歴史楽者のひとりごと

こんにちは、歴史を楽しむ者のブログです。

日本の歴史を変えた武士 梶原景時

 治承四年(1180)八月十七日、源頼朝は打倒平氏を掲げ伊豆で挙兵しました。頼朝の軍勢は伊豆国目代である山木兼隆の館を襲撃し首尾よく兼隆を討ち取りました。その後、頼朝は伊豆・相模の軍勢三百騎を率いて相模国土肥郷へ向かい、石橋山に陣を構えて衣笠城から出陣してくる三浦一族の軍勢と合流するつもりでした。

 しかし、折からの豪雨で三浦一族は足止めされ石橋山へ向かうことはできませんでした。ちょうどそのころ、大庭景親が率いる軍勢が石橋山に迫っていました。景親は平清盛から東国の反乱者を討伐することを命じられ「東国御後見」という特別な権限を与えられていました。そのため景親の軍勢は、相模国平氏家人を中心に三千騎にも及んでいたのです。

 頼朝が石橋山に陣取っていることを知った景親は、既に夕闇が迫っていましたが、この時を逃せば頼朝勢を倒す機会は失われてしまうと考え、数千の軍勢に頼朝の陣を襲撃させました。ところが、大庭勢の中には頼朝に心を寄せる武士が混じっていたのです。その中の一人である飯田家義は、頼朝を逃れさせるために自分の家来のうち六人を大庭勢と戦わせ、その隙に頼朝は戦場を離れ杉山の洞窟に隠れました。

 大庭景親は、杉山に潜んでいる頼朝を捕らえるため捜索隊を放ちました。この捜索隊に加わっていたのが、梶原景時です。景時は洞窟に隠れている頼朝の存在に気が付いていたのですが、どういう訳か頼朝に情けをかけ、見て見ぬふりをして手勢と共にその場を離れたのです。

 梶原景時のこの不可思議な行動によって、源頼朝九死に一生を得たのです。そして、頼朝が奇跡的に生きのびたことで、日本の歴史は大きく変わったのです。

 もしもこの時、梶原景時が頼朝を発見し捕えていたら日本の歴史はどうなっていたでしょうか?歴史学では「たられば」は禁物かもしれませんが、歴史を楽しむ者としては想像力を膨らませ空想の歴史を考えたいと思います。

 

 捕らえられた頼朝は、大庭景親の前に引き出されその場で首を切られたでしょう。頼朝の首は、福原にいる平清盛のもとへ送られ、東国の反乱は一気に鎮圧されたでしょう。頼朝の挙兵に加担した北条氏も滅亡し、北条氏が日本の歴史に名を残すことはなかったかもしれません。

 頼朝の挙兵が失敗したことは、各地で反乱を起こした源氏にも悪影響を及ぼしたはずです。反乱の機運は盛り上がらず、北陸の木曽義仲の軍勢にも勢いはつかず、平氏都落ちせずに済んだでしょう。各地の反乱は下火になり、平氏政権は揺らぐことなく盤石の体制を保つことができたはずです。

 日本の歴史に「鎌倉時代」はなく代わりに平氏が日本の支配者になった「福原時代」があったのかもしれません。福原時代は、平氏による海外交易が盛んになった時代で、日本はアジアの国々と交流し国際的な貿易国家になっていたかもしれません。日本は、やがて世界を席捲してくるモンゴル帝国とも平和裏に外交関係を築くことができ、現在の歴史とは全く異なる道を進んだたかもしれないのです。また、海外貿易が盛んになると造船技術や航海術が発達し、日本人がコロンブスより先にアメリカ大陸に到達したかもしれません。

 国内では、荘園制度が依然として存在し、平氏平氏と関係の深い上級貴族だけが荘園領主となる社会となっていたでしょう。頼朝は武士と主従関係を結ぶために、荘園の地頭職の任命権を独占し、合戦で活躍した武士に恩賞として地頭職を与えました。これによって武士には「一所懸命」という概念が生まれたのです。

 しかし、頼朝がいない世界では、武士は土地と結びつく機会を得られず、戦国時代のような強力な武士集団は生まれなかったかもしれません。その代わりに、地方では国内外の交易で財力を蓄えた商人や海運業者が経済力を足場にして力を持ち、楠木正成名和長年のような「悪党」と呼ばれる人たちが平氏政権に対抗する勢力として登場したのかもしれません。はたして、「悪党」は戦国時代のような群雄割拠の時代を創出することができたでしょうか?

 

 このように、源頼朝が挙兵に失敗し命を落としてしまうと日本の歴史は大きく変わってしまうのです。その日本史の流れを今日の歴史へ向かわせたのが、梶原景時の「有情の慮り」でした。つまり、景時が洞窟に隠れていた頼朝を見つけたにもかかわらず、何らかの思惑があって頼朝を助けたことが日本の歴史を変えたと言っても過言ではないのです。

 この出来事は、明智光秀が起こした本能寺の変に匹敵するような歴史的事件だと私は思います。光秀は主君織田信長の命を奪ったことで、その後の日本の歴史に大きな影響を与えました。信長による天下統一の夢は消え去り、戦国時代の末期は豊臣と徳川が覇権を争う時代となったのです。

 一方、梶原景時源頼朝の命を救ったことで平氏滅亡のきっかけを作りました。その後の日本は頼朝が鎌倉幕府を開いたことで、武家が政権を担う時代が始まったのです。鎌倉、室町、戦国、江戸とおよそ700年もの間、日本では武家政治の時代が続くのですが、その最初の小さな羽ばたきは、梶原景時が杉山の洞窟でとった行動だったのです。

 

 

 

創業は江戸時代 多摩の酒蔵で癒される

 ふと思いついて、蔵元を訪ねてみることにしました。蔵元と言えば、秋田や山形や新潟など北国の米どころにあると思いがちですが、実は、東京近郊にも歴史ある蔵元がいくつもあるのです。

 今回、私が訪れたのは福生にある蔵元で、多摩の銘酒「多摩自慢」を製造販売している石川酒造です。最寄駅は、JR青梅線拝島駅で新宿からの所要時間は約40分です。ここまでくると、もはや都会の喧騒はありません。奥多摩の山並みが間近に迫ってきます。さりとて鄙びた場所と言う訳ではなく、郊外のベッドタウンという感じのする場所です。

 拝島駅から歩くこと約15分、静かな住宅街の中に異質な空間が現れました。長く続く白壁の土蔵に、ひっそりと木立の影が落ちています。まるで、江戸時代にタイムスリップしたかのようなたたずまいをしている建物が石川酒造です。

 がっしりとした趣の門をくぐると、正面の奥まった場所に白壁の酒蔵が鎮座しています。入って左手には大きな二本の巨木がそびえており、その根元には弁天様と大黒様を祀った小さな祠があります。蔵元では弁天様と大黒様を夫婦の神様として祀ってあり、この祠は縁結びのパワースポットでもあるそうです。そして、祠の脇からは酒造りには欠かせない清らかな水が、深さ150メートルの地下から汲み上げられています。この場所に立っただけで、何かこの酒蔵に宿る不思議なパワーを全身に浴びているような気がしてきます。

 

 さて、私が石川酒造を訪れたのは毎月第四土曜日に開催されている「感謝デー」でした。この日は特別に酒蔵見学ができるのです。ただし、参加するには事前予約が必要ですので詳しくは石川酒造にお問い合わせください。

 酒蔵を案内してくれるのは、石川酒造で働いていらっしゃる素敵なお嬢さん。普段は日本酒のラベルをデザインする仕事をされているそうです。予定の時間になると酒蔵の扉が開かれて見学ツアーの始まりです。

 酒蔵の内部はほの暗く、気温は年間を通じて約15度に保たれひんやりとしています。酒蔵は2階建てになっており1階には緑色のタンクが林立しています。このタンクの中に、できたての日本酒が満たされ熟成され出荷の時を待っているのです。2階にはお酒を発酵させるための麹室があるそうです。私たち見学者は、1階で案内役のお嬢さんから日本酒造りにまつわる興味深い話をたくさん聞かせていただきました。もちろんお酒の試飲もあります。美味しいですよ。

 

