歴史楽者のひとりごと

こんにちは、歴史を楽しむ者のブログです。

関東の戦国 山内上杉と扇谷上杉の覇権争い

 室町時代関東管領を代々世襲してきた山内上杉家関東公方の執権として上野、越後など広大な領国を持ち関東に勢力を広げていました。しかし、享徳三年(1454年)に享徳の乱が始まると、太田道灌が家宰を務める扇谷上杉家が次第に勢力を拡大し山内上杉家に肩を並べる存在になってきました。

 文明十二年(1480年)、太田道灌の活躍によって関東の長い戦乱は終わりを告げ、関東はひと時の平穏な時代を迎えていました。しかし、その6年後太田道灌扇谷定正にあざむかれ謀殺されてしまいます。道灌の突然の死によって関東は再び戦乱の時代を迎えます。

 関東の秩序を保ってきた関東公方関東管領の権威はすっかり失われ関東の有力武将たちは戦国大名へ変貌していきます。また、伊豆一国を平定した伊勢宗瑞は関東進出の機会を虎視眈々と狙っていました。いよいよ関東は群雄が割拠する戦国時代を迎えることになるのです。

 

太田道灌の死と両上杉の対立 

 文明十八年(1486年)七月二十六日、名将太田道灌は主君扇谷定正の陰謀によって殺害されました。江戸城を築城し関東の大乱を平定した希代の英雄のあっけない最期でした。関東管領山内上杉顕定から、「道灌に謀反の意あり」との話を吹き込まれ扇谷定正は、道灌を相模の糟屋館に呼び寄せだまし討ちしたのです。

 上杉顕定の思惑は、関東一の名将太田道灌扇谷定正によって殺害させ、道灌の活躍によって相模、武蔵に勢力を拡大してきた扇谷上杉を潰すことにありました。そうとも知らず定正はまんまと顕定の計略に乗せられて道灌を殺してしまったのです。

 道灌の一族や家臣たちは、道灌殺害の裏の首謀者が上杉顕定であることなど知る由もなく、扇谷定正から離反し上杉顕定のもとへ走りました。顕定は道灌の一族を受け入れ扇谷定正ひとりを悪者に仕立てたのです。主を失った江戸城扇谷定正に接収され、相模の糟屋館で道灌に直接手を下した張本人である曾我兵庫助が江戸城代になりました。

 長享二年(1488年)二月上杉顕定はかねてからの計画通り、扇谷上杉のせん滅に乗り出しました。一千余騎余の軍勢を率いた上杉顕定は、武蔵鉢形城を出撃し扇谷上杉の糟屋館を攻めようとしましたが、逆に迎え撃った扇谷定正の軍勢に敗れました。

 顕定の予想に反し、道灌殺しの汚名を着せられて人望を失い劣勢に立っていたはずの扇谷定正は、扇谷一族の結束を固めて巧に戦い顕定の軍勢を何度も破ったのです。また、道灌が築いた江戸城河越城は堅固な城塞であり、上杉顕定の大軍に包囲されても容易に落城しませんでした。

 しかし、その定正にも運命の尽きる時がきました。明応三年(1494年)十月扇谷定正は武蔵高見原で上杉軍と交戦中に不慮の事故で死んでしまったのです。定正の死後、扇谷家の家督を継いだのは定正の兄朝昌の息子である朝良でした。扇谷朝良は本拠地の河越城に入り、伊豆の伊勢宗瑞や小田原の大森式部少輔らと連携し上杉顕定の勢力に対抗したのです。伊勢宗瑞が扇谷朝良の味方に付いたのは、まず難敵である上杉顕定を扇谷と協力して倒し、その後に扇谷朝良を倒せばよいと考えていたからでした。

 明応五年(1496年)七月上杉顕定の軍勢が小田原城に攻め寄せると、大森式部少輔は扇谷上杉を裏切り上杉顕定へ寝返りました。扇谷上杉と手を結んでいた伊勢宗瑞は、小田原攻撃の大義名分を得て明応十年(1501年)に大森式部の隙をついて攻撃し小田原城を奪取します。こうして、伊勢宗瑞は関東進出の橋頭保を築いたのでした。

 

◆立河原の合戦

 永正元年(1504年)九月、軍勢を集めた上杉顕定は扇谷朝良の居城である河越城を攻撃しました。防戦する扇谷朝良は伊勢宗瑞と今川氏親へ急ぎの使いを出し援軍を要請しました。要請を受けた伊勢、今川の軍勢は直ちに武蔵国に向かって進軍を始めたのです。伊勢宗瑞の率いる軍勢は、江ノ島、武蔵稲毛庄(川崎市高津区)を経て益形(川崎市多摩区)に着陣しました。今川氏親の率いる軍勢は相模国の海沿いを進軍し鎌倉を経て益形に進み、両軍はここで合流したのです。

 伊勢・今川の援軍が迫ってきたという知らせを受けた上杉顕定は、敵を迎え撃つべく立河に進出して陣を構えました。上杉の陣容は上杉顕定・憲房、古河公方足利政氏、上州一揆の軍勢でした。

 9月27日扇谷朝良、伊勢宗瑞、今川氏親の軍勢が立河原に展開すると正午ころから合戦が始まりました。戦いは数刻に及びましたが、顕定方の軍勢はおよそ二千の軍兵が討ち取られ大敗したということです。

 勝利した扇谷朝良は河越城に戻り、伊勢宗瑞と今川氏親の軍勢も陣を払ってそれぞれの領国へ帰還しました。しかし、上杉顕定はまだあきらめておらず、10月に越後から援軍が到来すると、この軍勢とともに河越城へ攻め寄せました。城方は善戦しましたが多数の死傷者を出しました。

 さらに、顕定は永正二年(1505年)3月にも河越城を攻撃し、ついに扇谷朝良を降伏させたのです。敗れた扇谷朝良は息子の朝興に家督を譲り江戸城に隠居したということです。山内上杉と扇谷上杉が和睦したので、山内上杉顕定のもとにいた道灌の子息である太田資康は江戸城に戻り朝興に仕えることになりました。

 山内上杉と扇谷上杉の覇権争いは17年にも及びました。長い抗争によって両上杉は疲弊し、その勢力はすっかり衰えてしまったのです。一方、伊豆一国を平定し小田原城を奪取した伊勢宗瑞は永正十六年(1519年)に没し、北条氏綱家督を継いでいました。氏綱は父宗瑞に劣らぬ優れた武将であり、小田原城で関東の覇権を虎視眈々と狙っていたのです。

 

関連ブログ 「太田道灌 戦国時代前夜を鮮やかに駆け抜けた悲運の名将」

      「東の将軍鎌倉公方 その6 平一揆の反乱と上杉氏」

 

今回参考にさせていただいた文献

図説 太田道灌 黒田基樹 戎光祥出版

関東戦国史(全) 千野原靖方 崙書房出版

小田原北条記(上) 江西逸志子 原著  岸正尚 訳 ニュートンプレイス

 

将軍足利義輝を死に追い込んだのは誰か

 永禄8年(1565年)5月将軍足利義輝は三好義継と松永久通によって暗殺されました。歴史上在任中の将軍が暗殺されたのは義輝を含めて3人です。3代鎌倉将軍源実朝(頼朝の二男)は甥の公暁(くぎょう)によって暗殺されました。また6代室町将軍足利義教播磨国守護の赤松満祐によって暗殺されました。実朝と義教の暗殺は、大胆な言い方をすると、怨恨による殺人事件ととらえることができます。二つの事件の犯人は、事件後幕府によって討伐されました。

 これに対して、足利義輝の暗殺は他の二つの事件とはいささか趣を異にすると思います。足利義輝は天下(京都を中心とする五畿内)の支配権を三好長慶に奪われ、もはや無力な将軍となっていました。義輝が諸国の戦国大名に上洛を呼び掛けても、これに応じる者は無く、三好政権にとって義輝はなんら脅威的な存在ではなかったはずです。それにもかかわらず、義輝は暗殺されてしまったのです。すなわち、義輝暗殺には何か深い謎があるのです。今回はこの謎に迫ってみます。

 

◆将軍義輝の生涯

 天文15年(1546年)足利義輝は近江坂本で元服し父義晴から将軍職を受け継ぎ13代将軍となりました。義輝が将軍に就任した場所が京の都ではなく、地方であったことは異常なことでした。本来、天皇が任命する征夷大将軍の就任式は都で行われるべきものです。しかし、そのころ京の都では細川晴元細川氏綱が激しく争っており、義輝は都に居をさだめることができず近江に避難していたのです。近江守護の六角定頼は足利将軍家を支える頼もしい武将でしたが、決して上洛しようとはせず、あくまで近江に在国して将軍を支えるという姿勢を崩しませんでした。そのため、将軍義輝は都に入ることができなかったのです。

 将軍義輝が近江にいる間に勢力を拡大したのが三好長慶です。長慶は細川晴元の配下として大いに活躍し、細川氏綱を舎利寺の戦いで破ります。その後、長慶は主君の晴元と対立、江口の戦いで晴元を撃破し京の都の支配権を手に入れました。

 天文21年六角定頼が死去しました。定頼という大きな支えを失ったことで、将軍義輝は三好長慶と和睦を結ばざるを得ない状況になったのです。こうして将軍義輝は傀儡として存在し、天下の真の支配者は三好長慶という構図が生まれたのです。ところが、天文22年将軍義輝の側近たちは、三好長慶の暗殺を企てようとしました。この陰謀は実行される前に三好側に露見してしまいます。そのため、将軍義輝は三好の軍勢によって京の都を追われ朽木へに逃げたのです。このとき義輝に最後まで従っていたのはわずか40人余りの近習だけでした。

 

◆義輝の政策は場当たり的だった

 将軍義輝は、権力を取り戻すため諸国の戦国大名に呼びかけ支援を求めました。しかし、義輝の政策は首尾一貫しておらず、常に場当たり的であったために戦国大名の支持を得ることができなかったのです。

