂東武者の系譜 源為義 源氏復活を地方に求めた武将

 源義家は「天下第一の武勇の士」と呼ばれましたが、その息子たちには義家ほどの逸材がいなかったようです。
 義家の嫡男義親は対馬守に就いていたのですが、康和三年(1101年)九州で乱行を働いたため隠岐へ配流されます。その後の嘉承二年(1107年)に隠岐を脱出した義親は出雲に出現し、出雲国司の在地代行者である目代を殺害したのです。義親の行為は、国家に対する反逆でした。
 白河院は、平正盛に義親の追討を命じました。正盛は因幡守として出雲の隣国にいたので院の命令に即応することができたのです。こうして源氏の棟梁が平氏の棟梁に首を討たれるという前代未聞の事態が起きたのです。
 これ以降、平氏は正盛→忠盛→清盛とつながり白河院との関係を密接にして隆盛期を迎えるのです。
 一方、源氏は義親の反乱によって衰退期を迎えました。源氏は朝廷の信頼を失い、都での地位は低下しました。義親が討伐された後源氏の棟梁になったのは義親の四男為義でした。
 都で没落した為義は、源氏の活路を地方に求めたのです。為義は自分の息子たちを地方に送り出し、地方の有力武士との結びつきを強めることに力を注いだのです。
 具体的に述べると、長男義朝は上総国へ、次男義賢は上野国へ、八男為朝は鎮西(九州)へ、十男行家は熊野へといったぐあいです。為義が息子たちを地方へ送り出せたのは、源氏と摂関家との関係がまだ残っていたからでした。
 為義は摂関家の後ろ盾を利用して、息子たちを荘園の預所(あずかりどころ)として地方に派遣したのです。
 ここで荘園制度における役割(地位)を以下に示します。
 本家→領家→預所下司(げす)
 本家とは荘園の最上級の領主であり、天皇皇族や摂関家、大寺院や大神社などがこれに当たります。
 領家とは摂関家よりは階級が下の一般貴族や一般の寺社で、やはり荘園の領主です。本家と領家は荘園の所有権を世襲することができます。
 なぜ同じ荘園領主であるのに本家と領家という上下関係があるのでしょうか?そもそも荘園とは開墾された土地の寄進を受けて私有できる制度です。
 しかし、一般貴族の力では、国家権力に対抗して私的な土地所有権を守ることは困難です。そこで天皇・皇族・摂関家・大寺院などの権威を利用して所有権を守ることにしたのです。その見返りとして、領家は本家に土地を寄進しました。
 領家から地方に派遣されたのが預所です。預所は、都にいる領家と在地領主である下司とを結びつける役割です。いわば都と地方の両者に顔がきく橋渡し役です。
 清和源氏の子息たちは、この預所にうってつけの人材でした。清和源氏は、二代目満仲の時から藤原摂関家との関係を築いてきました。源義親の反乱によって没落したとはいえ
源氏が強力な武家であることに変わりはありません。摂関家としては、源氏の武力は他の勢力と争う時に必要なものなので、完全に関係を断つことはできないのです。
 また、在地領主である下司は地方の有力な豪族であり、平安時代の末期には地方豪族はほとんど武士となっていました。彼らにとって源氏の子息とは、伝説的な武将である八幡太郎義家の孫なのです。
 在地領主にとって源氏の子息を受け入れることとは名誉なことであり、都とのつながりを作ることでもあるのです。
 源氏の子息たちも、ただ飾り者として地方へ行ったのではなく、武家の棟梁の子孫として積極的に動き、地方の武士同士の紛争を調停する役割を担いました。 
 そして、地方発の源氏の力が、歴史の流れを変えるのです。治承四年(1180年)後白河上皇の次男である以仁王(もちひとおう)から平家追討の令旨が下った時、立ち上がったのは地方の源氏でした。
 以仁王の令旨を全国に広めたのは熊野に派遣された源行家でした。平家を都から西国へ追い落としたのは、上野国に派遣された源義賢の息子である木曾義仲でした。義仲は木曾で兵力を養い、北陸で味方を糾合し、一時は都で朝日将軍と呼ばれました。
 そして、坂東へ派遣され坂東武者から絶大な支持を得た源義朝の息子源頼朝が、平家打倒を成し遂げ鎌倉幕府を開くのです。
 こうして見ていくと、源為義が行った、子息たちの地方派遣策は長期的な視点では、源氏と地方の有力武士との関係を強化し、後の源氏の復活を生み出す重要な布石になったといえるのです。

