歴史楽者のひとりごと

こんにちは、歴史を楽しむ者のブログです。

坂東武者の系譜 貴族から武士へ

 古代の英雄ヤマトタケルは東方遠征を果たした後、足柄峠(あるいは碓氷峠)の頂に立ち、東方を眺めて、亡き妻オトタチバナヒメへの想いを込めて三度嘆き「あづまはや」とつぶやいたそうです。
 この故事にちなみ、足柄峠(あるいは碓氷峠)の坂より東の国々を坂東と呼ぶようになりました。
 坂東では、都から国司として赴任した貴族が任期を終えた後も、この地に留まり土着するようになりました。それは9世紀末から10世紀にかけての頃だと言われています。
 彼等は何故都での雅な生活を捨て、坂東の大地で生きることを選択したのでしょうか?
それには大きく二つの要因があったと考えられます。
 まず一つ目の要因は、9世紀末頃に朝廷が軍制改革を行い、国司に強力な軍事権・警察権を与えたことがあげられます。
 この頃全国各地で地方豪族や有力な農民が武装し勢力の維持・拡大のために紛争を繰り返していました。朝廷は紛争を鎮圧するために、押領使や追捕使を国ごとに設置しました。行政官である国司はその役目を兼務することで、警察権を手に入れました。さらに朝廷は、軍勢を動員する権限も国司に与えたのです。こうして国司は強力な軍事力を行使できるようになったのです。
 二つ目の要因は、年貢の徴収を国司に請け負わせたことです。奈良時代の頃、朝廷は班田収授法を定め、土地と人民を直接支配して徴税を行っていました。しかし、9世紀頃には班田収授法はすっかりすたれてしまいました。
 そこで、朝廷は安定した徴税を実施するために、地方の情勢を把握している国司に徴税を委任したのです。これによって国司は広大な領域を勢力圏に置き、経済的な基盤を得ることもできたのです。
 武士とは、もともと平安時代の神事において馬上騎射する能力に優れた芸能者でした。このような人々が坂東に下向し、水を得た魚のようになったのです。彼らは軍事権、警察権、徴税権を手にして地方の有力な豪族となりました。
 そして、広大な牧で放牧された馬にまたがり坂東の大地を疾走しました。武士たちは、馬上騎射する得意の武芸で紛争を鎮圧するために活躍しました。さらに同族同士で勢力争いを繰り返すうちに強力な軍事集団に成長したのです。
 これが坂東武者のルーツとなりました。坂東武者の代表的な存在といえば、桓武平氏清和源氏があげられます。
 この両者はもともと皇族でした。ところが9世紀頃になると、皇族の数が増えすぎ天皇家の財政を圧迫し出したのです。そこで天皇は、皇后や妃などの正式の地位をもつ女性および特定の上級貴族出身の女性から生まれたものを除き、他のすべての子孫に平朝臣や源朝臣の姓を与え臣籍降下させたのです。
 皇族であった桓武平氏清和源氏がどのようにして荒々しい坂東武者に変貌を遂げていったのでしょうか。このシリーズでは歴史に名を残した坂東武者の系譜をたどり、その全貌に迫っていきたいと思います。