 一例をあげると、備前・美作の守護赤松晴政足利義晴の代から将軍家を支持してきた有力大名でしたが、義輝は出雲・隠岐の守護である尼子晴久に肩入れし赤松氏から備前。美作の守護を没収し尼子に与えてしまいました。そのため、赤松晴政は義輝から離反し三好長慶と手を結んだのです。

 また、毛利氏と大友氏に上洛を求めておきながら、毛利と対立している大友宗麟大内氏家督相続を認めたので、周防と長門の領有権を巡って毛利と大友の対立が激化しどちらの大名も上洛することができませんでした。

 足利義輝は剣豪将軍として知られています。鹿島新当流を開いた塚原卜伝や新陰流の上泉伊勢守信綱を招いて剣術を学びその力量は並々ならぬものがあったといわれています。一方で剣術を学ぶということは、人格を形成し論理的な思考を身に着けることでもありました。剣豪宮本武蔵が人生の集大成として「五輪書」を書き著したことからも、剣豪が単なる剣術使いではなく精神的にもすぐれた人物であることがわかると思います。

 しかし、将軍義輝は本来剣豪が身に着けているはずの、論理的な思考に基づく緻密な戦略を展開する能力に欠けていたようです。将軍義輝は何かしら精神的に欠落したところがあったのかもしれません。

 

天皇との対立

 将軍義輝は戦国大名たちの支持を得られなかっただけではなく、天皇とも対立しその立場を悪化させました。将軍義輝と正親町天皇(おうぎまち)との対立は改元を巡る問題に如実に現れています。

 古来より改元天皇の専権事項でしたが、鎌倉時代より次第に武家が関わるようになりました。室町時代になると将軍が改元の発議を行い、それを受けて天皇改元を実行することが習わしとなっていました。すなわち、改元の発議は将軍の職務であったわけです。将軍義輝は在任中にその職務を怠り天皇の信頼を失っていたのです。

 なぜ、義輝は改元の発議を怠ったのでしょうか?その答えは義輝が出費を惜しんだからです。改元は国家行事として多額の費用を必要としますが、その費用を負担するのは改元の発議者であると定められていました。すなわち、将軍義輝は改元に掛かる費用負担を避けるため改元の発議を行わなかったのです。改元費用だけではなく、将軍義輝は皇室の祝賀行事などの際に出す祝い金なども出し惜しみしていました。こうした義輝の態度が天皇との対立を生み出したのです。

 義輝自身が放浪の身であり足利将軍家の台所事情が苦しかったことは明白ですが、将軍としての責任を果たすための出費を怠るようでは、天皇や公家から支持を受けることはむずかしいでしょう。たとえ本人の財政事情が悪くとも、知恵をしぼり支持者を集めたりパトロンに頼ることでお金を工面することはできたはずです。義輝はそのような努力を怠ったようです。しかし、それは将軍義輝の立場をますます悪くするものでした。

 

天皇と三好氏の接近

 足利義輝が将軍在任中に二度の改元が行われましたが、その改元費用を負担したのは三好氏でした。将軍義輝を京から追放した三好長慶は摂津にある芥川山城を拠点として五畿内を支配していました。長慶は従四位下の官位を賜り足利家や細川家に引けを取らない地位を得ていました。天下の支配者となった三好長慶は、堺や兵庫津など港湾都市を支配し、交易で莫大な利益をあげている豪商を保護するこることで、自らの財政を豊かにしたのです。長慶にとっては、改元の費用を拠出することなど雑作もないことでした。それだけではなく、長慶は皇室の費用を賄う御料所の回復にも力を注ぎ正親町天皇から大きな信頼を得ていたのです。

 正親町天皇は、将軍としての責任を果たさない足利義輝を見限り、三好長慶に対して天皇を支持する武家の代表者としての認識を持つようになっていたと考えられます。その三好長慶の跡を継いだのは長慶の甥である三好義継でした。長慶には義興という嫡男がいましたが、永禄6年(1563年)義興は病に倒れ死去しました。

 義興に代る後継者として長慶が選んだのは甥の義継でした。一代で天下の支配権を手に入れた叔父の長慶とは異なり、三好義継は苦労知らずの二代目でした。三好家の家格は将軍家にひけをとるものではなく、左京太夫に任じられた義継は管領細川氏と同等の地位を得ており正親町天皇に拝謁する機会もあったのでしょう。そのおりに、正親町天皇は「三好頼りにしているぞ」とか「三好こそ武家の棟梁にふさわしい」などと義継にお世辞を言ったかもしれません。

 

◆三好義継の野心と誤算

 しかし、天皇と三好氏が接近し天皇から頼りにされたことで、義継の中に野心が生まれたのです。それは、義継が将軍の座に就くという野心でした。正親町天皇から信頼されていた義継にとって三好将軍の誕生は可能であったかもしれません。ただし、それを実現させるためには巨額のお金を使い長い時間をかけて裏工作や根回しを行うことが必要だったでしょう。このような困難な仕事を成し遂げることができたのは、豊臣秀吉くらいのものです。三好義継はその困難な手間を省き、義輝を亡き者にすれば将軍になれると考えたのです。

 義輝暗殺の1年前永禄7年(1564年)に三好長慶は死去します。長慶の死後、たがのはずれた義継の暴走は止まらなくなりました。義継は松永久通とともに義輝を襲撃し、将軍義輝を暗殺するという暴挙に出たのです。義継は長慶の後継者に選ばれた時から器量にすぐれていないとの評価をされていました。そのため、松永久秀三好三人衆三好長逸三好宗渭、岩松友通)が義継の後見についたのです。もともと器量のない苦労知らずの二代目が、天皇の甘言を真に受けて増長し引き起こしたのが将軍暗殺という前代未聞の事件だったのです。

 三好義継が引き起こした将軍暗殺は、誰からも支持されませんでした。これは、義継にとって大きな誤算であったと思います。諸国の戦国大名は三好氏を武家の棟梁として認めることはなかったのです。三好長慶が一代で築いた政権は、諸国の戦国大名から見れば、自分たちと同格の武将が成り上がっただけにしか見えませんでした。

 たとえ足利将軍家の権威が地に落ちていたとしても、足利氏の血は武士にとって源氏嫡流の血なのです。武士が自分たちの上に立つ権力者として認めるためには、源氏嫡流という遺伝子を持つ者か、あるいは、信長、秀吉、家康のように自分たちの力をはるかに凌駕する強大な力の持ち主でなければならなかったのでしょう。三好義継はそのどちらにも該当しなかったのです。

 ただ一人、正親町天皇だけは、三好義継を支持していました。天皇足利将軍家が代々受け継いできた将軍家の象徴とされる「御小袖の唐櫃」(御小袖という鎧を収めた唐櫃)を義継に下賜し、三好義継が将軍になることを容認したのです。しかし、三好氏の勢力は分裂し、三好三人衆が将軍の後継者として四国にいた足利義栄を担ぎ出す一方、松永久秀足利義昭を将軍後継者として担ぎ、両者は争いました。将軍を暗殺した三好義継は身内からも見放され将軍になることはできませんでした。

 

◆将軍足利義輝を死に追い込んだのは誰か

 将軍義輝の暗殺事件の謎を解くために、足利義輝正親町天皇、三好義継という3人の人物にスポットをあててきました。被害者である義輝は、剣豪将軍として知られ非業の死を遂げたというイメージがあります。たしかに、義輝は剣術使いとしては優れていたのかもしれませんが、剣の道を究めた人が有している論理的思考力に欠けており、自分の支持勢力を拡大するための緻密な戦略を展開することができませんでした。すなわち、足利義輝は将軍にふさわしい器量の持ち主ではなかったと考えらます。

 さらに、将軍義輝は改元問題で天皇と対立し、自分の立場を悪化させました。室町時代は、足利尊氏征夷大将軍となって室町幕府を開いたことから始まっているので、武家中心の時代と思いがちですが、室町時代南北朝の争乱という皇統をめぐる争いの起きた時代でもありました。最終的に勝利したのは北朝です。そして、尊氏を将軍として認めたのは北朝天皇なのです。つまり、正親町天皇の視点に立つと、足利将軍とは北朝という権威に支えられて存在していると考えることができるのです。したがって、足利将軍は常に北朝天皇の立場に配慮してその職務を全うすべきであり、その責任を怠った義輝は、正親町天皇にとって排除すべき存在であったのです。

 正親町天皇は義輝を見限り三好長慶を信頼しました。長慶は一代で天下人となり天皇を軍事力や経済力で支えることのできる頼もしい存在でした。しかし、長慶の死後その跡を継いだ義継は天下人としての器量に欠けていたのです。思慮に欠ける義継は、緻密な戦略を立てて将軍の座を手にいれるのではなく、暗殺という暴挙に出たのです。

 奇しくも、権力者の資質に欠けていた義輝と義継という二人の人物が権力闘争の場で出会い、そこに正親町天皇が加わったことで、将軍義輝暗殺という事件が起きたのだと私は考えます。そして、この事件が戦国時代をあらたなステージへ押し上げることになりました。

 義輝暗殺以前の戦国時代は、五畿内と地方それぞれの場所で、群雄が割拠し争いを展開していたのですが、義輝が暗殺された後の時代は、諸国の乱世を勝ち抜いてきた戦国の英雄たちが出そろい、将軍後継者を巡る争いに加わる機会ができたのです。言わば、戦国の英雄たちに天下人になれる可能性が生まれたわけです。

 

 将軍義輝を暗殺した張本人の三好義継は、この新たなステージの主役にはなれませんでした。義継は新時代の主役である織田信長の家臣となり河内半国を与えられ若江城を居城としていました。天正元年(1573年)三好義継は信長から追放された足利義昭を助けたために、信長の怒りを買いました。若江城は信長軍の攻撃を受けて落城し三好義継は自害して果てたということです。

 

今回参考にさせていただいた資料

 

室町幕府分裂と畿内近国の胎動 天野忠幸 吉川弘文館

陰謀の日本中世史 呉座勇一 角川新書

刀の日本史 加来耕三 講談社現代新書

 

 

