歴史楽者のひとりごと

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太田道灌 戦国時代前夜を鮮やかに駆け抜けた悲運の名将 前編ー江戸城築城

 東京都千代田区丸の内にある東京国際フォーラムは、ガラス張りの外観と船の竜骨をイメージしたデザインが印象的なビルである。この現代的なビルの一角に、古式ゆかしい狩装束に身を包んだ武人の像が置かれている。武人の名は太田道灌徳川家康に先駆けることおよそ130年前、道灌は江戸に城を築いた武将である。この時代の関東は戦乱の真っ只中にあった。道灌は戦乱に終止符を打つべく立ち上がった一代の英雄である。合戦に臨めばことごとく敵を倒し、名将道灌の向かうところ敵はいなかった。その武名は関八州に轟き、将兵たちは道灌を武神のように崇め、風に吹かれる草木のようにこぞって道灌になびいたという。

 しかし、今となっては道灌の武名を知るものなどほとんどいない。道灌の偉業は歴史の片隅に埋もれてしまったのである。かつて栄華を誇った江戸城の傍らで、ひっそりと道灌の銅像が佇んでいるだけである。

 

◆太田家の歴史

 太田道灌は謎多き武将である。その生涯を伝える歴史資料はわずかで、道灌自身が書いたとされる書状「太田道灌状」や室町時代の関東の戦乱を描いた軍記物である「永享記」「鎌倉大草紙」あるいは、道灌と同時時代に活躍し、道灌と深い交流のあった臨済宗の僧である万里集九が著した「梅花無尽蔵」などがその代表例である。太田家の先祖についても不明な点が多く、一説によれば太田家の先祖は丹波の出身で、鎌倉時代の後期に相模に移り住んだと伝わっているが、詳しい事はわかっていない。

 太田家の歴史に光が当たり始めるのは、室町時代の中頃からである。道灌の父太田道真が、関東管領山内上杉家の家宰として活躍していたことが永享記や鎌倉大草紙には書かれている。「永享記」には次のような記述がある。『家老太田備中守入道、智仁勇の三徳を兼ねたりき』つまり、太田道真は、知略に優れ、多くの将兵から信頼され、武勇に優れた類まれなる武将であったということだ。

 さて、ここで室町時代の関東についてその概要を説明せねばなるまい。室町時代の関東は、鎌倉に本拠地を置く鎌倉公方かまくらくぼう)によって支配されていた。鎌倉公方とは、足利尊氏室町幕府を開いた際に、関東を支配する役職として設置したもので、関東における将軍のような存在であった。その初代鎌倉公方に就いたのは、尊氏の三男である足利基氏であった。それ以来、鎌倉公方は基氏の子孫が代々世襲していたのだ。

 また、関東管領とは、鎌倉公方を補佐する役職であり、室町幕府における管領と同じような立場にあった。この関東管領職は上杉家が代々世襲していたが、上杉家は細かく家が分かれており、関東管領世襲する家は山内上杉家と呼ばれていた。山内上杉家は上野、武蔵、相模に広大な領地を所有する大勢力であったが、傍流の扇谷上杉(おうぎがやつうえすぎ)家は相模の一部を所有する小勢力でしかなかった。

 太田家は、その小勢力である扇谷家の家宰を務めていたのである。家宰とは聞きなれない言葉であるかもしれないが、他の言葉に言い換えると家老や執事と言うことができる。家宰の役目は、当主の代理として家政を取り仕切る一方、戦場では侍大将を務めたり、所領内での年貢の徴収を行うなど多岐にわたっており大きな権限を握っていた。

 道灌は1462年に父の跡を継いで扇谷家の家宰に就くことになる。それ以前の道灌の記録は1457年に江戸城を築城したこと以外はほとんど残っていない。道灌は1432年の誕生と伝わっているが、子供の頃の記録は皆無と言っていいほどである。(ただし、江戸時代になると道灌びいきの江戸っ子によって神童道灌の伝説が作られている。)おそらく道灌は少年時代を鎌倉の扇谷家の近くで過ごし、鎌倉五山に通って様々な学問を習得していたのではないかと推測される。道灌は、築城術や兵法に長けていただけではなく、京都五山の僧侶たちとも交流を持った文化人であり、漢詩や和歌の才能にも優れていたのだ。