 このシリーズで参考にさせて頂いた文献はシリーズ終了時に記載させて頂きます。

天空の異変を記録した日記「明月記」

 775年に起きた天空の異変は、歴史と天文学のコラボレーションによってその謎が解明されました。
 さらに、日本の古文書には宇宙で起きた天文現象を記録したものがあり、天文学の世界で大きな注目を浴びました。
 その古文書とは、鎌倉時代に活躍した歌人藤原定家が書いた日記で国宝の「明月記」です。藤原定家といえば、歴史の教科書には新古今和歌集の撰者として登場しますが、天文学の世界では「明月記」の作者として有名です。
 有史以来、人類が肉眼で目撃した超新星爆発はわずか8件ですが、明月記にはそのうちの3件の超新星爆発のことが記載されています。世界的にみても、ひとつの古文書の中に三つの超新星爆発の記録が記載されているのは非常に珍しいことなのです。
 明月記に書かれている超新星爆発は、1006年の超新星(おおかみ座超新星残骸)、1054年超新星かに星雲)、そして1181年の超新星カシオペア座超新星残骸)の3例です。
 藤原定家は1162年に生まれ1241年に亡くなっています。定家が生まれる前の超新星の記録が日記に書かれているのはちょっと変ですが、それには理由があるのです。
 寛喜二年(1230年)10月に客星(おそらくは彗星)が現れました。天文学が発達する以前、日本では夜空に突然現れた見慣れない星のことを客星と呼びました。客星は吉凶の前兆です。定家は客星に興味を持ち、過去に出現した客星のことを陰陽師の安部泰俊(安部清明の6代目の孫)に調べさせました。そして、その結果を明月記に記載したのです。そのため、定家が生まれる以前の事象が明月記には書かれているのです。
 定家が明月記に記録した超新星爆発は、現代の天文学の分野においても大きな注目を浴びるような事象でした。
 まず、1006年に起きた超新星爆発は、現在判明している超新星爆発のなかで人類が目撃した最も明るい超新星爆発だと考えられています。
 明月記には次のように書かれています。
「一條院 寛弘三年四月二日 癸酉 夜以降 騎官中 有大客星 如螢惑」大意は、西暦1006年5月1日、おおかみ座の方向に明るい客星が現れ火星のようだった、ということです。
 1054年超新星爆発については、1934年に日本のアマチュア天文家の射場保昭氏が、明月記の記録を英国の天文誌に紹介したことがきっかけで、著名な天文学者であるヤン・オールトの目にとまり、かに星雲として知られていた天体が1054年に現れた超新星爆発の残骸であることがわかったのです。まさに、歴史と天文学がコラボレーションして宇宙の謎が解明されたのです。
 1054年超新星の記述は次の通りです。
「後冷泉院 天喜二年四月中旬以降丑時 客星觜参度 見東方 はい天関星 大如歳星」大意は、西暦1054年5月中旬以降、午前二時頃にオリオン座とおうし座付近に客星が現れ大きさは木星のようであった、ということです。(Wikipedia 明月記より参照)
 藤原定家の明月記が天文学者に注目されたのは、超新星が出現した日付や夜空での位置が詳細に記載されているからです。
 定家が記録してくれた情報をもとに、かに星雲を観測することで、現代の天文学者は爆発してから964年後の超新星の姿を見ることができ、超新星爆発のメカニズムについて詳しく研究できるのです。
 ところで、歴史学者本郷和人先生が日経新聞の土曜日版に書かれいる記事「日本史ひと模様」によると、平安時代鎌倉時代の公家が書いていた日記は、現在の我々が書いている日記とは趣が異なっていたそうです。
 現在我々が書いている日記は、おおむね自分の内面と向き合い、嬉しかったことや悲しかったことが記載されているのではないでしょうか。そして、その内容は他人には見せたくないものだと思います。
 ところが、平安時代鎌倉時代の公家が書いていた日記は、他人に読ませるための日記だったというのです。日記に書かれていたことは、宮中の儀式や行事の手順や式次第の詳細な内容です。
 その目的は、公家が携わる儀式や行事の手順や式次第を子孫に伝えることで、子孫が儀式や行事を要領よくこなし、それによって「あの人は優秀だ」とういう評価を得て出世するための引継書・手順書だったのだそうです。そのため、公家の日記に書かれている事は、事実に則しており、歴史的な資料としての価値が高いのだそうです。
 藤原定家もせっせと子孫の出世ために日記を書いていたのです。まさか、その日記が700年後に天文学の分野で大いに注目されるとは、定家自身も思ってもみなかったことでしょう。
 このような定家の生活の様子をみると、鎌倉時代になったとはいえ、京都では依然として天皇を中心とした貴族社会が残っていたのだということがよくわかります。つまり、鎌倉時代とは、東国の武家政権と西国の天皇政権が並立していた時代だと考えることができるのです。

 さて、太陽系のある銀河系で最後に超新星が出現したのは1604年のことです。それ以降、銀河系では超新星が現れていません。ひとつの銀河で超新星が現れるのは百年に一度くらいと言われています。いま生きている私たちが超新星をみる機会はあるのでしょうか?オリオン座のベテルギウス超新星爆発を起こす間近の星であるそうです。私が生きている間に爆発してくれればいいのですが。

※補足
 超新星爆発について、簡単に説明しておきます。超新星爆発には、非常に大雑把に分類すると二つのタイプがあります。
 ひとつは、重力崩壊型の超新星爆発で、太陽の重さの8倍以上の恒星が一生の終わりに、自らの重さを支えることができなくなり大爆発してしまう現象です。爆発のあとには中性子星ブラックホールが残るのです。1054年超新星と1181年の超新星はこのタイプです。
 もうひとつのタイプは、太陽の重さの8倍未満の恒星が一生を終えたあとに、再び復活して暴走的な核爆発を起こす現象です。天文学ではこのタイプをIa型超新星と呼びます。Ia型超新星は太陽のような恒星が連星系をなしている場合に起きます。連星の片方が先に一生を終えて白色矮星になると、もう一方の星から白色矮星にガスが降り積もります。そして、白色矮星の重さが太陽質量の1.4倍になると核反応の暴走が始まり大爆発を起こすのです。1006年の超新星はこのタイプです。