信長がくる前の京都 三好長慶の天下

 明応2年(1493)細川政元が起こした「明応の政変」こそは、日本を戦国時代に突入させた真の引き金でした。政元は京都でクーデターを起こし、将軍の首をすげ替えたのです。将軍の首をすげ替えることさえ可能な細川京兆家の絶大な権力を巡り、政元の3人の養子が後継者争いを始めました。その苛烈な争いは、二分した足利将軍家の争いと絡み合い果てしない戦乱の世、すなわち戦国時代を出現させたのです。この乱世の中で阿波細川家の被官にすぎなかった三好一族が台頭し、やがて三好長慶が天下を支配する時代がくるのです。信長がくる前の京都ではいったい何が起きていたのでしょうか?今回もこの謎に迫っていきます。

 

 戦国時代の三好氏は阿波守護細川家につかえており、阿波西部三郡の守護代を務める家柄でした。三好長慶の曽祖父である之長は、守護代三好家の傍流にすぎませんでしたが、軍事的才能を高く評価され阿波守護細川家当主の側近となっていました。

 阿波守護家の御曹司である細川澄元は、細川京兆家の惣領である細川政元の養子となりその後継者候補の一人でした。細川京兆家の惣領とは、八か国の守護を独占する細川一族の総帥であり、その絶大な権力を背景に足利将軍を裏で操る真の支配者でした。

 しかし、細川澄元は京兆家の家督を巡る争いでライバルの細川高国に敗れ、都落ちして阿波にひっそくしていたのです。阿波細川家に仕える三好之長は、澄元の宿敵細川高国を倒し、阿波名門の御曹司に天下を取らせることを宿願としていたのです。

 永正16年(1519)細川澄元に天下取りのチャンスがおとずれました。そのころ京の都を支配していたのは将軍足利義稙(よしたね)と細川高国で、この二人を軍事力で支えていたのが周防の太守大内義興でした。その大内義興が前年に都を去り、義稙・高国政権の軍事力は低下していたのです。

 この好機を捉え、澄元と之長は阿波から軍勢を率いて渡海し、細川高国に戦いを挑んだのです。当初、細川澄元・三好之長の軍勢には勢いがありました。その勢いは、将軍足利義稙細川高国を見限り細川澄元と手を結んだほど強いものでした。細川澄元は、天下を手にするまであと一歩にまで迫りましたが、そこで澄元の運が尽きてしまいました。澄元は病にたおれ、阿波勢の勢いは一気に衰えてしまいました。戦いの形勢は逆転し細川高国が攻勢に出ると、細川澄元は阿波へ敗走し三好之長は敵方に捕らえられて切腹させられてしまいました。三好之長は宿願を果たせずこの世を去り、その宿願は子孫に託されたのです。

 

 大永元年(1521)細川高国は11代将軍足利義澄の息子義晴を12代将軍に就けました。このとき義晴はまだ10歳の少年でした。そのため、高国は思うままに義晴を操り実質的に天下を支配していたのです。しかし、高国を支える国人衆は寄せ集めであったので結束力が弱く、内部対立が絶えませんでした。

 大永6年(1526)ついに細川高国の被官である柳本賢治と波多野元清が畿内で反乱を起こしました。この反乱に呼応し、細川澄元の息子晴元と三好之長の孫である三好元長(長慶の父)が阿波で挙兵したのです。元長は先遣隊として従弟の三好宗三を畿内に派遣しました。宗三率いる三好先遣隊は、柳本・波多野の軍勢と合流し、足利義晴細川高国の軍勢を破り、義晴と高国は近江へ敗走しました。

 これを受けて、細川晴元三好元長足利義稙の養子である義維(よしつな)を擁立して堺に上陸しました。義維は正式な将軍に任命されてはいませんが、公家たちは義維を堺公方と呼んでいました。

 こうして、近江には将軍足利義晴細川高国の政権があり、堺には堺公方足利義維細川晴元三好元長の政権があるという状況が生まれたのです。16世紀前半の京都とその周辺諸国では、分裂した足利将軍家と細川一族の勢力争いが絶えず、各陣営の争いは複雑に絡み合い激しい戦乱の時代を迎えていたのです。

 

 堺で天下取りの足場を築いた足利義維でしたが、義維を支える細川晴元三好元長とは目指している方向が違っており、二人の間には深刻な対立が生まれていました。細川晴元が目指していたのは、細川高国を排除し京兆家の家督を継いで裏の支配者として京都に君臨することでした。その目的達成のためには、義晴を将軍として容認することもやむなしと考えていたのです。これに対して、三好元長はあくまでも足利義維を将軍の座に就けることにこだわっていたのです。両者の考えは平行線をたどったままでした。

 享禄2年(1529)細川晴元三好元長を出し抜き将軍義晴と和解しました。はしごをはずされた元長は失脚して阿波へ戻り、足利義維は堺にとどまっていました。一方、将軍義晴が細川晴元と和解したことで細川高国も失脚し、西国へ流れていきました。

 高国は西国を巡り自分の味方になってくれる武将を探していたのです。高国の執念は実り播磨、備前、美作の守護赤松晴政の家宰である浦上村宗の協力を得ることに成功し赤松氏の軍勢が細川高国の援軍についたのです。

 高国と村宗の率いた軍勢は瞬く間に摂津を席捲し、堺に迫ってきました。窮地に陥った細川晴元は阿波の三好元長に援軍を要請したのです。このころの細川晴元の行動姿勢は、「勝つためには手段を選ばず」「昨日の敵は今日の友」といった感じでまさに戦国乱世の象徴のようです。

 再び畿内へ進出した三好元長は、堺を攻撃する高国の軍勢を押し返しました。享禄4年3月元長は天王寺の合戦で高国軍を破り、捕えられた細川高国切腹して果てました。三好元長細川晴元の窮地を救い、阿波細川家にとって宿敵であった細川高国を滅ぼしたのです。この元長の功績によって、足利義維の将軍就任が実現するかと思われました。

 しかし、晴元と元長の共通の敵であった高国が消えたことで、再び二人の間に対立が生じ両者は決裂したのです。天文元年(1532)細川晴元本願寺証如に一揆を依頼し三好元長を亡き者にしようと企みました。証如の呼びかけに応じて10万とも20万ともいわれる一向一揆が集結し三好元長のいる堺を攻撃しました。元長は一向一揆によって捉えられ切腹したのです。

 ところが、一向一揆の勢いはおさまらず、制御できなくなったのです。このため、将軍義晴と細川晴元は京の都へ入ることができませんでした。さらに、細川晴元一向一揆によって堺を追われ、淡路へ逃げ込まなければならない状況にまで追い込まれたのです。「敵を倒すためには手段を選ばず」という細川晴元の行動は、ついに宗教勢力をも巻き込み戦乱の時代に新たな勢力を生み出してしまったのです。この新勢力が後に織田信長の前に立ちはだかり苦しめることになるのです。

 

 再び窮地に陥った細川晴元は、態勢を巻き返すためとは言え、こともあろうに実の父親を死に追いやった三好長慶に援軍を求めました。このとき長慶はまだ11歳の少年でした。父の仇である細川晴元に対して、少年長慶がどのような思いを持っていたのかはわかりませんが、三好家の当主として長慶は晴元の要請に応じ、軍勢を率いて晴元とともに摂津へ攻め込んだのです。

 三好長慶の援軍を得た細川晴元は、摂津の芥川山城を拠点に一向一揆と戦いました。徐々に態勢を巻き返した晴元は、足利義晴との連携をとることで勢いを増し、天文4年6月の大坂の戦いで本願寺勢を破りました。この勝利の後、晴元は本願寺と和睦しました。

 その後、三好長慶細川晴元の配下として摂津にとどまっていました。本国阿波の領地支配は弟たちにまかせ長慶は畿内に根をおろすことにしたのです。そのころ畿内では守護代クラスの武将たちが、台頭し勢力拡大をかけた争いを展開していました。

 応仁の乱の時にも守護代クラスの武将が台頭したのですが、この時代も同様のことが起きたのです。その理由は、戦乱が長期化すると、物資や軍勢を直接支配している守護代クラスの武将の存在価値が高まり、彼らが戦いの主導権を握るからです。将軍や細川京兆家の権威などは、守護代クラスの武将には通用しません。守護代クラスの武将が求めているのは天下を支配することではなく、自分の領地や勢力を拡大することだけでした。そして、それを実現するのに必要なのは権威ではなく実力でした。まだ少年だった三好長慶は、摂津の片隅で勢力を蓄えながら時代の趨勢を眺めて、乱世を生き抜く術を学んでいたのだと思います。

 

 天文6年(1537)三好長慶元服し、2500の手勢を率いて上洛しました。このとき長慶は、三好宗三が手にしている河内十七箇所代官職に就くことを希望して幕府に訴えました。いったんは長慶の希望がかなえられたのですが、三好宗三がこれを拒否し両者は対立しました。このとき、六角定頼が両者の間に立ち、長慶は越水城を居城とすることで決着しました。この城は、西宮神社門前町で大阪湾に面した港を守る要衝でした。港と西国街道に接した西宮は商業地としても栄えていました。歴史の流れとは実に面白いものです。このとき三好長慶が越水城を得たことが、長慶が後に飛躍するきっかけを作ったのです。越水城を拠点にした長慶は、松永久秀など摂津国人衆を配下に組み入れて摂津西半国を支配する武将に成長していくのです。

 しかし、勢力を拡大していくと、他の勢力と衝突することも増えてきます。このころ畿内では、細川高国の残党が息を吹き返し、細川氏綱を旗頭として細川晴元と争っていました。晴元の配下である三好長慶は、晴元勢の主力として氏綱との戦いに参戦していくことになります。

 細川晴元細川氏綱の争いは激化し、天文15年(1546)12月将軍義晴は戦乱を理由に都を離れ近江坂本に拠点を移しました。近江守護の六角定頼は、将軍義晴が最も信頼している守護大名でした。この地で、義晴は嫡男義輝を元服させて13代将軍の座に就けたのです。それは、都にいることのできない将軍の誕生でもありました。