 ところで、歴史を楽しむ者としては、お酒を楽しむばかりではなく歴史にまつわる話をしなければなりません。石川酒造の創業は文久三年(1863)ということですから時代は幕末です。何故、多摩地方での酒造りが幕末に始まったのでしょうか?その理由は、多摩地方が武蔵野台地の上にあるという地理的要因があるのです。

 ご存知の通り、台地の上は水が乏しく稲作には向いていません。江戸は武蔵野台地が海に突き出た先端に築かれた江戸城を中心に作られた城下町であり、やはり飲み水に適した水源に乏しい場所でした。徳川家康は江戸に城下町を造るに当たり、まず飲料水を確保するための用水を通すことを命じました。その玉川上水が完成したのが、承応二年(1653)のことです。

 玉川上水を流れる水は江戸城下で暮らす人々の飲料水にすることが主目的でしたが、武蔵野台地で暮らす人々の生活を潤す水でもありました。玉川上水は、多摩地方の村々に分水され徐々に乾いた台地を潤していきました。やがて、農民たちは稲作を始め人々はお米のご飯をたべることができるようになったのです。時が進むにつれて、稲作は盛んになりました。そして、余剰になったお米で日本酒が造られるようになったのが幕末の頃であったというわけです。

 すると、新たな疑問がわいてきました。幕末になるまで江戸市中の人々は一体どこで造られたお酒を飲んでいたのでしょうか?調べてみると、江戸で飲まれていた日本酒は関西から運ばれてきたものでした。江戸初期から中期にかけては、京都や伏見で造られた上質の日本酒「下り酒」が人気を博していたのです。

 その後、江戸は大都市となり日本酒の需要も一層増えたのです。大量に消費される日本酒を関西方面から江戸へ運ぶには、酒樽を船に乗せて海上輸送する必要がありました。そこで地の利を活かしたのが灘の酒、すなわち現在の神戸港付近で造られた日本酒です。こうして、江戸中期以降は「灘の酒」が江戸市中で好まれる日本酒になったのです。

 

 さて、次は日本の歴史全体に目を向けてみましょう。石川酒造が創業を始めた文久三年(1863)は、幕末の歴史に大きな影響を与える出来事が起きた年でもあります。この年より3年前(1860)に「桜田門外の変」が起きました。江戸城の目と鼻の先で大老井伊直弼が水戸浪士によって謀殺されたのです。この事件は、徳川幕府の力が弱体化したことを日本中に知らしめました。

 窮地に陥った幕府は、朝廷との連携を取る「公武合体策」によって局面を打開しようと模索しました。そして、文久三年に十四代将軍徳川家茂が上洛したのです。幕府は将軍を警固するため浪士を募集し浪士組を結成しました。浪士組は将軍に先立って上洛し「新選組」と名を改めたのです。

 新選組の局長近藤勇や副長土方歳三は多摩地方で生まれ育った若者でした。彼らは、幕末の激動の中に身を投じていったのです。新選組の活躍は、幕府と尊王攘夷派の対立を激化させ、やがてその流れが倒幕運動へと発展し、日本は明治維新を迎えることになったのです。

 

 それにしても、激動の時代にあっても人々は酒を飲んだのですね。いや、むしろ激動の時代であったからこそ、人は一杯の酒に安らぎを求めたのかもしれせん。時代は変わっても、それは同じことです。コロナ禍、ロシアによるウクライナ侵攻など私たちが生きている現代は混迷の時代であり、いつまでたっても明るい兆しは見えてきません。そのような時代であればこそ、私たちもまたひと時の安らぎや癒しを必要としているのです。

 お酒が苦手という方でも、長い歴史と自然が育んできた酒蔵を訪れてみれば、きっと癒しを感じることでしょう。併設されたイタリアンレストランでは美味しい食事を楽しむこともできます。レストランも予約制ですので、事前の確認をお願いします。皆さんも、都心からほど近い多摩の酒蔵を訪ねてみてはいかがでしょうか。

 

 

 

  

江戸の行楽地「深川」を散歩する

 知り合いの人に誘われて阪急交通社が企画した「深川史跡巡り」に参加しました。江戸時代の面影が残る深川の町をガイドさんの案内で散策する街歩きです。

 案内役は、自称「江戸町人」の素敵な女性ガイドさんです。ガイドさんの豊富な知識とわかりやすい説明を聞きながら、深川の町に残る江戸の痕跡を探して歩く旅は楽しいひと時となりました。当然のことながらコロナ感染防止対策を万全に整えての企画です。

 さて、ガイドさんからお聞きした説明をもとにして、江戸時代の深川の様子を思い描いてみましょう。

 江戸時代の初期、深川一帯は江戸湾に接しており中洲や小島が点在する場所だったそうです。そのような深川が発展するきっかけとなった場所が永代島と呼ばれていた小島でした。寛永四年(1627)に菅原道真の末裔といわれる長盛法印が神託を受け、この島に八幡神を祀ったのです。

 やがて、深川一帯は干拓や埋め立てによって開発が進み永代島も陸地となりました。八幡神を祀った社は、富岡八幡宮別当寺(神社を管理する寺院)の永代寺へと発展しその門前には茶店や商店はもちろんのこと非公認の遊郭である「岡場所」が建ち並ぶようになりました。その賑やかさを目当てにして、江戸市中から大勢の人々が深川を訪れるようになり、深川は江戸の一大行楽地となったということです。

 深川が、発展した理由は行楽地だけではありません。もともと海辺だった深川の町中には縦横無尽に水路や運河が通っていました。それらは、江戸湾と江戸市中をつなぐ重要な交通網だったのです。そのため、深川は江戸の物流拠点となりました。特に栄えたのが材木問屋でした。当時の江戸は、建設ラッシュの真っ最中であったので材木の需要は無尽蔵にあり多くの材木問屋が深川に軒を並べたのです。その中には豪商として有名な紀伊国屋文左衛門もいたということです。

 また、深川には数多くの寺院が集まりました。そのきっかけとなったのが明暦三年(1657)に江戸を襲った「明暦の大火」です。この大火の後、「霊巌寺」などの大寺院が深川へ移転してきたのです。現在も、深川には江戸時代から続く歴史ある寺院が数多く残っています。今回の街歩きでは、そのようなお寺を訪れ閻魔大王や巨大なお地蔵さまに出会うことができました。

 深川は、行楽地、物流拠点、寺院など様々な表情を持った町でした。さらに、深川は江戸時代の文化人たちを生み出した町でもありました。「南総里見八犬伝」の作者である滝沢馬琴は深川の生まれです。また、松尾芭蕉は、奥の細道へ旅立つ前に深川へ移り住んでいました。

 元禄時代芭蕉は江戸日本橋に居を構え俳句の世界で隆盛を極めていました。その当時の江戸では俳句の愛好者が集まり句会を催すことが流行していました。参加した人々は芭蕉のような師匠から自作の俳句に点数をつけてもらい、中にはその点数の優劣にお金を賭ける不届き者をいたのです。

 芭蕉は句会に参加する顧客から謝礼を受け取っていました。江戸で屈指の俳句師である芭蕉ですから多額の謝礼を貰うことが可能でした。もしも、芭蕉がその生活に満足していれば、「奥の細道」は誕生しなかったでしょう。

 しかし、芭蕉は当時の江戸の俳句に危機感を抱いていたのです。「このままでは、俳句は単なる庶民の道楽で終わってしまう。しかし、自分はそれを見過ごすことはできない。ここは、なんとしてでも俳句を芸術の域に高めるため自分が俳句の道を究めるしかない。」このような思いが、芭蕉の胸の内にはあったのです。

 そこで、芭蕉は富も名誉も捨て、俳句の道を究めるために奥の細道へ旅立ったのです。その旅の出発点となったのが深川でした。今回の街歩きで私が最も心を惹かれたのは、このような芭蕉の生き様でした。なんと高尚な生き様でしょう。人間かくありたいものです。

 さて、最後に現在の深川にも触れておきましょう。江戸時代に繁栄を極めた材木問屋はすっかり影をひそめ、お洒落なカフェへと変貌を遂げていました。なんでも、材木倉庫は天井が高くコーヒーを焙煎するのに都合がよく、ゆったりとした空間でコーヒーを楽しむのに最適だそうです。最近では、深川でカフェ巡りをする人たちも増えているそうです。

 深川の史跡を巡る街歩きは、江戸時代の歴史に触れることはもちろんのこと、江戸時代から現代へ続く歴史の営みを知る旅となりました。

 

今回参考にさせて頂いた資料は以下の通りです。

このまちアーカイブス(三井住友トラスト不動産) 東京都 深川・城東 編

おくのほそ道を旅しよう 田辺聖子 角川ソフィア文庫

 

 

歴史上初の武家政権を樹立したのは平清盛?それとも源頼朝?