今回参考にさせて頂いた文献
ISASニュース 2005年6月No.291掲載「宇宙のヒットメーカー超新星残骸かに星雲

ISASニュース 2006年06月No.303掲載「今年のミレニアムスター」

アストロアーツ「明月記の超新星記録を
世界に紹介した射場保昭」

日本経済新聞 2018年7月28日朝刊「日本史ひと模様 本郷和人

775年頃の日本はどんな時代だったか

 西暦775年、太陽表面で巨大な爆発が起きました。スーパーフレアと呼ばれる現象です。爆発に伴って大量の高エネルギー粒子が宇宙空間に放出されました。地球へ飛来した高エネルギー粒子は、地球磁場に捕らえられ、大気分子と衝突して発光します。その光がオーロラです。
 通常、オーロラは北極圏や南極圏などの高緯度地域でしか見ることができません。それは、地球磁場に捕らえられた高エネルギー粒子が磁力線に沿って流れ、高緯度地域に集中するからです。
 しかし、太陽表面でスーパーフレアが発生すると、通常のフレアの時よりもはるかに大量の粒子が放出されるので、その一部は地球の中緯度地域にも流れ込んでくるのです。そのため、スーパーフレアが発生した時には、普段はオーロラを見ることができない地域でもオーロラを見ることができるのです。
 775年に起きたスーパーフレアは、恐らく人類史上最大のスーパーフレアです。そのため世界各地でオーロラが出現したのでしょう。
 オーロラを見た当時の人々は、天空に現れた不思議な光をみて、その事を記録に残しました。
 イギリスのアングロサクソン年代記には「空に赤い十字架が現れ、大地に見事な蛇が現れた」という記述があります。また中国の旧唐書には「夜空に絹のような光沢のある白い光の帯が現れた」という記述があります。
 そして、日本では続日本記に宝亀六年(775年)五月丙午「白虹竟天」という記述がります。この文章は、夜空を横断するような虹が見えたという解釈ができるのです。この文章が意味する現象を、オーロラが見えた事だと断言する事はできませんが、その可能性は十分あると思います。
 ところで、この天空の異変が起きた775年頃とは、どのような時代だったのでしょうか?
 775年頃といえば、日本では奈良時代後半に当たります。
 そのころの日本は、政治情勢が非常に不安定な状況でした。橘奈良麻呂の変や恵美押勝の乱など、天皇に寵愛された貴族の権力争いが相次いで起こりました。
 さらに、皇統の存続を揺るがすような大事件が起きました。称徳天皇が僧道鏡天皇の位を譲ろうとしたのです。世に言う宇佐八幡神託事件です。
 764年聖武天皇の娘である称徳天皇が即位しました。この方が天皇の位に就くのは二度目です。(一度目は孝謙天皇称徳天皇は自分が病になったときに看病してくれた僧道鏡を寵愛しました。道鏡太政大臣禅師、さらに法王となって権力を握り仏教政治を行いました。
 そして、769年、宇佐八幡神は、道鏡天皇に即位すれば天下太平になる、というお告げを出したのです。その神意を確かめるため、和気清麻呂が使いに出されましたが、清麻呂がお告げとは反対の報告をしたので、道鏡天皇即位は挫折しました。
 清麻呂称徳天皇の怒りを受け、九州の大隅へ流されましたが、称徳天皇が亡くなると流罪を解かれました。
 昭和15年のことですが、和気清麻呂は皇統の存続を守った忠臣として称えられ、皇居に面した大手壕緑地の一角に、清麻呂銅像が設置されたのです。
 さて、称徳天皇の跡を継いだのは光仁天皇です。光仁天皇は、道鏡時代の仏教政治で混乱した律令政治と国家財政の建て直しに力を注ぎました。
 光仁天皇天智天皇の血を引く天皇です。じつは、壬申の乱に勝利した天武天皇から称徳天皇に至るまで九代に渡って、天皇の位に就いたのはで天武天皇の血を引く者だけでした。
 しかし、天武系の天皇の時代は、政情不安定な時代が続いたのです。そのような時代の閉塞感を打破するために、藤原百川らの貴族が、新たに天智系の天皇を即位させたのです。そして、称徳天皇を最後に、天武系の血は途絶えたのでした。
 白虹竟天が起きたのは、光仁天皇の時代です。空に出現した不思議な光の帯を見て、人々は何を思ったでしょうか?
 天変地異や戦争が起きる不吉な前兆と思ったのでしょうか?
 それとも、新しい時代へ移る希望の光に思えたでしょうか?
 それは、その光を見た人の立場によってそれぞれ異なるのかもしれません。
 いずれにしても、794年光仁天皇の跡を継いだ桓武天皇は、平安京へ都を移し新しい時代が始まったのです。

 今回参考にさせて頂いた文献
 詳説 日本史 山川出版社
 千代田区観光協会HP
 岡山県HP
 NHK-BSプレミアム コズミックフロント「西暦775年のミステリー」

