歴史楽者のひとりごと

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東の将軍 鎌倉公方 その8ー 井の中の蛙だった足利満兼

1398年足利氏満は、病で亡くなりました。享年40才です。両上杉の管領に支えられた氏満は、関東の支配体制を充実させ、鎌倉公方を関東の将軍ともいえる立場へ押し上げたのです。氏満の跡を継ぎ三代鎌倉公方の座に就いたのは、氏満の嫡男である満兼でした。初代基氏、二代氏満が鎌倉公方になったのは元服する前でありましたが、満兼が鎌倉公方の座に就いたのは21歳の時でした。

鎌倉府の奥州進出
満兼がまず取り組んだのは、鎌倉府による陸奥・出羽両国の支配体制を固めることでした。前回説明したように、氏満の代に起きた小山氏の反乱では、小山政義の跡を継いだ若犬丸が、陸奥国の豪族田村氏の支援を受けて長期間に渡り抵抗を続けました。このため、奥羽の勢力が足利氏の支配体制に敵対することを危惧した将軍義満は、鎌倉府の管轄下に陸奥・出羽両国を置くことを認めたのです。
二代鎌倉公方足利氏満は、奥羽に在住する足利方の武家を使って奥羽の統制を試みたようですが、満兼はこの方策を一歩進めて、二人の弟を奥州に派遣し奥州の統制を強化しようとしました。足利満貞陸奥国稲村(福島県須賀川市)へ派遣され、足利満直が陸奥国篠川(福島県郡山市)へ派遣されました。この二つの出先機関はそれぞれ稲村御所、篠川御所と呼ばれるようになりました。
稲村・篠川の両御所は、現在の福島県南部に位置しており、関東と奥州の国境であった白河の関の目と鼻の先でした。この位置では、奥州の南端に寄りすぎており、陸奥・出羽両国を支配する政庁を置く場所としてはかなり無理な場所でした。しかし、この地より北には伊達氏や大崎氏など奥州の強力な武家が存在し、鎌倉公方の支配に反発する姿勢を見せていました。そのため、足利満兼は奥州の中心部へ深く押し入ることができなかったのです。
奥州北部で勢力を張っている伊達氏は、もともと関東出身の武家でした。伊達氏の祖である常陸入道念西は、常陸国伊佐荘(茨城県筑西市)の住人でしたが、奥州藤原氏を討伐する源頼朝の軍勢に加わり奥州へ遠征したのです。念西が配置された大手軍は、陸奥国伊達郡石那坂(福島県福島市)で奥州藤原氏の軍勢と遭遇し合戦となりました。この合戦は頼朝軍と奥州の軍勢が遭遇した最初の戦いでしたが、激戦となりました。その激戦の中で、念西は三人の息子たちとともに奮戦し、頼朝軍の勝利に大きく貢献したのです。その軍功によって、念西は頼朝から伊達郡を恩賞地として与えられたのです。その後、念西はこの地に土着し伊達氏をと称するようになったのです。
石那坂の合戦で奥州藤原氏の軍勢として戦ったのは、信夫荘司の佐藤一族でした。佐藤一族の中でも佐藤継信と忠信の兄弟は、源義経の股肱の忠臣で、源平合戦では義経に従い西国へ遠征しました。兄継信は屋島の合戦の際に義経をかばって矢面に立ち討ち死にしました。また、弟忠信は義経が頼朝から追われる身となった時に、義経の身代わりとなり、後に京都で切腹死しました。石那坂の合戦では非業の死を遂げた佐藤兄弟の父元治が藤原方として戦い、激戦の末討ち死にしています。佐藤一族の忠臣ぶりと悲劇は長らく東北地方の人々の間で語り伝えられ、松尾芭蕉も「奥の細道」の旅でこの地を訪れています。
奥州には伊達氏と同じように、源頼朝の奥州遠征の際に恩賞地を与えられた葛西氏や、南北朝の時代に奥州へ派遣され定着した斯波氏を祖とする大崎氏など、関東出身の武家が数多く存在して勢力を伸ばしていました。しかし、もはや彼らは奥州の武家として独自の立場をとっており、決して鎌倉公方の傘下に入る気はありませんでした。そのため、鎌倉公方による奥州支配は、ほんの一部の地域に限定されたものでした。