 さて、小勢力である扇谷家に飛躍の機会が訪れた。1438年四代鎌倉公方足利持氏室町幕府に反旗を翻し謀反を起こしたのだ。世に言う「永享の乱」である。このとき関東管領上杉憲実は室町幕府側につき持氏と戦うことになった。関東管領軍のなかで際立った活躍をしたのが扇谷持朝であった。そして、太田道真は扇谷家の家宰として持朝を支えていたのである。

 扇谷持朝らの活躍もあって、足利持氏の反乱は成就せず、敗れた持氏は鎌倉の寺で謹慎していた。しかし、時の将軍足利義教は持氏を許さず、関東管領に命じて持氏の命を奪ったのである。持氏の死によって、およそ100年間続いた鎌倉公方はいったん途絶えてしまった。そして、鎌倉公方家と山内上杉家の間には深い遺恨が残ったのである。

 足利持氏の反乱は鎮圧されたが、その後の関東には不穏な空気が漂っていた。関東武士の中には下総の結城氏や下野の小山氏のように鎌倉公方の復活を望む者たちがいたのだ。1440年彼らは足利持氏の遺児である春王丸と安王丸の兄弟を奉じて下総の結城城に立て籠り、室町幕府に敵対したのである。幕府は直ちに関東管領に命じて討伐軍を編成し、結城城へ向かわせたのである。この戦いが結城合戦である。結城合戦は1年にも及ぶ長い籠城戦であったが、最後には関東管領軍の総攻撃を受けて城は落城し、春王丸と安王丸の兄弟は捕えられ京都に護送される途中で命を奪われたのである。

 この結城合戦においても扇谷家の軍勢は大いに活躍し勢力を拡大した。やがて、扇谷家は相模一国の守護になるまで成長した。主家の勢力拡大によって家宰を務める太田家の力も徐々に大きくなり、太田道真は相模国守護代になっていたと考えられる。

 

◆関東の大戦乱「享徳の乱」始まる

 鎌倉公方を支持する勢力は結城合戦に敗れてしまったが、まだあきらめてはいなかった。彼らは室町幕府重臣に多額の賄賂を贈り、鎌倉公方の復活を嘆願していたのである。長年に渡る彼らの嘆願運動はやがて実を結び、1449年持氏の遺児万寿王丸が足利成氏と改めて鎌倉公方に就任することになったのである。しかし、足利成氏が第五代鎌倉公方に就任したことは、結果として関東に大戦乱をもたらすことになったのだ。

 先にも説明したように、永享の乱の結末で足利持氏は上杉憲実によって自害に追い込まれていた。そして、その憲実の息子である上杉憲忠が、あろうことか関東管領に就任したのである。成氏にとってみれば憲忠は親の仇も同然であり、二人の関係が良好に行くはずはなかった。さらに、成氏は結城合戦で二人の兄を失っているのである。鎌倉公方関東管領の間に対立が生じるのは必然であったのだ。

 

 1454年12月鎌倉公方足利成氏関東管領上杉憲忠を襲撃し、憲忠の命を奪った。この事件をきっかけに享徳の乱が勃発したのである。成氏の軍勢は強く、相模国の島ケ原合戦や武蔵国での分倍河原合戦に勝利した。対する上杉勢は上杉憲顕、上杉顕房など大将格の武将を相次いで失い、常陸国へ敗走し小栗城に立て籠ったのである。

 勢いに乗る足利成氏は上杉勢の追撃に移り、1455年5月小栗城を陥落させた。一方、成氏謀反の知らせを受けた室町幕府は、駿河守護の今川範忠に対して足利成氏追討の命令を下した。東海五か国の軍勢を従えた今川範忠は鎌倉に乱入して焼き討ちを仕掛けたので、源頼朝によって創造された源氏の聖地鎌倉は灰燼に帰したのである。