775年のミステリー 日本の古文書に記録はあるか

 歴史を楽しむ者のブログ、今回のテーマは歴史と天文学のコラボレーションです。
 西暦775年(宝亀六年)天空に大異変が起きました。地球に大量の宇宙線が降り注いだというのです。ヨーロッパや中国の古い書物には、この天空の大異変の事を記したと思われる記述があるそうです。
 日本では奈良時代後期の頃ですが、果たして日本の古文書には、この天空の大異変が記録されているでしょうか?これが今回のテーマです。
 西暦775年、いったい宇宙で何が起きたのでしょうか。この天空の大異変は「西暦775年のミステリー」と呼ばれています。2013年にはNHKBSプレミアムの科学番組「コズミックフロント」で紹介されました。
 まずは、この番組の放送内容に基づいて「西暦775年のミステリー」のあらましをお話します。
 2012年、当時名古屋大学の学生だった女性が、博士論文の為に屋久杉の年輪に含まれる炭素14の濃度を調査しました。彼女は、樹齢千年とも言われる屋久杉の年輪を1枚づつはがして丹念に調べたのです。
 その結果、驚くべき事がわかりました。西暦775年の年輪には、自然界にはほとんど存在しないはずの放射性炭素14が大量に含まれていたのです。
 この調査結果が発表されると、世界中の天文学者たちが色めき立ちました。何故なら、炭素14は宇宙から飛来する高エネルギーの宇宙線が、地球の大気分子と衝突して作られるからです。
 いったい、775年に宇宙で何が起きて、炭素14が急激に増えたのでしょうか?天文学者たちの謎解きが始まりました。
 そして、天文学者たちは、宇宙で起きる現象の中で、高エネルギーの宇宙線を発生させる現象を絞り込んできました。それは次に示した三つの現象です。
超新星爆発
 太陽の8倍以上の重さを持つ恒星が、一生の終わりに大爆発を起こす現象。爆発によって大量の宇宙線が放射される。また白色矮星と恒星の連星系でも超新星爆発は起きることがある。
ガンマ線バースト
 太陽の40倍以上の重さを持つ恒星が超新星爆発を起こした時に、強力なガンマ線を発射する場合がある。宇宙で最大のエネルギー現象。古生代の生物の大量絶滅を引き起こした犯人の候補でもある。
③太陽のスーパーフレア
太陽表面で起きる爆発現象。爆発と同時に大量の高エネルギー粒子が放出される。地球ではオーロラが発生したり、磁気嵐が起きる。

 いったい、775年に宇宙で起きたのは、どの現象だったのでしょうか?その謎を解き明かす鍵は、歴史書の中にあったのです。
 「アングロサクソン年代記」は古代イギリスの歴史を記した古い書物です。この書物の中には興味深い話が載っています。
 西暦774年、戦いが起きた時に空には赤い十字架が現れ、大地には見事な蛇が現れたのだそうです。
 また、古代中国で編纂された旧唐書には、夜東の方角の月の上あたり、ぎょしゃ座からふたご座、うみへび座にかけて10あまりのまるで絹のような光沢のある白い光の帯が現れたという記述があるそうです。
 どうやら、これらの書物に書かれている天空の異変は、古代の人々が見たオーロラのことを言っているようなのです。
 そして、調査が進むと、ヨーロッパや中国にはまだほかにも775年頃にオーロラが見えたという伝承がいくつも残っているのでした。
 このことから考えると、775年に宇宙で起きた現象は巨大なスーパーフレアであるとの結論が出たのです。太陽表面で巨大な爆発が起こり、大量の高エネルギー粒子が放出されたのです。地球に飛来した高エネルギー粒子は大気中の窒素や酸素と衝突して光を放ちオーロラが出現するのです。
 通常の太陽フレアが起きた場合は、地球の極地方でしかオーロラを見ることはできませんが、スーパーフレアが発生した時は緯度の低い地域でもオーロラが見える場合があるのです。
 そして、775年におきたスーパーフレアは人類史上最大のフレアだと考えられています。もしも、この時と同じ規模のスーパーフレアが現代に起きると、人工衛星が破壊され大規模な停電が発生し、IT機器は故障するという大惨事になるそうです。
 さて、前置きが長くなりましたが、ここからが本題です。775年に起きた天空の異変は、イギリスや中国の書物には記録されていました。
 では、日本の古い書物には、この異変が記録されているのでしょうか?
 775年と言えば、日本では奈良時代の後半です。このとき既に国史の編纂は始まっていました。672年、壬申の乱に勝利した天武天皇は、日本書紀の編纂を命じていました。
 日本書記に書かれているのは、神代の時代から持統天皇の時代までの歴史です。その後、文武天皇から桓武天皇までの歴史が書かれているのが続日本記です。つまり775年の出来事は続日本記に書かれているのです。
 そこで、私は続日本記の原文をネットで検索し内容を調べてみました。するとどうでしょう、宝亀六年(775年)五月丙午に「白虹竟天」という記述があるではありませんか。
 竟という漢字には「わたる」や「はしまでとどく」という意味があります。そうすると「白虹竟天」という文章は、天空を横断するような白虹が見えたという意味になるのです。
 白虹とはいったい何でしょうか。白虹についてネットで調べたところ、次の三つの現象を意味していることがわかりました。
①霧虹
 霧によって太陽の光が散乱され、白い光の輪が見える現象。朝や夕方など太陽の光が横から射してくる時に低い位置に見える。ブロッケン現象もそのひとつ。
②暈「かさ」
 太陽や月の周りに丸い虹が見える現象。それほど珍しい現象ではない。
③月虹
 夜に月の光で生じる虹。かなり珍しい現象。
 この三つの現象のうち続日本記に書かれている「白虹」とは、どれなのでしょうか。「竟天」=「天空を横断するような」という続日本記の表現から考えると、白虹が意味している現象は霧虹や暈ではないと思います。
 そうすると白虹が意味している現象は月虹ということになります。もし、夜に月の光で虹が見えたとしたら、それは非常に珍しい現象ですし、続日本記に書かれていたとしてもおかしくはありません。
 しかし、白虹は本当に虹だったのでしょうか?夜空に突然現れた、天空を横断するような光の帯を見て、奈良時代の人々が虹という言葉以外で表現できなかっただけではないでしょうか。それは、本当はオーロラだったのかもしれません。
 前述した旧唐書では「絹のような光沢のある白い光の帯が現れた」と記述されています。この表現と「白虹竟天」という表現は非常によく似ていると私は思います。
 ですから、私は白虹がオーロラであった可能性は十分あると思います。通常ではオーロラが本州で見えることはありません。ただし、太陽がスーパーフレアを起こせば、本州でもオーロラが見える可能性があるのです。最近の研究では、鎌倉時代に京都でオーロラが見えたことが藤原定家の明月記に記載されており、それが真実であると科学的に証明されているのです。
 ましてや、775年に起きたのは人類史上最大のスーパーフレアです。ヨーロッパや中国など北半球の広い地域でオーロラが見られているのですから、日本で見えたとしても不思議ではないのです。そして、我々日本人のご先祖様が、そのオーロラのことを記録に残していたとしたら、こんなに誇らしいことはないではありませんか。
 ですから、私は希望を込めて「白虹竟天」は天空を横断するように現れたオーロラであると信じたいのです。