◆武士の時代の幕開け

 鎌倉時代に書かれた歴史書愚管抄」のなかで著者の慈円は次のように述べています。「保元元年七月二日鳥羽院うせさせ給いて後、日本国の乱逆と云うことは起りて後、武者の世になりにけるなり。

 慈円は「鳥羽上皇がお亡くなりになってしまったあと日本各地で乱逆が起こり、世の中は武士の時代になってしまった」と嘆いているのです。この乱逆の発端となったのが保元の乱でした。保元の乱とは、保元元年(1156)に鳥羽法皇が死去したことをきっかけに、後白河天皇崇徳上皇の権力争いが激化し勃発した戦いです。天皇側には平清盛源義朝などの有力な武士が味方に付き、上皇側を圧倒して勝利を得ました。論功行賞で平清盛は播磨守に任じられ、源義朝は左馬頭に任じられました。また義朝の息子頼朝は12歳で六位蔵人に任じられ将来の出世が約束された少年貴公子となったのです。まさに源氏や平氏の武力が時代の流れを大きく動かしたのです。

 しかしながら、保元の乱の後に最も大きな権力を掴んだのは武士ではなく、上級貴族の藤原通憲でした。通憲は一般的には信西と呼ばれているので、本文でも今後は信西という呼び名を使います。

 後白河天皇の政権で中枢に就いた信西は、次々と新たな政策を打ち出していきます。平安時代末期は荘園の時代と呼ぶこともできるように、上級貴族や大寺院は膨大な荘園を所有していました。信西はこの荘園の増大化傾向に一定の歯止めをかけるとともに、公領を整備して王朝国家を支える体制を新たに作り出したのです。

 しかし、信西が権力を独占し急速な改革を行ったために、信西に対して反感を抱く貴族もいました。後白河が二条天皇に譲位すると天皇の周囲には反信西の一派が集まり、新たな権力争いの火種が生まれたのです。

 反信西派のリーダーとなったのが藤原信頼でした。信頼は保元の乱の後に急速に台頭してきた貴族です。信頼は源義朝と手を結び、信西を権力の座から追い落とそうと考えました。他方、信西平清盛と結んで信頼・義朝の勢力に対抗しました。こうして両派の対立は緊迫の度合いを高めていったのです。

 

平治の乱 

 平治元年(1159)十二月、藤原信頼源義朝の軍勢は信西を急襲しました。平清盛が一族を引き連れ熊野参詣に出かけ京都を留守した隙をついた奇襲攻撃でした。信頼と義朝は信西を追い込み自害させました。また後白河法皇も幽閉され、信頼と義朝は権力を奪取することに成功したのです。

 しかし、信頼と義朝の栄光は長続きしませんでした。紀州で都の政変を知った平清盛が、紀州や伊賀の軍勢を率いて京都へ戻ってきたのです。帰京した清盛は、後白河法皇二条天皇を自分の陣営に取り込むことに成功し官軍となりました。

 一方、信頼と義朝は、信西を急遽襲撃したので大軍勢を集める時間がなく、軍勢の数では清盛方に劣っていたのです。自分たちの状況が不利になったことを悟った藤原信頼は降伏しましたが、斬首されました。また、都の戦いで敗れた源義朝は、再起を図ろうと東国をめざして逃亡していましたが、味方に裏切られ殺されました。父の一行とはぐれた頼朝は、平氏方に捕らえられましたが清盛の継母である池禅尼の嘆願によって命を救われ伊豆へ流されたのです。

 

平清盛の政権

 平治の乱に勝利した平清盛は、後白河派と二条派の間で巧妙に立ち回り貴族としての地位を上げていきました。そして仁安二年(1167)に清盛は従一位太政大臣になったのです。平清盛は、武家貴族として最初の政権を樹立したのです。

 では、清盛の政権とはどのようなものであったのでしょうか?清盛は福原に遷都し日宋貿易に積極的に取り組みました。しかし、外交や交易は、遣隋使や遣唐使など以前から朝廷によって行われていましたので、これをもって武家政権の特徴であるとは言えません。

 清盛政権の一番の特徴は、清盛の巨大な権力を背景にして平氏一門が繁栄する社会をもたらしたということです。

 清盛の息子である重盛は、東海、東山、山陽、南海の賊徒の追討権、全国的な軍事警察権が与えられました。軍事部門だけではなく、平氏一門は経済的にも大繁栄していました。全盛期の平氏一門は25の知行国をもっていました。知行国とは、上級貴族のみに与えられた特権で、一国の支配権を持ちその国からの収益を取得できることができました。平安時代末期には朝廷の財政が悪化し上級貴族に俸禄が支給できなくなったので、このような制度がつくられたのです。

 ところで、源頼朝が伊豆へ流されていた時の知行国主は源頼政でした。頼政平治の乱では平清盛に味方したので、源氏であってもその地位は守られていたのです。頼政伊豆国の受領に長男の仲綱を任命しました。国主と受領は在京しており現地を管理する目代(代官)には仲綱の息子の有綱が派遣されていました。そして、目代の下で仕事をする現地の役人たちが在庁官人と呼ばれていました。頼朝を婿に迎えた北条時政は、この在庁官人の中のひとりであったのです。頼政という源氏の知行国主がいたおかげで、頼朝の流人生活は案外平穏で自由な生活であったのです。

 ところが、治承四年(1180)四月、後白河院の第二皇子である以仁王平氏追討の令旨を下しました。源頼政以仁王に従って挙兵しましたが、清盛の軍勢に敗れました。その結果、伊豆の知行国主は平時忠が就任し、受領は時忠の養子の時兼が任命され、目代には山木兼隆が指名されました。以仁王の反乱が失敗したことで伊豆国の情勢は大きく様変わりし、それによって源頼朝北条時政の平穏な生活は一変したのです。

 

 知行国(公領)における地位をまとめると、次のようになります。

 知行国主→受領→目代→在庁官人

 

 また、荘園(私有地)にける地位は次の通りです。

 本家→領家→預所下司

 

 平安時代以降、日本の社会の基盤を支えていたのは、このような公領や荘園などの土地制度でした。前述したように、土地制度は何層にも階層化され上流貴族や大寺院だけではなく、中流貴族や地方の武士たちも関わる巨大なシステムだったのです。

 平清盛は、その既存のシステムを利用して平氏一門が繁栄する社会を創り出したのです。平氏一門の中でも、上級貴族の地位を得た者は知行国主になっていました。そうでない中流貴族は、領家や預所という職を得て公領や荘園から実質的な利益を得ていたのです。平氏一門が関わる荘園は全国に五百箇所余りあったということです。

 平安時代知行国や荘園の職に任じられるためには、朝廷から貴族としての官位を授けられることが必要でした。たえば、知行国の受領の職に任じられるためには四位、五位という中流貴族としての官位が必要です。

 すなわち、清盛の政権は、皇室や摂関家と婚姻によって関係を深め、貴族社会の制度に影響を及ぼすことで平氏一門の官位を上げ、一門の人々や媚びへつらって清盛に接近してくる者を知行国や荘園の職に就けることで支配体制を確立していたのです。その意味で、清盛の政権は「平氏平氏による平氏の為の政権」であったと言えるのです。

 時々、源平合戦平氏が敗れた原因は、「武家である平氏が貴族化したために軟弱になったからだ」という説を目にすることがあります。私たちが貴族に対して持つイメージが、源氏物語で出てくる光源氏のようなものだからでしょうか。しかし、平氏はもともと武芸に優れた下級貴族でした。平氏武家貴族として勢力を拡大してきたのです。平氏は、源頼朝が挙兵した当時でも日本で最強の武家集団であったのです。

 ですから、「貴族化=弱体化」ではありません。平氏一門が源頼朝に敗れたのは、平氏一門だけが繁栄する社会となったために、その恩恵を受けることのできないアンチ平氏の人々の不満が諸国に蔓延し、アンチ平氏の怒りが最終的に源頼朝のもとに結集したからなのです。