 天文16年(1547)7月細川晴元の軍勢と細川氏綱の軍勢は、大坂の舎利寺で激突します。この舎利寺の戦いで三好長慶は氏綱軍に大勝しました。その後、六角定頼が調停に乗り出し晴元と氏綱は和睦します。

 天文18年(1548)三好長慶は、細川晴元に対して戦いを仕掛けます。晴元が被官の一人を自害させたことに対して反発し、国人衆に呼びかけ「国人衆の権利を守るため」という大義名分を掲げ、父の仇である細川晴元を討つことにしたのです。長慶は永らく晴元に仕えてきたのですが、ついに反旗を翻し、父の仇をうち、大きな権力を手に入れる賭けにでたのです。もちろん、この賭けには大きなリスクがありました。晴元と敵対するということは、将軍義輝と管領代である六角定頼をも敵に回すということなのです。しかし、期は熟しました。いまや三好長慶畿内一の軍事力を誇る武将に成長していたのです。

 三好長慶が掲げた「国人衆の権利を守る」という大義名分は効果を発揮し、河内、摂津、山城、丹波、和泉など畿内の国人衆はもとより、淡路、阿波、讃岐の国人衆をも結集した大勢力となりました。これに対して、細川晴元の軍勢は摂津の江口に集結しここを拠点として淀川沿いに守りを固めて、晴元の義父である六角定頼の援軍を待つことにしたのです。江口を守る晴元勢の主力は、かつて長慶と河内十七箇所代官職を巡って対立した三好宗三でした。

 三好長慶は、六角定頼の援軍がくる前に敵を撃破しようと考え、江口に対して総攻撃をかけました。長慶軍の強襲を受けた三好宗三の軍勢は800人が討ち取られて大敗し、晴元勢は総崩れになって近江へ敗走しました。そのため、六角定頼は三好勢と戦うことなく近江へ引き返したのです。

 江口の戦いに勝利した三好長慶は、京都を支配下におさめました。天文20年(1551)幕府政所執事の伊勢貞孝は将軍義輝を見放して、三好長慶の軍門に下りました。将軍義輝は近江に避難し、京都不在が長く続いた結果、京都を支配する幕府の機能は崩壊したのです。

 天文21年(1552)正月将軍義輝を軍事的に援助してきた近江の六角定頼が死亡しました。定頼の死によって将軍義輝と細川晴元は後ろ盾を失い、三好長慶と和睦を結ばざるを得ない状況に追い込まれました。和睦の条件は、次のようなものです。細川晴元は出家すること。晴元の嫡子信良は人質として長慶に差し出すこと。細川氏綱細川京兆家家督を継ぐこと。将軍義輝は京へ帰還すること。

 一切の力を失った将軍義輝は京都に帰還し、三好長慶は将軍の御供衆に任じられました。もともと細川家の被官であった三好長慶が、本来はなれないはずの将軍直臣になったのです。また長慶の力によって、およそ50年間続いていた細川京兆家家督を巡る争いにも終止符が打たれました。足利義輝は飾り物の将軍として存在し、真の支配者は三好長慶という構図が出来上がりました。無力な将軍義輝は、長慶に逆らうことができなかったのです。

 京都にはひとときの平穏が訪れましたが、それは長続きしませんでした。天文22年(1553)将軍義輝の側近たちが、三好長慶の暗殺を企んだのです。暗殺計画は、実行される前に露見し将軍義輝は霊山城に立て籠りました。三好長慶は2万5千の大軍を率いて霊山城を攻撃し、城を落とされた将軍義輝は琵琶湖西岸の朽木へ敗走したのです。

 この時、三好長慶は、将軍義輝を討ち取ることも可能でしたが、それは思いとどまったのです。そのかわり、義輝に従う者は、公家、武家、にかかわらず領地を没収すると宣言したのです。この脅しは絶大な効果を発揮し、義輝に従っていた者たちは次々に離脱し、朽木まで義輝に従っていったのはわずか40人ほどの側近だけだったそうです。三好長慶は、将軍の命を奪うのではなく、将軍の力を完膚なきまでに奪うことで、自らの権力を天下に知らしめたのでした。

 

 こうして、三好長慶はついに天下人となったのです。これまで、細川京兆家は表には足利将軍を立てておきながら、裏で将軍を操るという方法で天下を支配していました。しかし、三好長慶は足利将軍を擁立せず、自らが表に出て天下の支配者となったのです。同時代の武将の多くが、自分の領土を拡大することしか考えていなかった時に、三好長慶は、ただ一人だけ天下を支配するという大望を抱きそれを実現させたのです。この当時、日本を訪れたイエズス会の宣教師が、本国ポルトガルへ送った書簡には日本国王として「三好殿」すなわち三好長慶の名が記載されていました。三好長慶の先祖は、阿波守護代の傍流でしかありませんでした。乱世の中から台頭した地方出身の守護代クラスの武将が、天下の支配者になったのです。

 これは、戦国時代の流れを変える大きな出来事でした。もしも、三好長慶が天下人になっていなければ、織田信長が天下取りに乗り出すことはなかったかもしれません。まさに、信長がくる前の京都には三好長慶という先駆者がいて、足利将軍や細川京兆家などそれまで日本の中世を支えてきた権威を破壊していたのです。三好長慶は、権威という抽象的な概念に支えられた貴種・名族が支配する時代に終止符を打ち、その出自は関係なく軍事力や経済力を保有する真の実力者が支配者になるという新たな時代を切り開いたのです。 

 

今回参考にした文献は以下の通りです。

 

室町幕府分裂と畿内近国の胎動 天野忠幸 吉川弘文館

応仁の乱 呉座勇一 中公新書

信長が来る前の京都 何故麒麟はいなくなったのか

 戦国時代は、歴史に興味を持つ者にとって最も関心の深い時代だと思います。私たちは、織田信長武田信玄あるいは上杉謙信など戦国武将たちの活躍を通して戦国時代の歴史を知ることになるのです。彼らは、尾張、甲斐、越後などまず地方を制してから京都へ上り天下統一を目指していきます。そのため、私たちは戦国時代の地方の情勢に関しては様々な知識を持っているのですが、日本の中心である京都の戦国時代についてはほとんど情報を持っていないのです。

 歴史の教科書では、京都で応仁の乱が起こったことで足利将軍の権威は失墜し、日本各地に戦乱が広がり下克上が横行して戦国時代になったといわれています。そして、その戦乱のなから台頭してきた織田信長が天下統一をめざして京都へ上洛するという流れになっています。応仁の乱終結したのが1477年であり、信長が足利義昭を奉じて上洛を果たしたのが1568年です。この約90年の間、私たちの目は地方の歴史に向けられており京都や足利将軍の歴史については全く注目されていないのです。

 NHKの大河ドラマ麒麟がくる」では、向井理さんが演じる13代将軍足利義輝も無力な将軍として描かれています。いったいなぜ、足利将軍は力を失い、三好長慶松永久秀が京都を支配するようになったのでしょうか?そこで、今回は大河ドラマ歴史小説では語られない「信長がくる前の京都」の歴史に光を当て、足利将軍のもとから「何故麒麟がいなくなった」のかを探りたいと思います。

 

 1477年応仁の乱終結し、足利義政日野富子の間に生まれた足利義尚が9代将軍としての地位を確かなものとし、新たな支配者として歩み始めました。ところが、足利義尚は1489年3月25歳の若さで病死してしまうのです。ようやく戦乱の終えた京都に、再び将軍の後継者問題が浮上し戦乱の気配がしのびよってきました。

 このとき、将軍の候補者は二人いました。ひとりは、応仁の乱の主役の一人であった足利義視の息子である足利義稙でした。義稙(よしたね)は、義材(よしき)、義尹(よしただ)と名乗った時代もありますが、本文では義稙で統一します。義稙は日野富子の妹が産んだ子であり、日野富子の支持を得て将軍候補者となりました。

 もう一人の候補者は、堀越公方足利政知の息子である足利義澄です。義澄も義遐(よしとお)、義高(よしたか)と名乗った時代がありますが、本文では義澄で統一します。義澄を支持したのが細川勝元の息子で管領細川政元でした。

 この時の争いでは、日野富子の巨大な財力がものを言ったのでしょうか、義稙が後継者争いに勝利し10代将軍足利義稙となったのです。その後、日野富子と義稙は対立し、富子は義稙を失脚させる政変に加担します。

 1491年将軍となった義稙は軍勢を率いて近江へ遠征し、寺社本所領を横領していた六角高頼を征伐し、将軍としての力を誇示しました。1493年義稙は河内へ遠征し再び軍事力によって己の力を誇示しようと試みました。今回標的とされたのは河内を支配している畠山基家でした。大軍勢を率いた義稙は河内へ向け進軍を開始し、京都を留守にしました。

 このすきをついて義稙に反旗を翻した者がいます。さきの将軍後継者争いで義澄を担いで敗れた細川政元でした。政元は義稙の将軍職を一方的にはく奪すると、足利義澄を将軍の座に就けたのです。この事件は「明応の政変」と呼ばれています。明応の政変には、日野富子や幕府政所を司る伊勢貞宗も加担しています。京都で政変が起きると、不思議なことに足利義稙に従って河内へ遠征していた大軍勢の武将たちは、次々と細川政元の側へ寝返り京都へ帰還してしまったのです。

 見捨てられた義稙のもとに最後まで残っていたのは、わずか40人ばかりの近臣たちだけでした。義稙は細川方に捕らえられ京都に幽閉され、あわや毒殺されるところでしたが、なんとかその窮地を脱出し、越中へ逃れました。このとき、義稙が生き残ったことがその後の歴史を混乱させる要因になるのです。

 さて、細川政元が起こした明応の政変は、公職にもついていない細川政元が、時の将軍の首をすげ替えたのですから、前代未聞の大事件でした。政元は足利義稙が将軍職に就いた時に管領になっていたのですが、たった一日で辞職していたのです。過去にも6代将軍足利義教が播磨守護の赤松満祐に暗殺されるという「嘉吉の変」がありましたが、このときは将軍を殺した赤松満祐は幕府軍によって討伐されており、足利将軍の支配体制はまだ維持されていました。