 余談ですが、続日本記には、誰それに位を与えたとかいう政治的な記録が多いのですが、珍しい出来事や天変地異の記録も数多く記載されていますので、宝亀五年から六年頃の記述で印象的な出来事をいくつかあげておきます。
宝亀五年正月乙丑
 山背の国では、狼や鹿や狐が百匹ほど現れて夜な夜な鳴いたり吠えたりしたが、それが7日間続いた。

宝亀六年四月乙亥
 近江の国で赤い目をした白い亀が献上された。

宝亀六年四月丁丑
 山背の国で白い雉が献上された。

宝亀六年八月癸未
 伊勢・尾張・美濃の三国で暴風雨が起こり、農民三百人と牛馬千頭が水に流された。寺や家屋が多数倒壊した。

宝亀六年十月辛酉
 日蝕が起きた。
以上

長篠の合戦に見る孫子の兵法

 前回は、長篠の合戦アジャンクールの戦いについて考えました。16世紀に日本で起きた戦いと、15世紀にヨーロッパで起きた戦いには、興味深い共通点がありました。
 その共通点から、織田信長長篠の合戦で用いた馬防柵と鉄砲攻撃は、アジャンクールの戦いに着想を得て考えついた作戦だったのではないか、という可能性が出てきました。
 ただし、信長はアジャンクールの戦いを単純に模倣したのではありません。信長は非常に用心深い性格の武将です。そのため、いざ軍事行動を起こすときには、緻密な作戦を立案し遂行しています。その作戦の根底にある思想は、孫子の兵法であると私は考えます。
 長篠の合戦においても、信長は戦う前から様々な作戦を繰り出しています。その作戦はことごとく孫子の兵法に通じるものがあるのです。
 たとえば、長篠へ進軍する途中で、信長は細作を使って次のような偽の情報を武田方へ流しました。
 「信長の軍勢は、武田軍を非常に恐れている。だから、今回は馬防柵を設置して、その後ろに隠れて戦うつもりである。もし、武田軍が攻め込んできたら、すぐに逃げ出すだろう」
 この偽情報を武田軍は信じ込みました。それには伏線があるのです。長篠の合戦の二年前、元亀三年(1573年)の三方ヶ原の合戦のとき、武田信玄の軍勢に恐れをなした織田の軍勢は、戦うことなく逃げ出しています。
 武田軍にはその時の経験があったので、信長の軍勢は、今回も弱腰ですぐに逃げ出すだろうという油断が生じたのです。
 孫子の兵法では「兵とは詭道なり」と説いています。つまり、戦争とは敵を欺くものであるということです。強い軍隊を弱く見せ、勇敢な兵士を臆病に見せる。そうすることで敵を油断させ敵の裏をかけば、勝利はたやすく手に入れられるという訳です。
 信長の流した偽情報は、まさに「兵とは詭道なり」を実践しているのです。
 さらに、信長はこの偽情報を流すことで、武田軍を油断させただけではなく、設楽原へ誘い出すことに成功したのです。
 長篠の合戦で、信長が最も懸念していたのは、武田軍が長篠城の包囲を解かず、守りを固めて長期戦に持ち込まれることでした。このとき信長は、大坂で本願寺とも戦っており長篠に長期間軍勢を留めることはできなかったのです。
 ところが、武田軍はまんまと信長の流した偽情報を鵜呑みにし、相手を舐めて、設楽原へ誘い出されたのです。この時点で既に、武田軍は信長の作戦にはめられているのです。
 このほかにも、信長は武田軍の後方を攪乱するため、鳶ヶ巣山にある武田軍の砦を別働隊に奇襲させています。信長は奇襲が敵方にばれないように、軍議の席では奇襲攻撃の策を否定し、後で密かに別働隊を組織する用心深さでした。「兵とは詭道なり」敵の不意を突くことが重要なのです。
 一方、武田勝頼の戦法はどうでしょうか?武田軍が信玄公の軍法を守り「風林火山」の旗を掲げているのは、ご存知の通りです。
 しかし、孫子の兵法を尊ぶという伝統は守られていても、長篠の合戦において武田軍は騎馬隊による攻撃に終始し、信長が用意した馬防柵を打ち破るために臨機応変の戦いを仕掛けることができませんでした。
 特定の戦法にこだわらず、敵の状況や戦場の地形、天候などによって変幻自在の戦法を繰り出すことが勝利につながると孫子の兵法は説いているのですが、その戦い方を実践しているのは「風林火山」の旗を掲げた武田軍ではなく、信長でした。
 長篠の合戦に関する限り、信長は馬防柵と鉄砲攻撃という新戦法をあみだし、武田騎馬隊を倒すための準備を十分にして戦いに臨んでいます。これに対し、武田勝頼はさしたる工夫もせず、いつもと同じ戦法で合戦に臨みました。
 「勝兵は勝ちてしかる後に戦いを求め、敗兵は戦いて後に勝ちを求む」と孫子は説いていますが、まさに長篠の合戦は、戦う前に勝敗が決していたのかもしれません。
 