  

大庭景親の下向と頼朝の挙兵

 平清盛は、以仁王の反乱に加担した源頼政に繋がりのある残党を討伐するため大庭景親を東国へ派遣しました。大庭景親は、「東国ノ御後見」という特別な地位を清盛から与えられ相模国にある自分の領地へ戻ったのです。景親は、これまで相模国で軍事・警察機能を司っていた三浦氏や中村氏からその権力を奪い取りました。こうした景親の活動が源頼朝に危機意識をもたらし、同時にアンチ平氏の勢力を伊豆国相模国に生じさせたのです。

 治承四年(1180)八月、源頼朝は伊豆で挙兵しました。石橋山の合戦では大庭景親の軍勢に敗れましたが、その後海路房総半島へ渡り、上総広常など坂東武者の支援を得て鎌倉へ入り、富士川の合戦で平維盛が率いる平氏の軍勢を破り、東国から平氏の勢力を一掃することに成功しました。

 しかし、この時点で頼朝は依然として謀反人のままでした。かつて、平治の乱に敗れ伊豆へ流された罪はまだ解かれていなかったのです。頼朝に転機が訪れたのは、富士川合戦の勝利から三年後のことでした。

 その三年間、権力の座に座っていたのは木曽義仲でした。義仲は平氏勢力を京都から一掃することには成功していましたが、その後は評判を落としていました。義仲の軍勢は都やその周辺でしばしば乱暴狼藉を働いていたので朝廷や貴族から不評をかっていました。また、義仲は皇位継承にも口を挟んでいたので、後白河院からも嫌悪されていました。後白河院の信頼は頼朝の方へ向かっていたのです。

 そこで、後白河院は、義仲が平氏討伐のため西国へ出陣した隙に、頼朝と交渉を始めたのです。この交渉の結果、頼朝は「永寿二年十月宣旨」によって謀反人の立場を脱し、名誉を回復したのです。

 頼朝は、東海道東山道国衙領、荘園を朝廷に返還することを約束しました。それによって頼朝はようやく謀反人の罪から解放されたのです。ですが、せっかく平氏から奪い取った領地を全て朝廷に返還してしまったのでは、頼朝には何のメリットもありません。そこで、頼朝は、領地を所有することができなくても、土地を支配する方法を取ることにしたのです。その方法とは、東海道東山道の年貢を納める全責任は頼朝が負い、従わない者は頼朝が罰するという権利を得ることでした。

 「永寿二年十月宣旨」によって、頼朝は東海道東山道を実質的支配する権利を獲得したのです。そして、富士川合戦の戦果として頼朝の軍勢が略奪した平氏方の領地の支配権が、頼朝にあることを朝廷は公式に認めたことになりました。

 

源頼朝の政権

 文治元年(1185)三月、平氏は壇ノ浦の合戦で源義経の軍勢に敗れついに滅亡しました。戦功を挙げた義経後白河院と接近し、頼朝と対立するようになりました。後白河院は、頼朝の勢力が巨大化することを恐れ、義経の軍事力を利用して頼朝の勢力拡大に一定の歯止めをかけようとしたのです。しかし、義経は京都周辺や西国において味方の軍勢を集めることができず、京都を逃れ奥州藤原氏を頼ることになったのです。

 義経が失脚したことで、頼朝は後白河院に圧力をかけ、文治勅許を引き出したのです。文治勅許によって、頼朝は守護・地頭を任命する権利を得ることができました。この権利を得たことが、頼朝政権の大きな特徴となるのです。

 守護は一国につき一人が任命され軍事・警察権を司っていました。地頭は、年貢の徴収・納入や土地の管理、治安維持を職務としていました。頼朝は平氏方の荘園を没収し戦功のあった武士たちに恩賞として荘園の地頭職を与えることにしたのです。

 実は、頼朝は富士川合戦の直後から恩賞として地頭職を与えていたのですが、前述したように富士川合戦時の頼朝はまだ謀反人であり、頼朝が任命した地頭は非合法のものでした。それが、文治勅許によって地頭職は合法の立場となり、伊豆での挙兵から富士川合戦に至る戦いで戦功を挙げた武士たちの恩賞も公式に認められたのです。

 源頼朝は、荘園制度の下司に相当する職を地頭として味方の武士に与えたのです。頼朝も、清盛と同じように荘園制度を利用して政権を作りました。ただし、清盛のやり方と大きく異なる点があります。それは、地頭職を任命する権限を有するのが頼朝ただ一人であるということです。前述したように、平安時代において荘園の職に就くには朝廷や貴族社会の制度に従う必要がありました。この制度が存在していては、武士が恩賞として荘園の職に就くためには朝廷から官位を授かるか、荘園領主からの任命を得る必要があったのです。

 しかし、頼朝は地頭職の任命権を独占することで、恩賞を貴族制度から切り離すことに成功したのです。そうすることで、東国武士が官位を授けられ院や朝廷と直接結びつくことを防ぎました。平氏を滅亡させた義経後白河院と接近し、頼朝の対抗勢力になる恐れがありました。頼朝はそのようなリスクを排除するため、東国武士との間に直接の主従関係を結び、強力な軍事勢力を確保し続けるシステムを創り上げたのです。

 頼朝は、戦功を挙げた武士に恩賞として地頭職を与えました。武士は土地を所有したのではなく、その土地を管理し徴税・納税する職を得たのです。武士は地頭として土地から得られる利益(得分)を自分のものにすることができ、実質的に土地を支配する権利を得たのです。武士は、頼朝への奉公を尽くすことで、地頭職を嫡子へ相続することもできたのです。それが、「一所懸命」という概念です。

 頼朝は、地頭職を任命することによって武士と主従関係を結び、御恩と奉公という武家社会の基本制度を成立させたのです。こうしてみると、頼朝が樹立した政権は、「武士の武士による武士の為の政権」ということができるでしょう。

 頼朝が、武家政権を樹立したことによって荘園制度にも大きな変化が生じました。それまでの荘園領主である本家や領家は、京都に居ながら遠隔地である地方の荘園に対して強力な支配力を持っていました。その支配力の源泉は在地代官の人事権を持っていることにありました。しかし、その人事権は頼朝に奪われ、やがて鎌倉幕府へと引き継がれていきます。この変化は、長い年月をかけて荘園制度を徐々に衰退に向かわせることになり、戦国時代には荘園制度は消滅してしまうのです。

 

今回参考にした文献

日本社会の歴史(中) 網野善彦 岩波新書

頼朝と義時 呉座勇一 講談社現代新書

荘園 伊藤俊一 中公新書

源氏と坂東武士 野口実 吉川弘文館

 

 

頼朝の実像  歴史的合戦の勝利はなくとも政治家として武家の世を開いた武将   

◆頼朝の人気は?

 源頼朝平氏を倒して鎌倉幕府を開き、武家政権の礎を築き上げた英雄です。頼朝は日本人の誰もが知っている歴史上の偉大な人物ですが、戦国時代の英雄である織田信長豊臣秀吉に比べると人気の点ではかなり劣っているような気がします。

 頼朝の人気が低いのは、まず第一に歴史上有名な合戦で勝利を挙げたという実績がないからだと思います。織田信長は「桶狭間の合戦」や「長篠の合戦」で勝利し天下人となりました。しかし、明智光秀が起こした謀反「本能寺の変」によって命を落とします。本能寺の変を知った豊臣秀吉は、主君信長の仇を討つため奇跡と呼ばれる「中国大返し」を行いその後の「山崎の合戦」で明智光秀を倒し天下取りへの名乗りを挙げました。そして、徳川家康は、天下分け目の「関ヶ原の合戦」に勝利しその後約260年間続く徳川時代を創り出したのです。このように、歴史上の英雄たちは、彼らの歴史を代表するような合戦において勝利を挙げてきたのです。

 では、源頼朝には誰もが知るような大きな合戦で勝利した実績があるのでしょうか?武士の時代を切り開いた源平合戦の歴史を辿りながら、頼朝の戦績を見ていきましょう。

 