 しかし、明応の政変が起きたことで、天下の真の支配者は細川政元になり、足利将軍は政元の操り人形にされてしまったのです。なぜ細川政元は、将軍よりも強い権力を握ることができたのでしょうか?その答えは、細川一族の結束にありました。

 政元は細川本家の家督者です。細川本家は代々右京太夫の官途を継承したことから「京兆家」と呼ばれていました。京兆家は摂津、丹波、讃岐、土佐の守護を兼務していました。細川一族は、この京兆家を中心に典厩家、野州家、阿波守護家、和泉上下守護家、備中守護家、淡路守護家があり、細川一族で八か国の守護を独占し近畿から瀬戸内海東部を支配する一大勢力でした。この時代の日本で細川一族ほど広大な分国を領有し瀬戸内海や日本海の経済的な要地を支配している者は他にはいませんでした。

 ここにおいて、日本の歴史の中に新たな支配者の形態が生まれました。細川政元は、公職にはついていませんが、京兆家という細川一族の総帥であるという立場で絶大な権力を手にし、「天下無双の権威」と呼ばれる支配者となったのです。

 

 細川政元は絶大な権力を手にし、その栄華は永らく続くかと思われました。ところが政元は一風変わった生き方をしており、そのことで運命を狂わせてしまうのです。政元は修験道に傾倒していました。そのため、政元は妻帯しておらず跡取りとなる息子がいなかったのです。

 当初、政元は細川高国を養子にしようとしていましたが、政元の母が反対し高国は野州細川家に入れられました。次に政元は前関白九条政基の息子である澄之を養子に迎えました。ところが、細川一族の中から細川家の血筋ではない者に京兆家を継がせることに難色を示す者が現れました。澄之反対派の三好之長は、阿波守護細川家の澄元を擁立して上洛してきました。三好の軍事的圧力に押された政元は、澄元に家督を譲る決断をします。

 細川政元が後継者を誰にするか二転三転したことで、京兆家の家督を巡り三つ巴の争いが起き、一枚岩で結束していたはずの細川一族は分裂してしまったのです。後継者争いは武力闘争に発展し、そのあおりを受けて政元は暗殺されてしまいました。政元の死後、泥沼の後継者争いを制したのは細川高国でした。高国は澄之を自害に追い込むと、西国の太守大内義興に庇護されていた足利義稙と手を結び、細川澄元と三好之長を阿波へ追い落とし、将軍足利義澄も近江へ退かせました。

 細川高国の取った行動は拙速であったと言わざるを得ません。権力者が衰退していく過程の多くは、目先の利益にとらわれて、安易な妥協したために、後に大きな禍根を残し、その禍根がもとで自分が滅びるという図式です。高国の場合は、京兆家の家督を得るために、足利義稙と手を組み、わざわざ将軍家の争いのもとを都に呼び戻したということです。

 

 1508年7月足利義稙が上洛して将軍の座に復位し、細川高国が京兆家の家督を継ぎ大内義興が軍事力を提供して政権を支えるという体制が生まれたのです。一見強固な政権が誕生した印象を受けますが、この政権はガラス細工のようにもろいものでした。

 まず、義稙が政権の主導権を巡り高国や義興と対立します。義稙は、明応の政変で失脚し軍事力も無ければ、経済力もありません。義稙にあるのは、足利将軍家の血筋だけです。身の程知らずの義稙の存在はこの政権の大きな足かせになっていました。 

 そして、政権発足から10年後の1518年大内義興が都を去り、周防へ帰還してしまいます。大内義興は明貿易で巨額の富を稼いでいたのですが、それでも長期間京都に滞在することは大きな負担だったのです。さらに、大内義興が領国を留守にしている間、山陰の尼子氏が勢力を拡大し大内氏の領国をおびやかし始めたのです。そのため、大内義興は帰国せざるを得ませんでした。

 大内義興が京都を去ると、義稙と高国の連合政権は軍事力が大幅に低下しました。その時を待っていたかのように、阿波の細川澄元が動き兵庫へ上陸します。摂津国最大の国人である池田氏が澄元に呼応し高国に対して挙兵しました。

 この動きを見た足利義稙は、澄元が優勢とみて、高国を見限り澄元に京兆家の家督を認めました。いつのころからか、足利将軍家には義稙のようなひきょうな男が出るようになってしまいました。このような男が足利家の力をどんどん弱めていくのです。ともあれ、義稙が高国から澄元に乗りかえ、阿波からは三好之長が2万の軍勢を率いて上洛を果たし、足利義稙、細川澄元、三好之長による政権が誕生しました。

 しかし、細川澄元が病にかかったことで、状況は一変しました。阿波軍勢の総大将である澄元が弱っているすきをついて、細川高国が反撃に出たのです。高国は近江の六角氏や朽木氏、越前朝倉氏、美濃土岐氏丹波内藤氏を味方につけ洛北で三好之長の軍勢と対決し勝利をあげました。総大将の澄元を欠いた阿波の軍勢のなから高国側へ寝返るものが続出したのです。敗れた三好之長は切腹させられ、細川澄元は阿波へ逃れましたがそこで死にました。そして、足利義稙も淡路へ逃げたのです。

 1521年細川高国後柏原天皇即位式を執り行い天皇の信任を得て京兆家の家督を継ぎ、足利義澄の遺児である足利義晴を新将軍として京都に迎えたのです。

 一方、このとき淡路へ逃れていた足利義稙は阿波へ渡っていました。義稙のもとには養子の義維(よしつな)がいました。この義維は足利義澄のもうひとりの遺児でした。こののち、義維は義晴と将軍の座を争うことになっていくのです。

 

 織田信長が誕生したのは1534年のことです。信長が生まれる以前から京都では権力の座を巡る激しい戦乱が起こっていたわけです。近畿、瀬戸内海東部の八か国を領有する細川一族は絶大な権力を手にし、一族の総帥である京兆家の細川政元は、明応の政変を起こし将軍の首をすげ替えることさえできる支配者となっていました。

 しかし、政元に実子がいなかったために京兆家の家督相続をめぐる争いが生じ、細川一族は分裂してしまいました。細川高国家督相続争いを有利に運ぶため、足利義稙と手結び、細川家の争いに加えて将軍の座を巡る争いも再燃してしまいました。権力を巡る争いは手段を選ばず、武力に勝ることが最優先されます。そのため、戦いのすそ野は広がっていきました。足利氏も細川氏も軍事力を提供してくれる味方を必要としたのです。

 ところが、大内義興の例にみられるように、遠国から京都に遠征してきても長期間滞在することは不可能です。そのため、足利氏も細川氏も、京都周辺の有力国人衆はもとより、一向宗法華宗など宗教勢力であっても軍事力を持っている集団を利用しようとしました。いつしか、争いの主導権を握るのは、実際の軍勢を動員できる国人衆や宗教勢力に移ってしまい足利氏や細川氏は彼らを制御できなくなってしまったのです。彼らは自分たちの勢力を拡大するため勝手に争いをはじめ、京都はその戦場となってしまったのです。

 かくして、信長がくる前の京都は戦乱の巷と化し、世に平和をもたらす麒麟はいなくなってしまいました。将軍や細川氏は自分の身を守るため、味方になってくれる有力武将のもとに逃げ込むしかなかったのです。

 一方、阿波からは三好長慶畿内に進出してきました。1539年長慶は越水城に入城しここを拠点として摂津西半国を支配下におさめ畿内に根を下ろしました。阿波の領地は弟たちに任せることで畿内と四国の両方で軍事力を養い、世に出る機会をうかがっていたのです。長慶の活躍とその後の権力争いのゆくえは、また次回にお話しします。

 

 

今回の参考文献

 「応仁の乱」 呉座勇一 中公新書

 「室町幕府分裂と畿内近国の胎動」 天野忠幸 吉川弘文館

関東の戦国 北条早雲の伊豆侵略はかたき討ちのためだった

 関東の戦国時代の幕開けは、北条早雲による伊豆侵略です。これは、一介の浪人であった伊勢新九郎駿河の今川家の食客となり堀国公方茶々丸を追放して伊豆一国を手に入れた出世物語であり、戦国時代の下克上の代表例として捉えられてきました。ところが、近年の歴史学の研究では、北条早雲の伊豆侵略は京都で起きた明応の政変というクーデターと連動したかたき討ちであることがわかってきました。いったい、どのようなかたき討ちだったのでしょうか?

 まずは、北条早雲の半生を振り返ってみましょう。そもそも早雲が自分自身で北条早雲と名乗ったことはないそうです。本名は伊勢新九郎長氏であり仏門に入門してからは伊勢宗瑞と名乗りました。そこで本ブログでは伊勢宗瑞と呼ぶことにします。

 従来、伊勢宗瑞の生年は1432年と考えられてきましたが、これは宗瑞の叔父伊勢貞藤の生年と混同されていたようです。現在の説では宗瑞の生年は1456年というのが有力です。宗瑞の出自についても諸説ありますが、近年の研究では室町幕府の政所に仕えていた伊勢一族こそが宗瑞の出自であると考えられています。

 都を離れた宗瑞は駿河の今川家に仕えることになりました。そのころ今川家では家督相続をめぐる争いが生じていました。ことの発端は1476年に駿河守護の今川義忠が急死したことにあります。当時義忠の嫡男龍王丸(のちの今川氏親)はまだ幼かったので、今川家中は龍王丸を擁護する一派と義忠の従弟で小鹿範満を新たな家督相続者に推す一派とが対立し内乱が起きました。この今川家の家督相続争いに干渉したのが堀越公方足利政知です。堀越公方の軍事的圧力によって小鹿派が内乱を制し、小鹿範満が当面の間今川家の家督を継ぎ、龍王丸が元服したあかつきには、龍王丸に家督を譲るという妥協案が成立したのです。ただし、この時の内乱に伊勢宗瑞は関わっていません。江戸時代から伝わる伊勢宗瑞の逸話では、1476年と1478年の2回に分けて起きた今川家の家督相続争いが混同されていたようです。