 今回参考にした文献
 新訂 孫子 金谷治 訳    岩波文庫
 新説戦乱の日本史(長篠の戦い) 小学館
 

長篠の合戦とアジャンクールの戦い

 長篠の合戦と言えば、織田信長が馬防柵と大量の鉄砲を使用し武田勝頼の軍勢を破った戦いとして有名です。
 一方、アジャンクールの戦いとは、14世紀から15世紀にかけて起きた百年戦争の中でイギリス王ヘンリー5世が率いる7千の軍勢が2万のフランス軍に圧勝した戦いです。
 私は日本とヨーロッパで起きた二つの戦いにおいて、興味深い共通点があることに気がつきました。果たして、この共通点は単なる偶然なのか、それとも二つの戦いには何らかの繋がりがあるのでしょうか?
 今回はこの問題について考えてみたいと思います。

 まずは、長篠の合戦についておさらいします。
 天正三年三月(1575年)武田勝頼徳川家康の領国である三河に侵攻し、1万5千の軍勢で長篠城を包囲しました。城を守っていたのは、奥平貞昌が率いるわずか5百の軍勢です。これに家康の軍勢8千を加えても、とても太刀打ちできる相手ではありません。
 家康にとって長篠城は、東三河を防衛する要の城です。この城を敵の手に渡す訳にはいきません。絶体絶命の長篠城を救うため、家康は織田信長に援軍を要請しました。信長は3万の軍勢を率いて岐阜を発進し家康軍と合流しました。
 長篠城に近い設楽原に着陣した信長は、足軽に持たせてきた丸太を使って、連吾川の西岸に三重の馬防柵を設置し、その背後に鉄砲足軽隊を配置しました。信長は1千挺の鉄砲を用意し武田軍を待ち受けたのです。
 日本最強を誇る武田騎馬軍団を率いた武田勝頼は織田・徳川連合軍と雌雄を決すべく設楽原へ進出してきました。
 五月二十一日早朝、決戦の火ぶたは切られ武田の騎馬隊が織田・徳川連合軍の陣地へ突撃を開始しました。しかし、武田の騎馬隊は馬防柵に行く手を阻まれ前進できません。立ち往生している武田の騎馬隊に向けて、信長の鉄砲隊が銃撃を浴びせ次々に敵を倒しました。
 武田勝頼は繰り返し騎馬隊の突撃を命じますが、そのたびに馬防柵に阻まれた騎馬隊は銃撃を受け、死傷者の数を増やしていきます。午後になると、騎馬隊を指揮する山県昌景、内藤昌豐、馬場信春といった名だたる武将も死傷し、武田軍の攻撃に衰えが見えてきました。
 その機を逃さず、信長は主力部隊を投入し総攻撃に移りました。武田軍は織田・徳川連合軍の総攻撃を支えきれずに敗走し、大敗を喫したのです。
 