 しかし、鎌倉を失った足利成氏は全く動じていなかった。鎌倉は相模国にあり、その周辺は上杉氏の勢力下にある土地である。成氏にとって鎌倉は軍事上の重要な土地ではなかったのだ。むしろ、足利成氏は、鎌倉公方の御領所である下総下河辺庄や下総猿島郡などを拠点にしようと考えていた。その周辺には、下総国の結城氏や千葉氏、下野国の小山氏、常陸国の小田氏など成氏の与党が支配する地域であった。こうして足利成氏は下総、下野、常陸の中心に位置する下総下河辺庄の古河城を拠点に定めたので、これ以降足利成氏古河公方と呼ばれたのである。

 

 享徳の乱は、瞬く間に関東一円に広がった。序盤の戦いでつまづいた上杉勢は、劣勢に立ち続け、なかなか態勢を立て直せずにいた。下総国では有力な武家である千葉氏が成氏派と上杉派に分かれて争っていたが成氏派が勝利し、上杉派の千葉胤直と胤宜親子は自害した。また、武蔵国では山内上杉家の家宰である長尾景仲が守る武蔵騎西城が成氏方の武田信長・里見義実の軍勢によって攻撃され、長尾勢は数百人が討ち取られて城は落城した。武田信長は、甲斐武田氏の一族であるが、足利成氏鎌倉公方の座に就くやいち早く拝謁して近臣となっていた武将である。1456年武田信長は、上総国の侵略に成功し真里谷城・長南城を築いて上総国を支配した。また、同じく成氏の近臣である里見義実は、武田信長の動きに連動して安房国の侵略に成功し十村城を拠点にして安房国を支配した。さらに成氏方の攻勢は続き、上杉方の本拠地である上野国の天命・只木山へ攻撃を仕掛けた。成氏の軍勢は、天命・只木山に通じる道を封鎖し兵糧攻めを仕掛けたのである。数か月に渡る攻防の末、天命・只木山の陣は陥落し上杉勢は本拠地を失ってしまったのである。

 こうして、1456年の時点では、関東八か国のうち常陸、下野、上総、下総、安房の五か国が古河公方支配下にあり、関東管領上杉氏の支配する国は相模、武蔵、上野の三か国しかなかったのである。

 

太田道灌は何故江戸に城を築いたのか

 劣勢に立たされた関東管領上杉氏は、古河公方の猛攻を防ぐため、利根川沿いに城を築き防衛線を構築することにしたのである。この時代の利根川は、徳川家康が東遷工事をする以前の利根川であるので、まさに、関東管領の支配する地域(西岸)と古河公方の支配する地域(東岸)との境界を流れ、最終的に江戸湾に注いでいたのである。

 上杉勢は、天命・只木山に代わる新たな本拠地として利根川流域の武蔵国五十子(いかつこ)(現在の埼玉県本庄市)に陣を構築した。五十子陣は「陣」と呼ばれているが、利根川を臨む台地の上に築かれており、土塁や枡形を備えた本格的な城であったと考えられている。上杉勢は、この五十子陣を北の起点として深谷城、松山城河越城利根川西岸を南下しながら城を構築し、利根川の河口部にも城を築くことにしたのである。

 この河口部の城づくりを任されたのが太田道灌であった。道灌が城を築く場所として定めたのが江戸湾を臨む江戸の地であった。当時の江戸湾には伊勢との間に航路がひらかれ遠国から船の往来があった。海路で運ばれてきた積み荷は江戸湊や品川湊で降ろされ、さらに利根川多摩川の水運によって関東の内陸部へ運ばれていったのだ。江戸は商業地や物流拠点として栄え、湊には鈴木、榎本、宇井など「有徳人」と呼ばれる大商人が店を構えていた。また、江戸湊や品川湊には多くの船が出入りしていたが、江戸を支配する者は、それらの船から「帆別銭」という税金を徴収し大きな富を得ることができたのである。太田道灌は、経済・物流の拠点である江戸を支配することで自らの勢力を拡大し、城を築くことで江戸の守りを固め、利根川の対岸に存在する古河公方の勢力に目を光らせていたのである。