◆頼朝の戦いの歴史

 治承四年(1180)八月十七日、頼朝は打倒平氏の戦いを始め、緒戦において伊豆目代山木兼隆を討ち取ることに成功しました。しかし、その戦いの日は三島神社の祭礼の夜にあたり、多くの家来たちが外出して警備が手薄になっていた目代の館を襲撃したという小規模な戦いでした。その後、頼朝は石橋山の合戦で大庭景親の軍勢に敗れ、絶対絶命の危機に陥りましたが、敵方の梶原景時の「有情之慮」によって命を救われ舟で房総半島へ逃れることができたのです。

 房総半島にたどり着いた頼朝は、上総広常の支援を受けてようやく態勢を整えることができました。房総半島では、上総広常や千葉常胤などの坂東武者が平氏平氏家人から圧迫を受け、彼らがもともと持っていた既得権を失おうとしていました。そのため、上総氏や千葉氏は頼朝が挙兵しなくとも平氏と戦う決意をしていたのです。そこへ、平氏との戦いを始めた頼朝が現れたので、彼らは頼朝を受け入れることにしたのです。

 彼らが頼朝を受け入れた最大の要因は、源頼朝がかつて武家の棟梁として坂東に君臨した源頼信源義家など河内源氏嫡流であり、その血筋が反平氏の象徴としてふさわしい旗印になったからなのです。頼朝は、以仁王の令旨を掲げ東国の武士たちに打倒平氏のため頼朝のもとへ集まるように呼びかけたました。やがて、反平氏の坂東武者たちが次第に頼朝のもとに集結してきました。武蔵国では当初平氏方についていた畠山重忠河越重頼なども、頼朝軍が優勢になってきたのを見て頼朝側へ寝返りしてきました。いつのまにか、頼朝には数万騎の味方がついていました。大軍勢を従えた頼朝は、平氏方を圧倒して鎌倉入りを果たすことができたのです。

 一方、福原にいた平清盛は、頼朝挙兵の知らせを受けるとすぐさま、反乱を鎮圧しようと追討軍を東国へ送り込みます。平氏の軍勢と頼朝の軍勢は、駿河富士川で対峙しました。ところが、富士川にたどりついた平氏の軍勢はわずか4千騎でした。ちょうどそのころ飢饉が発生し兵糧が不足していたため、東海道を進軍する平氏の追討軍に加わる武士が少なかったのです。数で劣る平氏軍は、数万騎の頼朝軍の敵ではありませんでした。さらに、駿河にいた平氏の味方は、追討軍が到着する前に甲斐源氏武田信義の軍勢と戦い、鉢田山の合戦で大敗北を喫していました。そのため、平氏方の軍勢は戦意に乏しかったのです。富士川の合戦は、本格的な合戦が起きることなく、平氏軍が自滅的に潰走して頼朝軍の勝利に終わったのです。また、石橋山の合戦で頼朝を破った大庭景親と伊東佑親は捕えられ処刑されました。

 このように、伊豆での挙兵から鎌倉入りするまでの間、頼朝は自分自身が軍事的なカリスマ性を発揮して戦いに勝利するという機会を得ることができませんでした。大合戦に勝利するという華々しい出来事はありませんでしたが、源頼朝は東国から平氏の勢力を一掃することに成功したのです。頼朝は、平氏から奪った所領を手柄を立てた坂東武者に与えることで、主従関係を結び東国を支配する体制作りに着手したのです。

 

◆ライバルの出現で頼朝の戦績は霞むことに

 富士川合戦で大敗した平清盛は、態勢を挽回すべく陣頭指揮をとり畿内では反乱軍の鎮圧に一定の成果を上げていましたが、治承五年(1181)に病に倒れ急死してしまいました。源頼朝は、ついに宿敵平清盛を武力によって倒す機会を得ることができませんでした。さらに、京都では武家の棟梁としての頼朝の立場を揺るがすような事態が起こりました。

 頼朝の従弟にあたる木曽義仲北陸地方の軍勢を集め平氏との戦いを展開していたのですが、寿永二年(1183)五月倶利伽羅峠の合戦で平氏軍に大勝しその勢いで京都へ攻め込む姿勢を見せたのです。窮地に陥った平氏一門は、京都を捨て西国へ逃げ去りました。世に言う平氏都落ちです。木曽義仲という新たなライバルが出現したことで、頼朝の軍事的な功績は一層霞んでしまいました。

 京都を手中に収めた木曽義仲は、従五位下伊予守に任じらました。伊予守は受領職の最高峰で源氏では源頼義が任官した官職であり、河内源氏にとっては特別な地位なのです。その伊予守に木曽義仲が任官したことは、朝廷が義仲を武家の棟梁であると認めたことになるのです。

 しかし、木曽義仲皇位継承者を巡り後白河法皇と対立し立場を悪化させました。さらに、義仲の率いた軍勢は、食糧確保のため京都やその周辺で乱暴狼藉を働き評判を落としました。義仲は、軍兵たちの略奪行為を制御できなかったので、朝廷からの支持を失ってしまったのです。

 失地回復を目指した木曽義仲は、平氏を討伐するため西国へ出陣しましたが、逆に平氏からの返り討ちを受け、敗北を喫して京都へ戻りました。ちょうどそのころ後白河法皇は、源頼朝に上洛を要請していました。そこで、頼朝は、弟の源義経に軍勢を与え上洛させ、続けて源範頼も援軍として派遣しました。義経軍と範頼軍は木曽義仲の軍勢を挟撃し、木曽義仲は近江の粟津の合戦で討ち死にしました。

 さらに、義経は西国へ進軍しました。戦闘指揮官として優れた才能を持つ源義経は、一の谷の合戦、屋島の合戦で次々に平氏を破り、ついに壇ノ浦の合戦で平氏を滅亡させたのです。

 

源平合戦で英雄になったのは義経

 ここまで、源平合戦の流れを非常に大雑把に急ぎ足で見てきました。治承四年(1180)に平氏打倒のため挙兵したのは源頼朝でしたが、文治元年(1185)に壇ノ浦の合戦で平氏を滅亡させ源平合戦終結させたのは源義経でした。名声を上げた義経後白河法皇の厚い信任を受けました。しかし、そのせいで義経は兄頼朝との関係が悪化しついには頼朝から敵視されて滅ぼされてしまうのです。

 このような歴史の流れを追いかけていくうちに、現代の私たちは源義経を英雄視する一方で、源頼朝義経を死に追いやった冷酷な人物と評するようになったのです。頼朝は、安全な鎌倉で指揮を執り、危険な戦場へは弟たちを赴かせたという印象も持ってしまいます。

 しかし、それは歴史の一面しか見ていないように私には思えます。私たちは源頼朝の実像を見誤っているのではないでしょうか?

 

◆頼朝は優れた統率者

 歴史の舞台に登場したころの源頼朝は、確かに頼りない存在でした。平治の乱に敗れ死刑にされるところを、平清盛の継母である池禅尼の助命嘆願によって命を救われ罪人として伊豆に流されていたのです。そのころの頼朝には、地位も名誉も権力もありませんでした。頼朝にあったのは河内源氏嫡流という貴種としての血筋だけでした。

 ところが、平清盛が進めた政策は平氏だけが繁栄する社会を創り出してしまったので、貴族や平氏とは利害の反する武士たちの間で反平氏の機運がたかまり、頼朝はその血筋のおかげで東国の武士たちに担ぎ上げられ、打倒平氏の戦いに身を投じることになりました。伊豆で挙兵した当初の頼朝は、まだ担がれた御神輿に過ぎなかったと思います。

 しかし、鎌倉入りを果たした頼朝は変貌を遂げていきます。頼朝のもとには数万の大軍勢が集まっていました。ですが、その軍勢はもともと上総広常が率いていた軍勢が中心になっています。言わば、頼朝は他人の軍勢を借りているに過ぎないのです。また、東国武士の多くは打倒平氏という目的だけで集結してきており、同床異夢の武士たちも多数いたのです。

 その寄せ集めとも言うべき大軍勢を、頼朝は巧みに統率していく術を身に着けていくのです。まず、頼朝が行ったことは挙兵当初敵方についた首藤経俊を助命したことです。首藤氏は河内源氏の代々の重臣として仕えてきた武士であり、頼朝が最も信頼している武士でした。ところが、首藤経俊は頼朝の挙兵の呼びかけを拒否し、大庭景親の味方につき石橋山の合戦で頼朝と戦ったのです。

