歴史楽者のひとりごと

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東の将軍 鎌倉公方 その7ー 康暦の政変と足利氏満

1367年に急死した足利基氏の跡を継いで二代鎌倉公方の座に就いたのは、基氏の嫡男氏満でしたが、この時まだ9歳でした。幼い関東公方にとって幸いだったのは、父基氏が命を懸けて関東平定に邁進したことで、氏満の代になると関東の軍事情勢が落ち着いていたことです。さらに、氏満を補佐する関東管領には上杉能憲と上杉朝房が就いていました。両上杉の管領は、鎌倉府の政治体制を整備し政所、侍所、問注所などの行政期間を設置する一方、評定奉行、御所奉行、陣奉行など奉行衆も定められていました。こうして、鎌倉府は小さいながらも幕府のような機関として存在し、足利基氏を祖とする関東足利氏が関東を支配する体制が整ってきたのです。

小山義政の反乱
関東は、氏満の代になって安定期に入っていましたが、合戦がなかったわけではありません。1380年には小山氏の反乱が起きています。小山氏は、藤原秀郷の末裔と云われており、下野国小山荘を中心にして勢力を誇っていた武家です。下野国には、小山氏のほかにも宇都宮社務職を司る宇都宮氏が有力者として存在し、両者は下野国の支配権をめぐって対立していました。
足利氏満は、小山氏と宇都宮氏の争いの調停に乗り出していましたが、小山義政は氏満の調停を無視し、宇都宮基綱を攻め滅ぼしてしまいました。鎌倉公方としての面目をつぶされた氏満は、小山義政を討伐するため関東八ヵ国に軍勢催促を出し、自ら軍勢を率いて下野国へ進軍しました。下野国に出陣した氏満が、小山氏の祇園城を攻撃すると、小山義政は一旦は降伏しました。しかし、翌年になると再び反乱を起こし、またしても氏満から討伐されました。結局、小山義政は三度反乱を起こし、三度目の1832年に自害したのです。このとき、小山義政の嫡男若犬丸は、難を逃れて奥州へ走り、陸奥国の田村氏に保護されたのです。
その後、若犬丸は、田村氏の支援を受けて下野国へ舞い戻り、たびたび氏満に反抗しました。足利氏満は、若犬丸に対しても自ら軍勢を率いて討伐に向かいました。ところが、若犬丸は、氏満が攻めて来ると陸奥へ逃げ込み、また様子を窺っては関東に侵入するということを何度も繰り返しました。若犬丸の反抗は実に17年間に及びましたが、1396年会津の芦名氏に攻められて、ついに滅びました。これによって、小山氏は一旦滅亡したのですが、鎌倉公方は、名門小山氏の家門が途絶えることを惜しんで、小山氏の流れを汲む結城氏の子息を立てて小山氏を再興したのです。
鎌倉公方によって再興された小山氏は、その恩を忘れることはなく名門武家として鎌倉公方を支えるようになりました。また、小山氏をはじめとして、千葉氏、長沼氏、結城氏、佐竹氏、小田氏、宇都宮氏、那須氏は関東八家と呼ばれ、関東の有力武家として特別な存在となり、鎌倉公方を中心とした武家の支配体制が確立したのです。

康暦の政変
関東八家が明確な体制を整えたのは、足利氏満の死後のようですが、氏満が健在の頃から関東武士の主だった氏族は、鎌倉公方に恭順する姿勢をみせるようになっていました。名実ともに関東の支配者となった足利氏満は、父基氏の資質を受け継いだ聡明な関東公方であると目されていましたが、その心の内に密やかな野望を宿していました。それは、京都の将軍の座を奪い、天下を支配したいという野望でした。
室町幕府の将軍足利義満と、鎌倉公方足利氏満は、どちらも室町幕府創始者である足利尊氏の孫であり、年齢は将軍義満のほうがひとつ年上でした。氏満にしてみれば、尊氏の孫である自分が将軍になってもおかしくないという考えを持っていたのでしょう。ましてや、氏満は関東の支配体制を確立し、関東武士たちから将軍のように崇められているのです。氏満の心に野心が芽生えるのは、当然のことだったのかもしれません。
1378年京都において、足利氏満の野心に火をつける事件が起きました。将軍義満を補佐する管領細川頼之に対して、斯波義将、土岐頼康、京極高秀など室町幕府を支える有力守護大名らが罷免要求を出してきたのです。細川頼之は、足利義満が三代将軍の座に就いて以来、管領として義満を支えてきた人物でした。頼之は、室町幕府の支配体制を強化するため南禅寺建仁寺など京都五山に対する統制を強める一方、奈良興福寺比叡山延暦寺などの南都北嶺に対しても圧力をかけたので、畿内の大寺院や仏教教団から反発を受けていました。また、頼之は守護大名家督相続に干渉したり、細川一族を重用したりしたため武家からの反発も受けていたのです。特に斯波義将は、細川頼之管領職を奪われていたことから、頼之を陥れる機会を窺っていたのでした。
有力守護大名から出てきた細川頼之に対する罷免要求を受けて、将軍足利義満は、室町幕府の安定を第一に考えて、細川頼之管領職を剥奪し、斯波義将管領職に据える決定を下しました。この管領職交代の事件を「康暦の政変」と言います。管領職から降ろされた細川頼之が、将軍に対して抵抗する姿勢を見せたので、将軍義満は頼之討伐の為に、軍勢催促を出しました。
この時、鎌倉公方足利氏満は、軍勢催促に乗じて関東の軍勢を率いて京都へ進軍し、将軍義満を討ち果たして自らが将軍の座に就くという野望を抱いたのです。氏満の謀略に気がついた関東管領上杉憲春は、氏満の無謀な計略を諌めたのですが、氏満はこれを聞き入れませんでした。氏満を説得できなかった憲春は、責任を取って自害し、自らの死をもって氏満を諌めたのです。足利氏満は、上杉憲春の自害によって、ようやく室町将軍の座を奪取するという野望をあきらめたのです。
しかし、関東管領の自害という異常な事態は、すぐさま京都の将軍義満に伝わったのです。義満は憲春の自害の裏には、鎌倉公方の野望があったことを見抜きました。そのため、これ以降将軍義満は氏満に対して警戒の目を向けるようになり、両者は対立するようになりました。この対立は、義満と氏満の時代だけにとどまらず、世代を越えて継続していくことになるのです。