 アジャンクールの戦いとは、英国と仏国がフランスの王位継承を巡って争った百年戦争の中で起きた戦いです。
 1415年ノルマンディーへ侵攻したイギリス王ヘンリー5世ですが、侵攻は失敗し7千のイギリス軍は英国領カレーへ撤退を開始しました。
 フランス軍はイギリス軍を殲滅すべくアジャンクールに2万の大軍を配置し、ヘンリー5世の軍勢を待ち受けていました。イギリス軍の主力が長弓部隊であるのに対し、フランス軍の主力は重装備の騎馬部隊です。
 フランス軍待ち伏せ情報を得たヘンリー5世は、フランス軍が誇る重装騎馬部隊を撃破するため一計を案じました。
 ヘンリー5世は弓兵に両端の尖った杭を持たせ、アジャンクールの予定戦場地へ向かいました。ヘンリー5世はアジャンクールの狭隘な場所に陣地を構え、弓兵に持たせていた杭を地面に打ち込み、馬防柵をこしらえたのです。
 戦いが始まると、フランス軍の重装騎馬部隊はイギリス軍への突撃を試みますが、馬防柵に阻まれ前進できません。そこへイギリス軍の長弓部隊が、雨あられのように大量の矢を放ちました。騎馬部隊の先頭は引き返そうとしますが、後方の騎馬部隊は前進しようと押し込んでくるので、フランス軍の騎馬部隊は大混乱に陥ったのです。ちょうどそのころ、アジャンクール一帯は長雨に見舞われており、地面はぬかるんでいました。それが、フランス騎馬部隊の進退を一層困難にしました。
 そのためフランス軍はイギリス軍の弓兵が放つ大量の矢の餌食になりました。矢はまさに雨あられのように、フランス軍のうえに降り注いだのです。そして、最期はイギリス軍の総攻撃を受けてフランス軍は大敗したのです。

 二つの戦いの説明を読んで、皆さんも共通点に気づいたと思います。
 共通点
 ①敵は強力な騎馬部隊
 ②馬防柵で騎馬部隊の突撃を防ぐ
 ③馬防柵の材料は兵士に持たせた丸太・杭
 ④立ち往生する敵を飛道具(鉄砲・弓)
  で倒す
 ⑤結果的に大勝した
 
 長篠の合戦アジャンクールの戦いにおいて織田信長とヘンリー5世に共通しているのは、どちらも敵の主力部隊は強力な騎馬隊であることです。この騎馬隊の攻撃力をいかにして防ぐのかということが、作戦のポイントになりそうです。
 洋の東西を問わず、一定の条件がそろえば戦争の天才が考える作戦は、ある方向に収斂され同じような作戦になるのでしょう。このように考えるのが最も合理的だと思います。
 しかしながら、歴史を楽しむ者としては、他の可能性を検討したいと思います。

 アジャンクールの戦いが起きたのは1415年です。一方、長篠の合戦が起きたのは西暦で言うと1575年です。時系列ではアジャンクールの戦い長篠の合戦よりも160年早く起きているのです。
 ということは、「信長はアジャンクールの戦いを参考にして、長篠の合戦における作戦を考えついた」という仮説が成り立つのです。
 果たして、信長はアジャンクールの戦いを知っていたのでしょうか?
 実は、その可能性があるのです。戦国時代には、キリスト教の宣教師が数多く来日しました。そのなかでも、ルイス・フロイスやオルガンティノは信長の時代に来日しています。フロイスが来日したのは1563年、オルガンティノが来日したのは1570年です。
 二人とも長篠の合戦が起きる以前に、何度も信長と接見しているのです。特に、フロイスは1569年に京都と岐阜城で信長と対面し厚遇を受けています。その時、好奇心旺盛な信長は、フロイスに西洋についての様々な質問をしています。その中で、西洋の戦争について質問したかもしれません。そして、アジャンクールの戦いは、イギリス軍が自軍の3倍のフランス軍に圧勝した戦いとして、ヨーロッパの戦史に残る戦いなのです。
 つまり、信長がフロイスやオルガンティノからアジャンクールの戦いについての知識を得た可能性は充分あるのです。
 私は、アジャンクールの戦いの話を聞いた信長が、馬防柵と鉄砲を組み合わせた攻撃の着想を得て、長篠の合戦にのぞんだのではないかと思うのですが、皆さんはどう思われますか。
 
 今回の参考文献
 新世界史   山川出版社
 詳説日本史  山川出版社
 新詳日本史  浜島書店
 新説戦乱の日本史(長篠の戦い小学館
 Wikipediaアジャンクールの戦い
        

下剋上の季節

 今年も日本のプロ野球クライマックスシリーズが始まりました。下位チームが上位チームを倒すと、「下剋上」だと言ってファンやマスコミは騒ぎますね。まさに下剋上の季節が到来しました。果たして、今年は下剋上が起きるのでしょうか。