 太田道灌の行動は、戦国時代において上杉謙信織田信長が実施した富国強兵策と同じやり方なのである。だからと言って、謙信や信長が道灌をお手本にしたわけではない。群雄割拠する戦国時代において勢力を拡大していくためには、海に面した商業地を支配し、そこから巨万の富を得ることが理にかなっており、頭の良い武将ならば必ず思いつく方策であったということだ。太田道灌はそのような戦国武将の先駆者であったのだ。

 

 最近、徳川家康が来る前の江戸は、寂しい漁村であったという話がTVや本で紹介されているが、私はこの説に賛成できない。たしかに、太田道灌が拠点とした江戸は、京都や堺など当時の大都市と比べたら小規模な都市でしかないが、粗末な小屋が数軒あるだけの辺境の地ではなかったはずだ。徳川家康が江戸に拠点を置いたこと自体が、そのことを証明していると思う。

 家康が豊臣秀吉の命令で関東へ国替えになったのは1590年のことである。当時の家康は秀吉に対して恭順の姿勢を見せてはいるが、腹の底には天下取りの野望を秘めていたはずである。その家康が荒野のような場所を本拠地とするであろうか?家康は関東を手中に収め、一刻も早く西の秀吉に対抗したかったはずである。そのためには、何も無い荒野をいちから開発して城下町を建設するのではなく、既存の城や都市機能を土台にして再構築し、早急に強固な軍事拠点を築く方が理にかなっていたなずである。そして、家康は関東の中でどこでも自由に本拠地を選ぶことができたのだ。

 例えば、北条なきあとの小田原に城を築くこともできたであろうし、家康が源氏の末裔である称するならば、源氏の聖地である鎌倉に城を築くことも効果的であったはずだ。それにもかかわらず、家康は数ある候補地の中から自分の意志で江戸を選んだのだ。家康は非常に慎重な武将であり、リスクを冒すよりも保守的な考え方に従って堅実な方策を選択する武将である。その家康が江戸を選択した理由は、江戸が海と川が接する位置にあって湊が開かれ、商業地や物流拠点として既に機能していたことに加えて道灌が築いた難攻不落の江戸城を使わない手はないと考えたからであろう。

 もっとも、家康は関ヶ原の合戦に勝利して江戸幕府を開いたおりに、江戸城を大改修してしまったので、道灌時代の城の痕跡は全く残っていないのだ。あえて言うならば、現在の皇居東御苑にある梅林坂は、道灌が江戸城内に天満宮を建立した際に植えた梅林のあった場所であると伝わっている。

 

◆道灌の江戸城

 それでは、太田道灌が築いた江戸城について説明しよう。道灌が江戸城を築いた場所は、現在の皇居東御苑本丸跡地付近であると考えられる。この頃、現在のJR新橋駅から日比谷を経て皇居前広場および丸の内一帯は、日比谷入江と呼ばれる海が広がっていた。日比谷入江は、現在のJR山手線の新橋~浜松町間で江戸湾と繋がっていたのだ。道灌はこの日比谷入江に突き出た台地の上に城を築いたのである。台地の東側にある平川濠、大手濠、桔梗濠は日比谷入江に注いでいた川の名残である。つまり、道灌の江戸城は川と海に囲まれた台地の上という天然の要害を利用して築かれた城であったのだ。

 当時の江戸城の様子を伝える貴重な資料がある。1476年に京都五山の僧侶たちが道灌の江戸城を称えるために作った詩文があるのだ。それが「寄題江戸城静勝軒詩序」である。2018年に国立公文書館で開催された企画展「太田道灌と江戸」には、現存する最古の「寄題江戸城静勝軒詩序」を写した文書とその意訳が展示されていたが、ここではその意訳を紹介する。

 

 城の高さは約30メートルで、崖の上にそびえたち、周囲を数十里にわたって垣が囲っている。

 城の外側には堀があって、常に水が湛えられており、堀には橋が架かっている。

 門の表面には鉄板が付けられ門の垣根には石が積まれ、城の本塁に至る通路は石段であり左右に迂回しながら登る構造になっている。

 城の中には、道灌の居館である「軒」と、その背後に「閣」(高い建物)があり、その側には家臣の住居が翼を広げるように建ち並び、その他に、「戌楼」(物見櫓)・「堡障」(防御施設)・「庫痩」(倉庫)・「厩」・廠(武器庫)がある。