 やがて、龍王丸は元服しましたが、小鹿範満は今川家の家督を横領し続けていました。1478年2回目の家督相続争いが今川家で起きました。今回の争いでは、今川家の食客であった伊勢宗瑞が小鹿範満を討伐し、今川家の正統な跡継ぎである今川氏親家督相続を実現させたのです。今川家の内乱を平定した功績によって伊勢宗瑞は氏親から東駿河の興国寺城を与えられました。

 伊勢宗瑞は、この興国寺城を拠点として伊豆侵略をおこなうことになるのです。伊豆侵略の話を進める前に、この当時の伊豆の情勢について話ます。1482年長らく続いてきた室町幕府古河公方足利成氏の対立に終止符が打たれ和睦が成立しました。足利成氏古河公方として関東九か国の支配権を認められました。また堀越公方足利政知には御料所として伊豆一国が与えらたのです。(古河公方堀越公方についての詳細は、歴史楽者のひとりごと「太田道灌 戦国時代前夜を鮮やかに駆け抜けた悲運の名将」をご一読ください)

 堀越公方足利政知は8代将軍足利義政の弟であり、鎌倉公方として関東を支配することを夢みていたのですが、その夢はかなわず、伊豆一国の支配者にしかなれませんでした。伊豆で失意の底に沈んでいた足利政知ですが、1489年新たな希望をみいだしました。応仁の乱の後将軍に就いていた足利義尚が25歳の若さで急死したのです。そこで発生したのが将軍の後継者問題でした。足利政知管領細川政元細川勝元の息子)と手を結び自分の二男である清晃(せいこう)を将軍の座につけようと画策しました。

 ところが、将軍の候補者は他にもいました。応仁の乱の主役の一人である足利義視の息子義材(よしき)です。義材の後ろ盾となっていたのは日野富子です。富子の夫で前の将軍である足利義政は義材の将軍就任に反対していましたが、1490年に死亡してしまいます。これを契機に、日野富子の後押しを受けた義材は10代将軍の座に就きます。

 息子を将軍にするという夢も破れた政知は1490年に亡くなりました。政知の死後堀越公方の座に就いたのは、足利茶々丸です。茶々丸と清晃では母親が違っていました。茶々丸堀越公方の座に就くために、伊豆にいた清晃の母と弟を殺害し堀越公方の地位を略奪したのです。このため、京都の香厳院という寺院に入っていた清晃は、母と弟のかたきである茶々丸に復讐する機会を狙っていたのです。その機会は思わぬ形で訪れました。

 明応二年(1493)管領細川政元は将軍義材が河内の畠山基家を討伐に出陣した留守をついて京都で政変を起こし義材の将軍職をはく奪し、清晃を11代将軍の座に就けました。この事件が明応の政変です。室町幕府管領が将軍の首をすげ替えるという前代未聞の事態が起きたのです。この事件によって将軍の権威は完全に失墜し、細川政元がいわば”キングメーカー”として時の権力者となったのです。この出来事によって室町時代武家社会の秩序は完全に崩壊し、京都とその周辺地域では権力の座を巡る争いが激化していきます。こうして、世の中は戦国時代と呼ばれる乱世になっていくのです。

 清晃は還俗して足利義遐(よしとお)と名を改め将軍の座に就きました。義遐がまず着手したことは、駿河の伊勢宗瑞に伊豆侵攻を命じ、母と弟の命を奪った茶々丸に対する復讐を実行することでした。将軍義遐と伊勢宗瑞はどうして繋がっていたのでしょうか?実は明応の政変には幕府政所執事伊勢貞宗も加担していたのです。貞宗は宗瑞の従弟でした、その関係を通じて義遐は伊勢宗瑞を使ってかたき討ちを行ったわけです。

 明応2年(1493)年の秋、伊勢宗瑞は軍勢を率いて興国寺城を発進し伊豆の茶々丸を急襲しました。宗瑞は堀越御所の襲撃には成功しましたが、茶々丸は取り逃がしてしまいました。そのため、伊勢宗瑞の茶々丸討伐は長期戦になりました。茶々丸上杉顕定の力を頼り伊豆、相模、甲斐の各地逃げ回っていました。宗瑞は茶々丸を追いかけながら伊豆の侵略を進めていたのです。茶々丸の政治は腐敗しており、伊豆の人心は茶々丸から離れていました。そのため、伊豆の国人衆の多くは、伊勢宗瑞が茶々丸を追放したことを支持していたのです。さらに、宗瑞は年貢の負担を軽くするなど融和策を実行し、伊豆の支配を進めていったのです。

 1498年に伊勢宗瑞はついに茶々丸を南伊豆に追い詰め自害させました。こうして伊勢宗瑞は伊豆一国を手に入れることができたのです。11代将軍足利義遐(のち義高、義澄と改名)の母と弟のかたき討ちであったはずの伊豆侵攻は、いつの間にか伊勢宗瑞の国盗り物語にすり替わっていたのです。伊豆一国の支配者となった伊勢宗瑞は、これで満足することなく次の侵略地として相模国に狙いをつけたのです。

 

◆「今回参考にした資料は以下の通りです。

 関東古戦録 上巻 槙島昭武 著 久保田順一 訳 あかぎ出版

 関東戦国史(全) 千野原靖方 崙書房出版

 図説 太田道灌  黒田基樹 戒光祥出版

太田道灌 戦国時代前夜を鮮やかに駆け抜けた悲運の名将 後編ー当方滅亡

関東管領方の内情

 1477年5月利根川東岸へ逃れていた関東管領上杉顕定は、太田道灌に守られて五十子陣へ帰還した。このとき享徳の乱が始まって既に23年もの歳月が流れていたが、その間に関東管領方の顔ぶれは大きく様変わりしていた。享徳の乱は、1454年に関東上杉憲忠鎌倉公方足利成氏の軍勢によって謀殺されたことによって始まったが、その後関東管領に就いたのは殺された上杉憲忠の弟である上杉房顕であった。その房顕は、1466年に五十子陣中で急死した。享年32歳の若さであった。このとき山内上杉家には房顕の跡を継ぐのにふさわしい者がいなかったのであろうか、山内上杉家家督を継いだのは越後国守護上杉房定の二男である顕定であった。翌1467年に上杉顕定は14歳で関東管領職についたのである。同じ年、関東管領方を長年支えてきた扇谷持朝も52歳で病死している。扇谷家の家督を継いだのが孫の政真であったが、政真は1473年に22歳で討ち死にした。政真の跡を継いだのが扇谷定正である。このように、関東管領方は長い戦乱の中で首脳陣が相次いで亡くなっていたのである。関東管領方が劣勢に陥っていたのは、このことが原因であるのかもしれない。

 しかし、1477年太田道灌が主導権を握って戦場に登場した後、関東管領方はようやく優勢な立場をとることができるようになった。道灌はこの時46歳の働き盛りである。一方、関東管領上杉顕定は24歳、道灌の主君である扇谷定正は35歳であった。

 道灌は、関東管領方を勝利に導くため若い二人の上司に対して様々な進言をするのだが、道灌の進言が却下されることが度々あったという。上杉顕定が信頼していたのは山内上杉家の家宰である長尾忠景であった。家格では長尾家が太田家よりはるかに上位であったので、顕定は道灌をどこか見下していたのかもしれない。また、顕定と忠景は年齢が近く何かと話が合ったのかもしれない。しかし、道灌の目には長尾忠景は佞臣として映っていた。この頃道灌は上野国内で長尾景春の軍勢と戦っていたのだが、忠景の横やりが入ることで道灌の作戦は支障をきたし、長尾景春を何度も取り逃がしていたのだ。

 あるとき、太田道灌は長尾忠景には相談せず独断で作戦行動を開始した。このとき長尾景春は梅沢というところに陣を置いていた。忠景の主張では、梅沢は要害であるので攻撃するのは困難であるとのことだった。しかし、道灌の考えは違っており、梅沢へ迫り景春軍の退路を断とうとすれば景春軍は梅沢から平地へでてくると考えたのである。実際に道灌が作戦行動を開始すると、道灌軍の動きに動揺した景春の軍勢は梅沢の陣から出て後退を始めたのである。景春軍が逃げ出したことに気が付いた山内上杉、扇谷上杉、長尾忠景らの軍勢は全軍でこれを追いかけ用土原というところで合戦になり、長尾景春の軍勢は大敗して鉢形城へ戻ったのである。道灌の作戦がまんまと的中したのだ。

 用土原の合戦で大敗し窮地に陥った長尾景春は、古河公方足利成氏に救援を求めたのだ。1477年7月古河公方は結城、那須、佐々木などの軍勢数戦騎を従えて景春の援軍に出てきたのである。景春軍と古河公方軍が合体したことで、関東の戦乱は再び古河公方関東管領という図式に戻ったのである。

 

◆広馬場の対陣

 1477年12月古河公方足利成氏は長年の戦いに決着をつけるため、八千騎の大軍勢を率いて出陣し広馬場というところに陣を敷いた。広馬場とは、群馬県榛名山麓にある榛東村付近のことである。古河公方の動きに対して、山内・扇谷両上杉の軍勢五千騎は上野の白井城を出て広馬場に進軍し、古河公方軍の北側に陣を展開した。この時、太田道灌古河公方軍の背後から攻撃する作戦を主張したが、越後勢は白井城を背にして戦う方が有利だとして道灌の作戦を受け入れなかった。

 古河公方の軍勢には松陰という僧侶が従軍していた。室町時代の合戦では陣僧と呼ばれる僧侶が戦場に従軍し戦死者を弔っていたのだ。その陣僧のなかには合戦の記録を残した者もいる。松陰は「松陰私語」という文書を書き残しているが、そのなかで広馬場の対陣についてふれている。それによると、古河公方軍と両上杉軍は2里ほどの距離をおいて対峙し、広馬場には両軍の将兵が満ちあふれていたという。両軍が展開している様子は日本の歴史上かつてないほどの規模で、その昔起きた源平合戦でさえこれほどの大軍勢同士が決戦に臨んだことはないだろうと松陰は語っている。広馬場の大軍勢は戦機が熟すのを今や遅しと待っていた。