 鎌倉入りを果たした頼朝の前に、首藤経俊は引き出されましたが、頼朝は経俊を処罰することなく許しました。頼朝が裏切り者を許したという寛大な措置は、東国武士たちの心をとらえたのです。これ以降、当初は平氏方についていた武士たちも頼朝のもとへ続々と集まるようになったのです。また、頼朝は武士たちに私心を捨て、打倒平氏のため一致団結するように呼びかけました。自らが私心を捨てた頼朝の言葉は東国武士たちの心に強く響いたのです。

 

◆頼朝は武家政権の基礎を一人で創り上げた 

 源頼朝は、河内源氏にとって聖地とも言うべき鎌倉に本拠地を定めたました。頼朝が鎌倉から動かなかったのは、決して戦場へ出ることを恐れたためではありません。頼朝には鎌倉でなすべきことがあったのです。それは、平氏勢力を一掃しせっかく手に入れた東国を自らが支配する王国とするための土台作りでした。

  頼朝のもとには数万の軍勢が集まっていましたが、それは東国の有力な武士が率いてきた軍勢です。頼朝は、彼らの直接の主人ではありませんでした。頼朝は、東国の王者となるために、大軍勢を直接支配するためのシステムを作る必要があったのです。そのシステムこそが、新恩給与本領安堵です。

 頼朝は、武功を立てた武士に恩賞として所領を与えること(新恩給与)で直接主従関係を結び東国武士の主人となることができたのです。頼朝と主従関係を結んだ武士は頼朝に奉公することで所領を子孫に相続すること(本領安堵)が許されました。頼朝は新恩給与本領安堵をおこなったことで、東国武士団を自らの軍勢とすることに成功したのです。そのことは、永寿二年に頼朝が上総広常を粛清した時に、東国武士団の間に動揺が起きなかったことによっても証明されています。この時、頼朝はもともとは上総広常が率いていた2万の軍勢を直接支配しており、もはや広常を必要としていなかったのです。

 頼朝は、平氏が支配していた所領を奪い取ったのですが、これを私的に分配したのでは略奪者と同じことになってしまいます。そこで、頼朝は朝廷と外交交渉を展開し、東国を支配するシステムの根幹である新恩給与本領安堵を頼朝独自の権利として認めさせることに奔走したのです。

 まず、頼朝は朝廷から寿永二年十月宣旨を出させることに成功しました。頼朝は東海道東山道国衙領と荘園を朝廷に全て返還すると約束したのです。頼朝は、何故せっかく手に入れた土地を全て朝廷に返還したのでしょうか?それは、頼朝が罪人であることを許され地位と名誉を回復するための手段でした。

 しかし、土地を全て返還してしまったままでは、頼朝は打倒平氏のために戦ってくれた東国武士たちに対して恩賞を与えることができません。そこで、頼朝は東国の国衙領や荘園から年貢をとって朝廷へ納める責任は全て頼朝が負うという付帯条項をつけたのです。この付帯条項のおかげで頼朝は、実質的に東国の土地を全て支配する権利を手に入れたのです。頼朝は、この「年貢を徴収する権利」を武士たちに分け与え戦功の恩賞としたのです。

 さらに、頼朝は文治元年(1185)に平氏が滅亡すると文治勅許を朝廷から勝ち取ります。この文治勅許によって頼朝は守護・地頭を任命する権利を獲得したのです。守護は一国一人制で軍事警察を司りました。地頭は荘園や公領ごとに配置され、年貢の徴収や土地の管理などを担う職ですが、頼朝は地頭職に武士を任命することで新恩給与本領安堵を公式な制度として実行することができるようになったのです。

 頼朝と主従関係を結んだ武士は、恩賞として土地の所有権を与えられるのではなく、地頭職を任命されることになったのです。地頭に任命された武士は、土地の所有権は無くとも年貢を徴収できるので、定められた年貢よりも多く収穫された米や農産物、特産品は地頭の所有物=利権となるのです。すなわち、地頭職に任命された武士は、その土地から得られる利権を手に入れることができるようになり、地頭職を子孫に相続することができるようになったのです。それが頼朝と武士が主従関係を結ぶ大きなメリットとなったのです。

 この守護・地頭を任命する権限は征夷大将軍だけが持つ独特の権限であり、その後の歴史において武家政権を支える大きな基礎となる制度となったのです。頼朝はこの制度の根幹を一人で考えだし、一人で朝廷と交渉して作り上げたのです。

 頼朝は、戦場での指揮官として能力を発揮する機会に恵まれることはありませんでしたが、もっとスケールの大きな国家レベルの戦略という分野において優れた能力を発揮した人物でした。頼朝が築いたシステムがあったからこそ、その後の鎌倉幕府室町幕府など武家政権が繁栄を遂げることができたのです。

 

◆頼朝の軍事実績

 源頼朝が、大規模な合戦を指揮し勝利したことが一度だけありありました。あまり一般的には知られていませんが、奥州藤原氏を滅亡させた奥州合戦がその戦いです。

 頼朝は義経を敵視し滅ぼそうとしましたが、義経は逃亡し奥州平泉の藤原秀衡のもとに匿われていました。しかし、秀衡が死去すると奥州藤原氏は内乱状態に陥りました。頼朝は藤原氏の内乱につけこみ藤原泰衡義経を討伐させました。この時点では、頼朝はまだ軍事行動を起こしていません。義経を直接滅ぼしたのは、あくまで藤原泰衡です。しかし、泰衡が頼朝の圧力に屈して義経を滅亡させたのは間違いありません。

 頼朝は、その藤原泰衡を討伐することにしたのです。東国の完全支配を目指す頼朝にとって奥州藤原氏は倒さなければならない存在でした。文治五年(1189)七月頼朝は大軍勢を率いて奥州へ攻め入りました。総勢24万騎の軍勢を三手に分けて進軍する大規模な軍事行動を行い奥州藤原氏を滅亡させたのです。東国の完全制覇を成し遂げた頼朝はその後上洛し、征夷大将軍となったのです。

 

今回参考にさせて頂いた文献

源頼朝 元木康雄 中公新書

頼朝と義時 呉座勇一 講談社現代新書

新詳日本史 浜島書店

詳説日本史 山川出版

 

 

 

 

 

 

 

 

関東の戦国武将たち 太田道灌の子孫 太田康資(やすすけ)

 文明十八年(1486年)七月二十六日、太田道灌相模国にある扇谷氏の本拠地糟屋館で扇谷定正によって暗殺されました。この時、道灌の嫡子資康は江戸城にいましたが、父が殺されたとの知らせを受けて江戸城を脱出し甲斐へ逃れました。その後、資康は山内上杉顕定を頼りました。実は、道灌暗殺を扇谷定正にそそのかしたのは上杉顕定であったのですが、当時の資康はその事実を知ることもなく父に手を下した定正を恨み続けたのです。

 資康の死後、息子の資高は何故か扇谷定正と和解し、扇谷家の宿老となり江戸城城代をつとめていました。このころになると山内上杉氏と扇谷上杉氏は激しく争うようになっていたので、その過程で道灌暗殺の真相が明らかになっていたのかもしれません。いずれにしても扇谷家に仕えていた太田資高の胸中は複雑であったと思います。

 大永四年(1524年)正月、太田資高は扇谷氏を裏切り相模の北条氏綱に内通しました。この資高の寝返りは北条氏綱が扇谷氏から江戸城を奪い取った一因になったのです。それ以来、資高は北条家の家臣となり厚遇されていたのです。

 その厚遇は、息子康資の代になっても続いていました。康資は江戸城主である遠山丹波守直景の婿となっていたのです。太田康資は身の丈が六尺以上あり筋骨隆々の大男で怪力の持ち主でした。戦場では馬上で八尺余りの鉄棒を振り回し、敵を次々になぎ倒し常に高名をあげていました。そのため、康資は北条氏康からも厚い信頼を受け、氏康の諱の一字を与えられていました。

 しかし、康資は自分の境遇に満足していなかったのです。江戸城は自分の曽祖父道灌が築いた城です。その城で北条の家臣である遠山氏に仕える身分であることは、康資にとって耐えがたい屈辱であったのでしょう。いつしか康資は、北条氏を裏切り江戸城を乗っ取るという野望を胸中に膨らませるようになっていたのです。やがて、康資は太田家の分家である岩付太田氏の太田資正と内密に連絡をとりあい、江戸城を奪う策略を練り始めていたのです。