坂東武者の系譜 源義綱の栄光と挫折

 前回取り上げた源義綱は、歴史の教科書には登場しない人物であり、私もよく知らない人物でした。しかし、義綱のことを調べてみると、大変興味深い人物であることがわかってきました。そこで、今回も義綱の話をします。このような歴史の片隅に埋もれた人物に光を当てることこそ、歴史を楽しむ者の真骨頂です。
 寛治五年(1091年)源義綱は兄の源義家と対立し、平安京で軍事衝突寸前の状況になりました。この争いは「天下の騒動これより大なるはなし」(百練抄)というほど平安京の人々を驚かせた事件でした。それというのも、平安京ができて以来、都の中で武将同士が戦闘をすることなど全くなかったからです。
 京の都は天皇のおわします清浄の地であり、そこで合戦が起きることなどは、あってはならないことなのです。その神聖な場所で、本来は天皇をお守りすべき源氏の武将同士が合戦をしようとしたのですから、これは大事件でした。
 義家と義綱が兵を構えることになった直接の原因は、両者の郎党が所領争いをしたことでした。しかし、義家と義綱の対立の根本原因は、弟義綱が源氏の棟梁の座を兄義家から奪おうとしたことにあります。
 義綱は、武勇において兄義家に劣るものではないという自信があったと思います。また都での処世術では、自分の方が長けているとの自負があったことでしょう。義綱の兄に対するライバル心は、いつしか源氏の棟梁を狙う野心に変貌したのです。
 後三年合戦の後、朝廷内での義家に対する評価が大きく下がりました。一方、義綱は後三年合戦に参戦せず、その間に藤原摂関家との関係を深め、朝廷内での政治的地位を上げていました。
 義綱は、この機会を逃さず源氏の棟梁の地位を兄から奪おうとしたのです。義綱の目論見は順調に推移しました。寛治五年の騒動の後、義家には朝廷から厳しい処罰が下されましたが、義綱はお咎めなしでした。
 寛治七年義綱は陸奥守に任じられました。その翌年、出羽国において豪族の平師妙が出羽国司を襲撃する大事件が起きたのですが、源義綱は平師妙を見事に討伐し都に凱旋したのです。
 この活躍によって、義綱は武門源氏の棟梁としての地位を確実にしたのです。嘉保二年(1095年)源義綱は美濃守に就任します。美濃守は清和源氏にとって特別な地位を意味しました。義綱の祖父である源頼信平忠常の乱を鎮圧したとき、頼信に恩賞として与えられたのが美濃守です。
 つまり、義綱の出羽国での活躍は、頼信がなした平忠常の乱鎮圧に匹敵する功績であり、義綱が源氏の棟梁として朝廷から認められたことを意味するのです。
 しかし、この時が義綱の人生の頂点でした。運命の女神は義綱に微笑まなかったのです。
 承徳二年(1098年)源義家正四位下に除され白河上皇から院への昇殿を許されました。義家は長らく後三年合戦の責任を問われ不遇な時を過ごしていたのですが、ようやく復活を遂げることができたのです。
 翌承徳三年六月、関白藤原師通が急死しました。師通は朝廷において義綱の大きな後ろ盾となっていた人物です。この藤原師通の急死が、義綱の運命を狂わせてしまったのです。
 このころ、政界では白河上皇院政を始め天皇上皇は対立していました。関白師通の死は天皇側にとって大きな痛手となりました。この後、白河上皇は勢力を増し、院の支配力が強まったのです。源義家は、もともと白河上皇と結びついており、後三年合戦の後もその関係は続いていました。上皇天皇の権力争いで上皇が優勢になったことで、義家が再び源氏の棟梁の座に返り咲くことができたのです。
 逆に、藤原摂関家と結びつき源氏の棟梁の座を射止めた源義綱は、摂関家の衰退とともにその勢力を弱め、源氏の棟梁の座を失ったのです。
 歴史にたらればは禁物ですが、もしも関白藤原師通が健在であり続けたならば、源義綱が源氏の棟梁として君臨していたでしょう。武勇に優れ政治感覚にも鋭敏な義綱が源氏の舵取りを担っていたならば、もしかすると平氏の台頭を許すことはなかったかもしれません。そうすると、源平合戦も起きることはなく鎌倉幕府も誕生しなかったのかもしれないのです。
 源義綱はそのような歴史を大きく変えるような可能性を持った人物でした。本来なら、教科書に登場してもおかしくない人物だと思います。
 しかし、我々が教科書で知る歴史は勝者の作った歴史です。敗者である義綱は歴史の表舞台から消え去り、闇の中に葬られました。