 ところが、戦端が開かれる前に広馬場一帯は突然の大雪に見舞われたのである。この急激な天候の悪化で両軍の将兵は戦意を喪失し広馬場の決戦は起きなかったという。そして、上杉方から使者が出て古河公方への和睦を申し入れたのだ。話し合いの結果、関東管領古河公方室町幕府の和議を仲介することを条件に停戦が成立したのである。こうして、1478年正月に両軍は広馬場の対陣を解いてそれぞれ引き上げていったのである。

 

◆下総千葉氏との戦い

 太田道灌上野国内で長尾景春と戦っていたころ、道灌不在の江戸では、豊島氏が再び活動を始めていた。豊島氏は平塚城に立て籠り、江戸と河越の連絡を遮断したのである。しかし、広馬場の対陣が解けて道灌が河越まで戻り、平塚城の豊島氏を攻撃する姿勢を見せると、豊島氏は平塚城を捨てて逃げ出したのである。道灌は豊島氏を再起不能にするために徹敵的な掃討戦を展開した。豊島氏は景春方の小机城に逃げ込んだが、1478年4月道灌は小机城を陥落させ、豊島氏はこのときの合戦で滅亡したのだ。豊島氏の所領は扇谷家が全て没収しその大部分が道灌の所領になったという。

 同年8月太田道灌は景春方の下総千葉氏の攻略に乗り出した。享徳の乱が勃発すると関東の名門千葉氏は下総千葉氏と武蔵千葉氏の二流に分かれて争いを続けていた。千葉氏本家の血を引く武蔵千葉氏の千葉自胤は道灌の味方についており、江古田・沼袋の合戦では道灌軍の別動隊として活躍した武将である。千葉自胤は、その後も道灌に従って長尾景春との戦いに参戦していたのだ。道灌は下総千葉氏を倒し、千葉自胤の本来の所領である下総を取り戻そうしていたのである。

 一方、下総千葉氏は千葉氏の傍流でありながら古河公方の支援を受けて千葉氏本家の家督を奪い取ったのである。下総千葉氏の首領千葉孝胤は、先に結ばれた古河公方関東管領の停戦協定に反対し戦いを続けることを主張していた。道灌にとって千葉孝胤をたおすことは、古河公方との停戦を維持するためにも必要なことであった。そのため、道灌は千葉孝胤を攻撃する前に、古河公方の了承を得る必要があった。孝胤を攻撃する目的は、武蔵千葉氏を本家に戻すための軍事行動であり、停戦協定を破る行為ではないということを示しておく必要があったのだ。道灌は扇谷定正上杉顕定に依頼して話を通してもらい、下総千葉氏攻撃に関する古河公方の了承を得たのである。 

 同年12月道灌率いる扇谷勢と武蔵千葉勢は下総に攻め込んだ。道灌は国府台に進出しここに陣を張った。国府台は江戸川に面した高台であり要害の地である。JR総武線に乗って東京から千葉方面へ向かうとき、江戸川を渡る鉄橋の左手に見える高台がそれである。この地は戦国時代に何度も決戦の場となっているが、この地に砦を築いたのは道灌が最初であった。一方千葉孝胤は千葉城を出撃し境根原に陣を敷いた。両軍は境根原で激突し道灌軍が勝利した。敗れた千葉孝胤は下総の白井城に籠城したが、孝胤には上総の武田氏が援軍につき激しく抵抗したので戦いは長期化した。道灌は上杉顕定に援軍を頼んだが、顕定の援軍が来ることはなかった。顕定の周辺には佞臣がおり下総の戦いは道灌の私戦であるから援軍を送る必要なはいと言っていたのである。

 1479年正月、長い戦いの末太田道灌白井城を陥落させた。しかし、千葉孝胤を仕留めることはできず孝胤は千葉城へ逃げかえっていた。また、この戦いでは道灌の弟である太田資忠が討ち死にしている。白井城は千葉自胤の城となったが、道灌にとっては大きな代償を伴う勝利であった。さらに、この戦いで道灌は古河公方の協力を仰ぐことになり、道灌と古河公方の距離は接近したが、上杉顕定は両者の接近を快く思っていなかったようである。顕定の心なかでは、道灌は自分の存在を脅かす危険な存在となりつつあった。

 

長尾景春を追い詰める

 1479年9月長尾景春が長井六郎とともに武蔵で蜂起した。蜂起した当初、景春は長井城(埼玉県熊谷市)に入っていたが、やがて秩父に本拠地を移した。道灌は休む間もなく景春退治に奔走することになった。道灌は攻略しやすい長井城から攻撃を始めた。1480年正月に長井城は陥落し、景春は秩父日野城に立て籠っていた。

 長井城が攻略され長尾景春は孤立無援の状況に陥るかと思われたが、そこに救援の手を差し伸べた者がいる。古河公方足利成氏である。成氏は室町幕府との和議が一向に進展しないことに腹を据えかねていた。関東管領と結んだ停戦協定では、関東管領が成氏と幕府の仲介をすることが条件になっていたが、関東管領が幕府に和議の斡旋をした様子は皆無であった。

 道灌は関東管領上杉顕定に和議の仲介を進めるように進言したが、顕定はこれに応じなかった。関東管領が和議の仲介に動かないことに業を煮やした古河公方は、東上野に軍勢を送り関東管領を牽制した。古河公方の動きに応じて公方に味方する者や景春に味方する者が不穏な動きを見せ始めた。

 戦況が著しく変化したので、太田道灌秩父の戦場を離れ江戸城に戻り態勢を立て直すことにした。道灌は江戸城の守りを固めた上で再度秩父へ進軍したのだ。道灌が秩父に着陣すると、上杉顕定から急いで日野城を攻略するように命令が出された。道灌はあらゆる手段を尽くして日野城を攻撃し1480年6月に日野城は陥落した。長尾景春日野城を脱出して古河公方のもとへ逃げ込んだが、これ以降反乱を起こすことはなかった。太田道灌日野城を攻略したことで、4年に渡る長尾景春の乱にようやく終止符が打たれたのである。

 

上杉顕定との軋轢

 文明14年(1482年)11月室町幕府古河公方足利成氏との間で和睦が成立した。ここにおいて28年に渡る享徳の乱がようやく終結したのである。1485年太田道灌江戸城でひとときの平和を楽しんでいた。道灌は美濃より万里集九を招き盛大な歌会を催していた。華やかな宴の席にいた道灌ではあったが、その胸中には複雑な思いが去来していたにちがいない。

 長尾景春の乱を終結させ関東に平和をもたらしたのは、ひとえに道灌の働きによるものであった。長尾景春の乱が勃発した時、油断していた上杉勢は五十子陣を落とされ、顕定をはじめとする主力はそろって利根川東岸へ避難しなす術もなかったのだ。相模、武蔵では景春の与党が次々に蜂起し、道灌は江戸城で四面楚歌の状況に追い込まれていた。

 しかし、道灌はこの状況に動じることなくただ一人で敵に立ち向かっていったのだ。相模の敵を倒し、豊島勘解由左衛門尉を江古田・沼袋の合戦で打ち破り、豊島勢の籠る石神井城は落城した。相模・武蔵の敵を一掃した道灌は、上野へ転戦し景春軍を追い払い上杉顕定を五十子陣へ、扇谷定正河越城へそれぞれ無事に帰還させたのである。

 古河公方関東管領の間では停戦協定が結ばれたものの、長尾景春や千葉孝胤はこれに従わず反乱の火は燻り続けていた。道灌はまたしても東奔西走し、長尾や千葉を征伐したのである。長い戦いの中で、道灌のもとには関東中から数多くの武将が馳せ参じ敵方との戦いに身を投じてくれたのである。道灌は彼らの労に報うべく、上杉顕定に恩賞の沙汰を上申したのだ。しかし、顕定からは何の音沙汰もなかった。これに対し道灌は再度書状を出して、顕定に催促していたのだ。この書状が太田道灌状である。

 顕定の周辺には佞臣がおり、道灌と共に戦った武将の軍功に対する恩賞を出すことに反対していたのである。佞臣どもは、五十子陣の帷幕の内で汗もかかずにただひたすら顕定の機嫌をとることに執心していた。佞臣どもの讒言を聞いていた顕定は、大局を見る目がなく、道灌の戦いは贔屓にしている武将に恩賞・所領を与えるための私戦だとみなしていた。道灌と顕定の間には大きな軋轢が生じていたのだ。

 顕定は戦場に出て陣頭指揮を取る能力には劣っていたようだが、暗い陰謀を企む能力には長けていた。顕定の目に映っていたのは、長尾景春と戦っている道灌の声望が日増しに高まり、道灌の勢力が拡大していく様子であった。顕定の胸中には暗い思いが膨らんでいたに違いない。このまま道灌を放置しておけば、草木もなびく道灌の勢いはとどまるところを知らず、やがて山内上杉家は道灌に飲み込まれてしまうのではないかという懸念である。顕定はそうなる前に道灌を亡き者にする陰謀を企んだのである。顕定は自分の手を汚さず、道灌の主君である扇谷定正をそそのかして道灌を暗殺させることにしたのだ。

 

太田道灌の最期(当方滅亡)

 文明18年(1486年)7月26日太田道灌は、扇谷定正に招かれ相模国糟屋庄の糟屋館を訪れていた。上杉顕定から「道灌が謀反を起こしてあなたの命を奪おうとしている」との話を聞かされた扇谷定正は、糟屋館で道灌を暗殺することを決意していた。定正は道灌に風呂を進めて風呂場で道灌を暗殺したのである。死ぬ間際に道灌は「当方滅亡」と叫んだと云われている。一代の英雄のあえない最期であった。

 私は、道灌は死を覚悟して糟屋館に向かったと思っている。道灌のほど武将が、糟屋館に不穏な動きがあることぐらい見抜けたはずなのだ。それにもかかわらず、道灌が死地に赴いたのはよくよく考えてのことなのだと思う。