応永の乱
足利満兼は弟たちを派遣して、白河の関をわずかに越えた地域を鎌倉公方支配下に組み入れたことに満足し、己れの力を過信したのです。関東が、鎌倉公方支配下で平穏であるのは、祖父基氏が死に物狂いで軍事行動を続け、関東平定に力を尽くしたおかげです。鎌倉府の政治体制が整い、関東八家と呼ばれる有力な武家鎌倉公方に従っているのは、父氏満のもとで働いた関東管領上杉氏の努力によるものです。しかし、浅はかな足利満兼は己れの力で関東の支配者になったと思い違いをし、京都の室町将軍と肩を並べた気でいるのでした。
満兼もまた、父氏満と同じように室町将軍の座に就き天下に号令したいという野望を抱きました。これは、足利尊氏の血を引く者の宿命なのでしょうか。そして、満兼の時代にもまた、西国では鎌倉公方の野心に火をつけるような事件が起きたのです。西国の太守大内義弘が、鎌倉公方足利満兼と手を結び、謀反を起こして室町幕府を倒そうという話を持ちかけてきたのです。
大内義弘は、1391年(明徳二)明徳の乱山名氏清の討伐を将軍義満から命じられました。大内義弘は、京都に迫ってきた氏清の軍勢と戦い、これを滅ぼしました。それまで山陰・山陽の十一ヵ国の守護を兼務し繁栄してきた山名氏は、明徳の乱に敗北し三ヵ国の守護に落ちぶれ衰退したのです。一方、明徳の乱で功績をあげた大内義弘は、周防、長門、石見、豊前、和泉、紀伊の六ヵ国の守護となり、瀬戸内海の海上交通において大きな影響力を持つ存在となりました。また、大内氏は祖先が朝鮮半島の出身であるとして室町幕府と朝鮮の外交を仲介する一方、大内氏自身も朝鮮との交易を営み莫大な富を得ていたのです。
西国で勢力を拡大してきた大内義弘は、足利義満にとって目障りな存在でした。1394年義満は将軍職を息子の義持に譲り、自らは法皇となって日本国王のごとく振る舞いはじめていました。義満は日本国王として明国や朝鮮と外交関係を結ぶことを目指していました。それを実現させるためには、大内氏が握っている瀬戸内海の海上交通権を奪い、大内氏と朝鮮の間で行われている交易をやめさせる必要があったのです。そのため、足利義満は大内義弘に対して強い圧力をかけるようになったのです。
義満の圧力に対抗するため、大内義弘は謀反を起こすことを決意したのです。東国の支配者である鎌倉公方足利満兼と手を結び、東西から京都の義満を挟み撃ちすることで室町幕府を倒そうという計画を立てたのです。しかし、1399年に大内義弘が起こした反乱は、足利義満の直轄軍によってあっけなく鎮圧されました。それは、足利満兼が関東の軍勢を動かす前の出来事でした。そのため、足利満兼の謀反加担は未遂に終わったのです。この反乱は、「応永の乱」と呼ばれています。

応永の乱の際、将軍義満は、関東に不穏な動きがあったことを察知していました。義満は上杉憲定に書状を出して足利満兼の真意を探っています。義満の問い合わせに対して、上杉憲定は満兼に謀反を起こす気など毛頭無いとの返事を返しています。しかし、義満は満兼に対する疑いを晴らしてはおらず、その後、奥州の伊達氏を使って鎌倉公方を牽制する動きを取るのです。
陸奥国の伊達氏は、源頼朝公より頂いた先祖伝来の土地を守るため、室町幕府の呼びかけに応じて鎌倉公方に対する反乱を企てたのです。それより少し前に、満兼は伊達氏が所有する土地の一部を鎌倉公方に献上するように要求していたのです。この尊大な要求が、伊達氏ら奥州の武家の反発を招いたのです。これに対して足利満兼は、1400年3月上杉氏憲に命令を下し、伊達氏など奥州の反鎌倉勢力の討伐に乗り出しました。上杉氏憲は苦戦しながらも、従来からも足利氏に協力的であった白河結城氏の力を借りて、なんとか反鎌倉勢力の討伐に成功したのでした。
しかし、鎌倉公方の奥州支配は依然として南部陸奥国の一角に限定されており、それ以上は勢力圏を拡大することができませんでした。稲村御所と篠川御所に派遣された足利満貞と足利満直は、兄満兼のために力を尽くしたと云われています。ところが、四代鎌倉公方足利持氏の代になると、満貞と満直は室町幕府と手を結び、鎌倉公方に対して抵抗する勢力に変化するのである。結局、足利満兼が試みた奥州支配は、後の鎌倉公方にとって足かせとなるのです。

足利満兼が奥州支配に四苦八苦していたのとは対照的に、足利義満は日本国の支配者として着実に歩みを進めていました。義満が専制体制を築き始めたのは、細川頼之が失脚した康暦の政変の後のことです。1380年京都室町に花の御所が完成し、足利氏の政権は室町幕府と呼ばれるようになりました。義満は専制体制を確立するために有力守護や武将に干渉して、彼らを互いに争わせることで弱体化させていったのです。義満は、斯波、細川、山名、大内、今川などの勢力を押さえ込むことに成功し、これらの勢力が支配していた瀬戸内海から九州に至る海上交通権を手中に収めました。こうして、明国や朝鮮との交易を独占することが可能になったのです。
また、天皇家にも干渉し、官位の叙任権や僧侶、神官の位階の叙任権をも掌握することによって、貴族や寺社に対する支配権も手にしたのです。義満は、明国に朝貢することで明皇帝から日本国王として認知されました。義満は日本国王としての権威によって自分の息子を親王とし、新たな皇族として朝廷を開く寸前までこぎつけていました。しかし、1408年義満は急死し、義満の皇位簒奪計画はここに潰えたのでした。
足利義満が亡くなった翌年、三代鎌倉公方足利満兼もこの世を去ります。享年32歳。将軍になることを夢見た満兼でしたが、鎌倉公方として満兼が残した実績と、室町将軍足利義満が残した実績との間には実に大きな差があります。義満は有力な守護大名の勢力を削ぎ、近畿から九州を経て海外へ繋がる交易路を確保し、海外交易を独占しました。さらに古代から日本を支配してきた皇族・貴族を押さえつけ、新たな朝廷を開く寸前までいっていたのです。その壮大なスケールの業績に比較して、足利満兼の実績はなんと小さいことでしょう。それにもかかわらず、無謀にも足利満兼足利義満に挑もうとしたのです。その行為はまさに、井の中の蛙でした。