 下剋上と言えば、やはり戦国時代の代名詞です。そのなかでも下剋上のトップバッターと言えるのが、伊勢宗瑞(北条早雲)です。宗瑞が頭角を現したのは、今川氏親駿河守護の地位を取り返した時でした。
 文明八年(1476年)駿河守護今川義忠は遠江に出陣した帰りに、一揆の急襲を受け討ち死にしました。義忠の嫡子龍王丸(今川氏親)が幼かったので、駿河では今川家中が割れ内訌が起きました。幼い龍王丸では心もとないと考えた一派が、義忠の従弟である小鹿範満を跡継ぎにしようとしたのです。
 この時、堀越公方足利政知太田道灌を伴って駿河へ軍勢を進め、家督相続争いに介入し、小鹿範満を後押ししました。その結果、龍王丸が元服するまでという条件で、小鹿範満が守護職を代行することで決着しました。しかし、小鹿範満は龍王丸が元服する年齢を迎えたにもかかわらず、守護職を横領し続けたのです。
 長亨元年(1487年)龍王丸の母親の弟である伊勢宗瑞は、小鹿範満を討伐し、今川家の正統な跡継ぎである龍王丸の家督相続を実現させました。その後、龍王丸は元服今川氏親と名乗りました。尚、氏親の嫡男が今川義元です。
 宗瑞はその褒美として興国寺城(静岡県沼津市)を手に入れました。城主になったとはいえ、宗瑞は今川家の一武将にすぎません。
 明応二年(1493年)伊勢宗瑞は伊豆の堀越御所を急襲し、堀越公方足利茶々丸を倒しました。宗瑞は堀越公方を滅亡させ、伊豆一国を手に入れたのです。この下剋上こそ、戦国時代の始まりと言ってもいいでしょう。
 
 最近では、宗瑞の伊豆侵攻は京都で起きた明応の政変と連動したものだという説があります。明応の政変とは、管領細川政元が室町将軍の首をすげ替えるという、前代未聞の下剋上です。明応の政変以降、室町幕府管領細川氏による傀儡政権になります。
 明応二年(1493年)第10代室町将軍足利義材畠山政長とともに河内国へ遠征した隙をついて、細川政元は政変を企て足利政知の息子である足利義高を新将軍に擁立しました。足利義材畿内の有力な武将たちから見捨てられ将軍職を失いました。
 第11代将軍となった義高は、自分の母親と弟を殺して堀越公方になった異母兄弟の足利茶々丸を討伐するために、伊豆に近い興国寺城にいた伊勢宗瑞に茶々丸討伐を命じたのだと云われています。
 伊勢宗瑞は将軍義高の命令に従い、茶々丸を倒しました。しかし、伊豆一国を平定したのは、宗瑞の独断でしょう。さらに翌明応三年(1494年)宗瑞は小田原城を奪取し、相模侵略を開始します。
 このような伊勢宗瑞の行動を見ると、やはり宗瑞には大きな野心があったのだと思わざるを得ません。将軍義高の茶々丸討伐命令はむしろ宗瑞にとって、渡りに船だったのではないでしょうか。
 伊勢宗瑞が関東へ進出するという大きな野望を抱きその礎を築いたからこそ、その後の北条氏の繁栄があったのだと思います。

 ところで、現代の私たちにとって最もインパクトのある下剋上を果たしたのは、やはり織田信長でしょう。桶狭間今川義元を破った信長の右に出るものはいません。
 ただし、信長は桶狭間で義元の首は取ったものの、そのまま今川領に攻め込み駿河遠江を所領とすることはできませんでした。桶狭間合戦の時点では、信長の勢力はまだ小さく、今川の所領を奪うには至らなかったのです。
 勢力が拡大した後も、信長が駿河遠江を支配することはありませんでした。今川氏の旧領地は徳川家康に任せ、武田や北条の押さえとしたのです。信長の目は常に西へ、すなわち京都へ向いていたのです。

 ここまでは、下剋上した武将を取り上げてきましたが、逆に、下剋上されなかった最優秀な守護大名と言えば誰でしょうか。それは云わずと知れた薩摩の島津氏です。
 文治元年(1185年)平氏を滅亡させた源頼朝は、後白河法皇にせまって守護・地頭を任命する権利を獲得しました。このとき全国に配置された守護のなかで、唯一戦国時代を生き抜き、幕末に至るまで大名として存在し続けることができたのは、薩摩の島津氏だけなのです。
 応仁の乱の頃、勢力を誇っていた山名、細川、畠山、土岐、斯波などの守護大名は、それから百年後にはほぼ衰退していました。
 守護大名が衰退した原因は、室町幕府が持つ構造的な問題にありました。室町幕府は、有力な守護大名を京都に呼び寄せ、政権の中に取り込んでいました。そうすることで、有力な守護大名を監視、統制することができるからです。
 そのため、守護大名は自分の領地から切り離され、守護大名の力の源泉である領民や経済基盤を在地の守護代や有力な国人に奪われてしまったのです。そして、守護代や国人の中から越前の朝倉氏や中国の毛利氏などが台頭し戦国大名になるのです。
 しかし、島津氏だけは別でした。もともとは東国の御家人であった島津氏は、頼朝の命により薩摩守護となり、九州の最果て薩摩に根をおろしました。数百年に渡り薩摩を支配し、領土を守ってきたのです。しかも、その長い伝統に固執することなく、時代の変化に対応する柔軟性を失わずにいたのです。
 だからこそ、関ヶ原の窮地を脱し、幕末の風雲を乗り切ることができたのでしょう。
 下剋上の季節に、私は島津氏の凄さを改めて知りました。

 今回、参考にさせて頂いた文献は以下の通りです。
 関東戦国史(全) 千野原靖方著
 応仁の乱     呉座勇一著
 詳説日本史    山川出版社
 新詳日本史    浜島書店