 ちょうどそのころ、関東管領上杉憲政は越後へ逃亡し、憲政から上杉家の家督関東管領職を受け継いだ長尾景虎が、上杉謙信と名を改めて関東へ侵攻するようになっていました。永禄六年、上杉謙信は武田・北条連合軍と戦うため上野へ軍勢を進めてきました。太田資正は、上杉謙信の味方につき、同じく謙信の味方についていた安房の里見義堯・義弘親子と合流し下総国府台城に陣を構えていました。里見・太田の軍勢は謙信に呼応して北条方の後方を攪乱しようとしたのです。

 この時、太田康資は北条を裏切り里見・太田の軍勢に加わったのです。康資の裏切りは北条方にとっては大きな痛手だったようで、里見・太田が攻撃している葛西城に敵方が紛れ込まないように雑兵や小者の身元をしっかり改めるように命令が出たということです。

 国府台合戦の序盤は、太田康資の寝返りもあって里見・太田連合軍は優位に立ちました。しかし、北条軍は巻き返してきました。北条氏康の嫡男氏政とその弟氏照は大軍勢を率いて西下総へ向かい中山法華経寺に本陣を構えて敵を包囲したのです。国府台合戦が始まってからおよそ二か月後の永禄七年二月中旬、北条方は総攻撃をしかけ里見・太田連合軍は敗走しました。

 敗れた里見義弘は、北条勢の追撃をなんとか切り抜け上総へ逃れました。太田資正は無事に岩付城へ戻れたのですが、永禄七年七月に息子の氏資から裏切られ城を追われて常陸佐竹義重を頼りました。この時から資正は、太田三楽斎と名乗るようになったのです。息子の太田氏資は、北条氏康の味方につく道を選びました。関東の戦国時代後半は、北条と上杉の戦いを軸に展開するので、武将たちは自分の置かれた状況が変化するたびに北条につくか、上杉につくか常に選択を迫られたのです。

 今回の主役である太田康資は、上総へ逃げ込み小田喜城の正木氏に庇護されました。康資は、この地で里見氏の客将となっていましたが、天正九年(1581年)に里見氏の内乱に巻き込まれ自害しました。息子の資綱は、里見氏のもとを逃れ一時は常陸の佐竹氏を頼っていました。天正十八年(1590年)、関東の覇者北条氏は天下人豊臣秀吉に敗れついに滅亡しました。その後関東を治めることになったのは徳川家康です。そして、太田資綱は新たな関東の支配者である徳川家康に仕えるようになったのです。

 戦国時代前夜に江戸城を築城した名将太田道灌の子孫は、戦国時代末期に江戸城を本拠地として天下取りに乗り出した徳川家康の家来になったのです。なんとも不思議な歴史の巡り合わせでした。

 

今回参考にした文献

 

関東古戦録 槙島昭武 著 久保田順一訳 あかぎ出版

 

関東戦国史(全) 千野原靖方 崙書房出版

 

図説 太田道灌 黒田基樹 戎光祥出版

 

関東の戦国 上杉憲政の越後逃亡と室町時代の終焉

 天文十五年(1546年)四月、北条氏康は河越夜合戦において関東管領上杉憲政古河公方足利晴氏の率いた八万五千騎の大軍勢と戦い、わずか十分の一の戦力でこれを打ち破りました。この関東戦国時代の歴史に残る奇跡的な大勝利は、北条氏康の立場を一気に飛躍させました。その結果、これまで上杉家を支えてきた武州滝山城主の大石源左衛門尉定久や秩父郡井戸天神城主の藤田右衛門佐邦房などがこぞって北条方へ寝返ってきたのです。

 さらに、氏康は空城となった上杉方の松山城を労せずして手に入れ、武蔵北部の要衝を押さえることに成功し、忍の成田氏や鷹ノ巣の小幡氏も味方に引き入れ武蔵国の支配を盤石なものとしました。また、氏康は河越合戦で上杉に味方した古河公方足利晴氏を強く非難し、古河公方家の御料所が多数点在する下総北西部へ軍勢を差し向け、古河公方に軍事的な圧力をかけました。

 

 河越合戦に敗れた上杉憲政は、上野国の平井城に引き籠っていました。上杉の家臣のなかには、関東管領家をなんとか立て直そうという志を持った者が少なからず残っていたようですが、肝心の上杉憲政関東管領の重責を担うだけの器量を持った人物ではありませんでした。関東古戦録は、上杉憲政の人物像を次のように評しています。

 「上杉憲政は、三歳で実父憲房を失い、九歳で養父憲寛の譲りによって関東管領職を受け継いだため、諫め導く人もなくわがままに成長し、文に暗く武に欠け、歌・蹴鞠・茶の湯の道や酒色におぼれて過ごしてきた。」

 主君がこのようなありさまであったので、憲政の側近には貪欲でよこしまな佞臣ばかりが集まり、政務を疎かにして私腹を肥やしていました。そのため、上杉家中の士気は下がり武道は衰えていました。この様子を見て、誰もが上杉家は間もなく滅亡するであろうと思っていました。

 

 衰退する上杉家に対し、北条氏康は容赦なく攻撃を仕掛けました。天文二十年(1551年)の冬から翌二十一年二月にかけて、氏康は数千騎の軍勢を率いて上杉憲政の嫡男龍若丸が立て籠もっている武蔵金鑚山近辺の御嶽城(埼玉県児玉郡)へ攻め寄せました。三月になって同城は落城し、城主の安保泰広・泰忠父子は降参しました。この合戦では数千もの兵士が討ち死にを遂げ、城に立て籠もっていた数千の雑兵は水源を断たれて水を飲むことができずに命を落としたそうです。

 この合戦の後、上杉方の有力な武将たちの多くが北条方に寝返り、ついには憲政の馬廻り衆までもが裏切って北条方の味方についたということです。とうとう、上杉憲政は普代の家臣たちにも見放されて孤立してしまい、五十余名の供を連れて越後へ逃亡したのです。

 越後守護代長尾景虎は、喜んで憲政を迎え入れたということです。関東古戦録によると、「景虎は、礼をもって接待に努めたので、憲政は家運が衰えたことを述べ、永享の乱の時朝廷から下された錦の御旗・関東管領職補任の綸旨・藤原鎌足以来の系図・御所作りの麻呂の太刀・飛雀の幕などとともに上杉の名字と自分の名の一字を与えた。景虎はこれらをうやうやしくいただき、「秘計をめぐらせて御敵を退治しますのでご安心下さい」と言上した。春日山の二の郭に館をつくり、三百貫の厨料を献上した。」ということです。

 長尾景虎は、上杉政虎と改名しました。天文二十一年(1552年)五月、上杉政虎従五位下弾正少弼に叙任され、越後守護職の継承にふさわしい格式を得ると同時に、上杉憲政を扶助するという立場が明確になりました。憲政は出家して「成悦」と号して越後に在国していました。

 

 上杉憲政が越後へ逃亡したことは、関東において室町時代が終焉を迎えたことを示す出来事であったと私は思います。室町幕府を開いた足利尊氏は、関東を統治する機関として鎌倉府を設置し、尊氏の三男である基氏が初代鎌倉公方となりました。若い鎌倉公方の補佐役として設けられたのたが関東管領職でした。

 当初、関東管領職についたのは斯波家永でしたが、観応擾乱の後、基氏から信頼されていた上杉憲顕関東管領職に就任にし、その後は上杉氏が関東管領職を独占し世襲してきたのです。まさに、関東管領とは、関東の室町時代の権威と秩序を象徴する存在であったと言えます。

 享徳三年(1454年)からおよそ30年もの間続いた享徳の乱において関東管領上杉氏は古河公方と対立し勢力を拡大しました。しかし、この時代が関東管領の全盛期であったと思われます。長い戦乱によって室町時代に築かれた鎌倉府や関東管領の権威は、すでに衰え始めていたのです。

 このころ関東では、室町時代から戦国時代へ移る過渡期を迎えていました。武将たちは、古い権威や秩序を軽んじ、自らの武力で勢力を拡大するようになったのです。そして、権威を守るべき立場にあった山内上杉氏と扇谷上杉氏との間で勢力争いが勃発しました。両上杉の戦いは双方を疲弊させ、そのすきをついて北条氏が関東へ侵攻してきたのです。