 太田道灌上杉顕定の軋轢はもはや抜き差しならぬ状況になっていたのだ。その時、道灌の前には三つの選択肢があったのだと思う。

 第一の選択は、顕定に頭を下げ許しを請うという選択である。道灌は今までの態度を改め、今後は顕定の命令に素直に従うことになるのだ。だが、道灌ほどの優れた武将が顕定のような凡庸な主君に従えるわけがないのだ。ましてや時代は変わろうとしていた。関東管領のような古い権威はもはや機能しなくなりつつあり、能力のある実力者が力で領国を支配する新しい時代が訪れようとしていた。道灌は上杉家から独立して江戸城を中心とした武蔵国南部を領国として支配し理想の国造りを目指していたはずである。

 第二の選択は、顕定に従わずに謀反を起こすことである。今や道灌の声望は関東中に広まっている。いざ道灌が兵を挙げ上杉と戦うというのならば、多くの武将が道灌のもとに集まり戦ってくれるだろう。しかし、この選択も道灌にはできなかった。道灌がこれまで粉骨砕身して戦ってきたのは、関東に平和をもたらすためであった。28年にも及ぶ戦乱の中で関東の民は疲弊しきっていた。その長い戦乱がようやく終わり、誰もが平和に暮らせる日々が戻ってきたのである。ここで道灌が謀反を起こせば、関東は再び戦乱の時代に逆戻りしてしまうのだ。それもまた道灌にはできない選択であった。

 第三の選択は、陰謀が待っている糟屋館へ堂々と赴き、後は天命にまかせるという選択であった。道灌は、無能な顕定や定正に頭を下げてまで上杉から禄を受ける気など毛頭ないのである。さりとて、謀反を起こして第二の長尾景春になる気もない。道灌という人間のあまりの高潔さが、死という運命を選んでしまったのである。

 戦国時代に先駆けて海と川の出合う江戸の地に難攻不落の城を取り立て江戸繁栄の礎を築き、向かうところ敵なしだった名将は悲劇的な最期を遂げてしまった。その武名は関東中に鳴り響き、将兵は草木がなびくがごとく道灌のもとへ集まり人望は厚かった。ただ、道灌の上司だけが歪んだ眼差しで道灌を見て、道灌の志を理解できず道灌を恐れていたのだ。いつの時代にも理不尽というものは存在する。その理不尽がはびこる世の中で、太田道灌の鮮やかな生き様を知った者は、道灌に心を寄せずにはいられないのだ。道灌の死から530年余り過ぎた今日でも、道灌の銅像は江戸の地にひっそりとたたずみ、正義とは何かを我々に問いかけてくるのである。

 

◆おわりに

 東京ではコロナウィルスの猛威が再び巻き起こり、第二波が始まっています。春先から外出を控え家に籠る日々が続いており、史跡や博物館を訪れることもできなければ図書館で歴史資料を調べることもできません。新しいネタがないにもかかわらず、何かを書きたいという思いだけは募り、過去に出した太田道灌の話をもう一度取り上げ少し長めの文章にして三部作にしてみました。まだまだ自粛の日々が続きそうです。退屈しのぎに愚作を読んでいただければ幸いです。

 

今回参考にした資料は下記の通りです。

 

図説 太田道灌 黒田基樹 戒光詳出版

 

関東戦国史(全) 千野原靖方 崙書房出版

 

戦国末期に徳川家康と手を結んだオランダとはどんな国だったか

 7月5日に放送された「NHKスペシャル 戦国 激動の世界と日本(2)徳川家康×オランダ」は非常に見応えのある番組でした。徳川家康の天下取りを陰で支えていたのがオランダであり、対する豊臣家にはスペインが肩入れしていたということを私は初めて知りとても興味をそそられました。

 この番組の中で、オランダは商人が建国した小さな新興国と紹介されましたが、詳しい説明はありませんでした。そこで今回は、オランダ建国の歴史について調べてみました。

 オランダは北海に面する低地が広がる国です。もともとこの地方はネーデルラントと呼ばれていました。1477年ネーデルラントは相続によってハプスブルグ家の領地となりました。ハプスブルグ家は、神聖ローマ皇帝世襲する中世ヨーロッパを代表する名門です。

 1519年ハプスブルグ家出身のスペイン王カルロス1世はフランス国王フランソワ1世との激しい相続争いに勝利し神聖ローマ皇帝カール5世になりました。ここにおいて、ハプスブルグ家は神聖ローマ帝国スペイン王国ナポリ王国ネーデルラントオーストリアとそれらの国が支配する海外領土を傘下に収め「日の沈まぬ帝国」が出現したのです。

 ハプスブルグ家が支配する世界各地の領土では、香辛料などの高価な産物が収穫され、それらはネーデルラントの港アントウェルペンアントワープ)へ集められました。こうして、アントウェルペンは16世紀におけるヨーロッパ最大の中継貿易港として繁栄することになったのです。さらに、アントウェルペン近隣のフランドル地方は毛織物産業が栄えており、これらもアントウェルペンの繁栄に大きく貢献していたのです。こうしてアントウェルペンはヨーロッパ経済の中心地となりました。

 しかし、ハプスブルグ家による「日の沈まぬ帝国」の栄光は長くは続きませんでした。カール5世はドイツの修道士・神学者マルティン・ルターが始めた宗教改革に対抗しようとしましたが、ルターを支持した帝国内の諸侯から圧力を受け1555年アウグスブルグの和議を結び失意のうちに退位しました。その後、ハプスブルグ帝国は二分されスペインとネーデルラントを相続したのはスペイン王フェリペ2世でした。

 この当時、スペインは国を挙げてカトリック教を支持し、ローマ教皇を絶対的な存在として仰ぎ、キリスト教を全世界に布教するという強い目的を持って世界へ進出していました。また、カトリック教では営利行為は蔑視されていました。

 一方、アントウェルペンを中心とするネーデルラントで活躍していた都市商人たちは、スペインが支持するカトリック教ではなく、カルヴァン派というキリスト教の中の新たな宗派を支持していました。カルヴァン派では、経済活動を積極的に奨励していたのです。

 スペインのカトリック教とネーデルラントカルヴァン派では同じキリスト教でありながらも全く相反する考え方を持っていたのです。そのため、スペイン国王フェリペ2世ネーデルラントに対して圧政を行ったのです。ネーデルラントでは反スペイン運動の機運が高まり、オラニエ(オレンジ)公ウィレムを指導者とする北部7州はユトレヒト同盟を結び1581年スペインからの独立を宣言しネーデルラント連邦共和国(オランダ)を建国したのです。まさにオランダを建国したのは、アントウェルペンを中心とするネーデルラントで活躍していた商人たちだったのです。

 しかし、オランダはすぐさま独立を勝ち取ることはできませんでした。オランダはイギリスなどの支持を得ながらスペインからの独立戦争を続けていたのです。1588年イギリス海軍はスペインの無敵艦隊を破りスペインに大きな打撃を与えました。この戦争のさなかアントウェルペンはスペイン軍によって破壊されましたが、オランダは新たにアムステルダムを貿易・経済の拠点としました。1602年にオランダが東インド会社を設立しアジア貿易を積極的に進めたことで、アムステルダムはヨーロッパ最大の商業・金融都市に発展しました。

 長い争いの末、オランダが正式に独立を認められたのは1648年に結ばれたウェストファリア条約においてでした。このように、キリスト教の旧教と新教の対立に端を発したオランダとスペインの争いはヨーロッパからはるか遠く離れた日本まで波及し、オランダは徳川家康と組み、スペインは豊臣秀頼と組んで争いを続けて、豊臣家の滅亡へとつながっていたのです。日本の戦国時代がヨーロッパの紛争と深い関係を持っていたとは驚きです。今後、戦国時代のことを考える時にはグローバルな視点を持ち、海外の歴史との関連を検討する必要が出てきました。まったく歴史の興味は尽きることがありません。

 ところで、徳川家康が最初に出会ったオランダ人は、ヤン・ヨーステンです。1600年オランダの船リーフデ号が豊後に漂着しました。船に乗っていたオランダ人航海士ヤン・ヨーステンと水先案内人の英国人ウィリアム・アダムス(のち三浦按針)は家康によって江戸に招かれ家康の外交・貿易顧問となったのです。ヤン・ヨーステンが住んでいた屋敷のあった場所がやがて「八重洲」と呼ばれるようになったのです。

 

参考1

 ユトレヒト同盟を結成した北部7州は、ホラント、フーリストラント、フローニンゲン、オーヴェルアイセル、ヘンデルラント、ユトレヒトゼーラントです。

 オラニエ(オレンジ)公ウィレムはホラント州の総督でホラント州がユトレヒト同盟の中心になったことから、ホラントが訛り”オランダ”になったそうです。

 

参考2

 ウェストファリア条約とは、30年戦争を終結させるための条約です。30年戦争とは神聖ローマ帝国内のボヘミアで起きたプロテスタントの紛争がきっかけでした。神聖ローマ皇帝プロテスタントを容赦なく弾圧しましたが、そこへプロテスタントを支持するデンマークが侵入しました。デンマーク傭兵隊長ヴァレンシュタインが指揮する皇帝軍に敗れました。一時は皇帝軍の勝利かと思われましたが、スウェーデン国王グスタフ=アドルフ(ルター派)が参戦すると、反皇帝の立場をとるフランスとオランダがグスタフ=アドルフを支援し戦争は混迷の度合いを深めました。これによって、30年戦争は歴史上初のヨーロッパ大戦となったのです。

 この戦争を終結させるために1648年に締結されたのがウェストファリア条約です。この条約では、スウェーデンとフランスが領土を獲得し、オランダとスイスの独立が認めらました。また、カルヴァン派は初めて公認されました。こうして事実上神聖ローマ帝国は解体されました。神聖ローマ皇帝教皇の権威は失墜し、主権国家どうしが法律による秩序を守るという「ウェストファリア体制」が誕生しました。この後ヨーロッパの歴史はウェストファリア体制を前提として動いていきます。

 

 

今回参考にした資料は以下の通りです

 新 世界史 山川出版

 最新世界史図説 タペストリー 帝国書院

 詳説 日本史 山川出版

 日本大百科全書(ニッポニカ)