 「軒」(道灌の居館)の南には「静勝」、東には「泊船」、西には「含雪」と名付けられた建物がある。

 城の東側には川(平川)が流れ、折れ曲がっていて南方の海(日比谷入江)に注ぐ。海には大小の商船が行き交う様子と漁船の篝火が、生い茂る竹と遠くの雲間から見える。

 商船と漁船は高橋のしたに係留され、そこに集まった人々が毎日市を開いていた。市では安房の米、常陸の茶、信濃の銅、越後の矢竹、相模の旗や指物を持った騎馬武者と歩兵、泉州(中国)の珠、犀角(サイの角、粉末にして薬用にする)・すぐれた香料を始め、塩魚・漆・からむし(織物の原料となる草)・梔(くちなし)・茜・膠・薬など様々な取引がおこなわれている。

 

 これは、道灌と同時代を生きた京都五山の僧侶が、築城から20年後の江戸城と城下の様子を描いた詩文である。道灌の城を褒め称えるために多少の誇張はしてあるかもしれない。それでも、この詩文からは、高さ30メートルの崖の上に築かれ、水を湛えた堀や堅牢な城門や石垣によって守られた城の外観や、道灌の居館や家臣の住居、楼閣、櫓、倉庫、武器庫など数多くの建物が建ち並ぶ場内の様子を窺い知ることができるのである。また、日比谷入江から江戸湾にかけて多数の商船や漁船が行き交う様子は壮観であり、城下の市場の賑わいも目を見張るものがある。これが、徳川家康が来るおよそ130年前の江戸の賑わいなのである。

 一方、1485年に江戸城を訪れた禅僧にして歌人の万里集九も「静勝軒銘詩」を残しているが、その序文では江戸城内で道灌が兵士たちを鍛えていた様子が描かれている。道灌は江戸城内に弓場を造り、数百人の将兵に弓の訓練をさせていた。道灌は、兵士たちの弓の腕前を上中下の三ランクに分けて評価し、訓練を怠っている者からは罰金を取ったという。その罰金を積み立てて、訓練の後に兵士たちが食べる茶菓子を買っていたというのだ。

 この万里集九の文書に従えば、道灌は江戸城で数百人の兵士を養っていたことになる。おそらく、道灌はこの兵士たちに領地を与えるのではなく、金銭を給料として与えていたのだ。道灌は既に室町時代の中期において兵農分離を行い常時軍事行動を行うことができる質の高い軍隊を持っていたことになる。

 ここに、道灌の先進性が現れている。戦国時代になると上杉謙信織田信長は、兵農分離を行い強力な軍事力を持つことになるのだが、道灌は彼らよりも100年も前にそれを実現していたのだ。兵士たちを農村から切り離し、戦いに従事する戦闘集団とするためには、兵士たちを養う経済力が必要になるが、その経済力の源泉が湊と市場を持った江戸という都市の存在なのである。前述した「寄題江戸城静勝軒詩序」に描かれていた江戸城下の市場の賑わいを思い出して欲しい。道灌は江戸の経済力を背景に富を獲得して兵士を養っていたのである。

 すなわち、太田道灌は、戦国時代の代名詞ともいうべき富国強兵を実践していたのだ。道灌が鍛えた兵士たちは足軽と呼ばれている。それが、戦国時代の足軽と同様の意味なのかは不明であるが、戦場の戦いぶりからすると、彼らが機動力に優れた兵士たちであったということが窺い知れるのである。

 中編は、この兵士たちの活躍を紹介します。

 

今回参考にさせていただいた資料は以下の通りです。

図説 太田道灌 黒田基樹 戒光祥出版

関東戦国史(全) 千野原靖方 崙書房出版

武士はなぜ歌を詠むか 小川剛生 角川学芸出版

国立公文書館 展示品 「寄題江戸城静勝軒詩序」