 北条氏は、宗瑞、氏綱、氏康という親子三代にわたって関東へ侵攻を続け上杉氏の領国を奪い取ってきました。そして、ついに氏康は関東管領上杉憲政を関東から追い出してしまったのです。氏康は、室町時代の残照ともいうべき関東管領という存在を完全にかき消してしまったのです。

 

 伊勢宗瑞が小田原城を奪取したのは文亀元年(1501年)のことでした。それから約五十年をかけて北条氏は関東への進出を図って上杉氏と抗争を続けていましたが、その戦いに勝利したのです。こののち、北条氏は天正十八年(1590年)豊臣秀吉に攻め滅ぼされるまで約四十年間関東に君臨したのでした。

 すなわち、北条氏は関東の戦国時代においておよそ九十年もの間時代の中心にいたのです。新興の成り上がりものでしかなかった北条氏が、なぜ関東の覇者となりえたのでしょうか?私は以前その理由として、北条氏の歴代当主たちが持っている戦国武将としての個人的な能力の高さを説明しました。宗瑞、氏綱、氏康は、武勇に優れていたのはもちろんのこと、非常に高度な思考力を持ち、ここぞという時に的確な判断を下し、素早く行動を起こせる人物でした。彼らの思考力、判断力、行動力の源泉になっていたのは、北条家の家訓である早雲寺殿21箇条にある「勝負脳」を鍛えるための生活習慣でした。

 しかし、北条家歴代当主の個人的な能力の高さだけが、北条氏成功の理由ではありません。北条氏の強さの秘密は、集団としての強さ、組織としての強さにあると私は考えます。北条氏は、戦国時代においては珍しく一族が結束し、家督相続争いなどの内部抗争を起こしたことがありません。

 この組織としてのまとまりの良さを創り出す土台となっていたのは、若き日の伊勢宗瑞と苦楽をともにした仲間の存在でした。青年時代の宗瑞には6人の仲間がいました。荒木兵庫頭、山中才四郎、多目権兵衛、荒川又次郎、大道寺太郎、在竹兵衛尉です。宗瑞と6人の仲間たちは、この7人のうちの誰かが一国一城の主となったあかつきには、のこる6人は家来となり、その出世頭を主君と仰いで力をあわせようと誓いあっていたのです。7人の若者は、それぞれの夢を抱いて冒険の旅に出たのでした。

 駿河国に赴いた伊勢宗瑞は、今川家の内乱に身を投じて今川氏親を助け、今川家の正当な跡継ぎである氏親に今川家の家督を相続させることに成功しました。この手柄によって、宗瑞は氏親から駿河国の東部に位置する興国寺城を与えられ城の主となることができたのです。そして、他の仲間たちは、約束通りに宗瑞の家来となり、宗瑞を盛り立てていくことになったのです。

 この話は、小田原北条記に記された逸話であり、真実かどうかはわかりませんが、北条家の家臣団が、主君のもとに結束し様々な難局を乗り切ってきたからこそ、北条氏は伊豆国を振り出しに、相模国武蔵国と領国を拡大していくことができたのです。伝説の若者たちの子孫は、氏康の時代になっても重臣として活躍していました。北条軍が奇跡的な勝利を挙げた河越夜合戦において、攻撃部隊を率いていたのは大道寺氏や荒川氏でした。また、合戦に加わることなく遊軍として控えていたのは、多目大膳亮の率いた軍勢でした。

 多目大膳亮が率いた遊軍は、決して合戦に加わらず陣地を動くなと氏康から厳命されていたのです。戦国時代の武将にとって、戦うことを禁じられるのは屈辱的なことではないでしょうか。しかし、氏康が多目大膳亮に下した命令には重要な意味があったのです。

 河越夜合戦では、北条軍は十倍の敵と戦わねばなりませんでした。ですから、全兵力を投入して勝ったとしても、戦いが終われば兵士は消耗しきっているはずです。そこへ新たな敵が出現すれば、もはや戦える兵士は残っておらず、せっかくの勝利も水の泡となってしまいます。その危険を防ぐために、氏康は遊軍を残しておきました。多目大膳亮は自分の役割を十分に理解していたので、氏康の命令に不服を唱えることはありませんでした。そして、多目大膳亮の遊軍は、合戦が終わった後の疲れ切った味方の軍勢を守る役割をしっかりと果たしたのです。

 

  重臣たちだけではなく、北条家では下々の家来たちもこぞって主君の為に働こうという気概を持っていたのです。例えば、北条氏綱が、小弓公方足利義明を破った国府台合戦の時には、合戦を前にした軍議の席で、末席にいた根来金石斎というものが、兵法に基づいた積極的な攻撃策を具申したところ、氏綱はその策を採用して勝利を収めました。金石斎は剣と馬の褒美を氏綱から頂戴したうえ、攻撃の先手までまかされたのでした。

 一方、敗れた足利義明は、家臣の進言を退け、冷静な戦況分析もすることなく、ただがむしゃらに攻撃に出たので、味方は大敗し義明自身は戦場で討ち死にしてしまいました。この戦いの結末は、北条家の組織力の強さをまざまざと見せつけたのでした。

 このように、北条氏は風通しの良い組織として成り立っていたのです。その気風は武士たちの中だけにおさまることなく、北条氏の本居地である小田原城下にも及んでいました。戦国時代の小田原は、新しい時代を切り開くという雰囲気に満ち溢れた城下町だったのです。

 小田原城下の活気は、国の内外から多くの人や物を呼び寄せたのです。そのなかでも特に有名なのが、京都からやってきた霊薬を商う外郎という町人でした。外郎が扱う薬は大層な評判となり、その評判が氏綱のもとにも届いたので、外郎は氏綱に拝謁する機会を得たのです。氏綱は外郎の話を聞いて感心し、外郎に屋敷を与えて小田原にとどまらせたということです。その外郎の子孫が、今でも小田原に在住し「ういろう」を販売されているのです。

 

 このようにして、北条氏は戦国時代の関東において、大きなる繁栄を遂げたのです。北条氏は新興勢力として登場してきたので、他の勢力に比べて一族・組織としての団結力が非常に強かったのです。その団結力の強さが、戦国時代のような有事には重要な意味を持つのです。

 孫子は、兵法書の巻頭で「兵とは国の大事なり」と述べています。すなわち、戦争とは国家の一大事であり、この戦争に勝てるか、あるいは負けて滅びるかは、五つの事柄によって決まってくると言っています。

 孫子がその五項目の第一番目に挙げているのが、「道」です。道とは、すなわち、国の指導者の心と民の心が一つになっているかどうかということです。戦国時代の北条氏は、主君と家臣団の心がひとつになり、共通の目的に向かって邁進できたからこそ大きな成功を収めることができたのです。国家のリーダーが正しい政治を行っていたからこそ、人々はそのリーダーの考えに従い、国の一大事に際して皆で協力して、危機を乗り越えることができたのです。

 翻って、現代の日本に於いて、国家のリーダーと国民の心はひとつになっているでしょうか?コロナ禍という国の一大事を我々は乗り切ることができるでしょうか?

 私は、国民の心をひとつにしようというリーダーの努力が足りないように思えてなりません。現代は、様々な価値観や様々なライフスタイルが尊重される時代、いわゆる多様性を重視する時代です。ですから、ある特定の目標や価値観に人々を縛りつけるのが困難であることは間違いありません。だからと言って、国家のリーダーが、形ばかりの緊急事態宣言を発出するだけでは、この危機を乗り切ることはできないでしょう。国家のリーダーは、こういう時こそ必死になって国民の心をひとつにするためのアイデアを考え、そのアイデアを実行に移すべきなのです。

 そして、我々自身もまさに歴史の分岐点に立っているのです。我々は、ただ単に歴史の目撃者となるのではなく、その時歴史を動かした「人々」となるべきではないでしょうか。

 

今回参考にさせていただいた文献は以下の通りです。

 

関東古戦録 槙島昭武 著  久保田順一 訳  あかぎ出版

小田原北条記 江西逸志子 原著 岸正尚 訳  ニュートンプレス

関東戦国史(全) 千野原靖方 崙書房出版