歴史楽者のひとりごと

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東の将軍 鎌倉公方 その9ー 上杉禅秀の乱

満兼の死後、その跡を継いで四代鎌倉公方に就いたのは満兼の嫡男幸王丸でした。関東足利家は初代鎌倉公方基氏の尽力によって関東を平定し、その後二代氏満、三代満兼と安定した政権を確立し関東を支配してきました。ところが、四代幸王丸(元服後は持氏)が鎌倉公方の座に就くと、関東足利家では内部崩壊の兆しを見せ始めるのです。
幸王丸が鎌倉公方に就任した翌年1410年には、叔父である足利満隆が謀反を企んでいるとの風聞がたちました。幸王丸が鎌倉公方になったのは12歳のときでした。幼い鎌倉公方を側面から支える立場であるはずの満隆は、幸王丸を恫喝し鎌倉公方の座を奪おうとしたのです。鎌倉公方の関東支配が始まっておよそ60年が経過していましたが、その間、関東足利家は一糸乱れぬ結束を保ってきました。ところが政権基盤が安定してくると関東足利家の内部に緩みが生じてきたのです。結束の乱れを作り出した原因は、二代氏満、三代満兼の心に生じた野望が原因であると私は考えます。
氏満、満兼というふたりの凡庸な君主は、自分達の実力不足を顧みず、不届きにも京都の将軍になりかわって天下を支配するという野望にとりつかれたのです。分家である関東足利家が、謀反を起こして主家である室町幕府を倒そうという不埒な考えにとらわれていたのです。関東足利家のトップがそのような野望にとりつかれていたのであれば、鎌倉のなかに下克上のような風潮が蔓延するのは当然のことです。初代基氏以来、関東を支配してきた鎌倉府は、やがて、身内や家臣の反乱によって内部崩壊していくことになるのです。
幸王丸が鎌倉公方に就任した直後の内訌は、関東管領上杉憲定のとりなしによってなんとか納めることができました。最初の難局を乗り切った幸王丸は、1410年12月に13歳で元服し、足利持氏と名乗るようになりました。その翌年、持氏が頼りにしてきた関東管領上杉憲定が病死しました。憲定に代わって関東管領に就任したのは上杉禅秀(氏憲)です。上杉禅秀犬懸上杉家の出身でしたが、犬懸上杉から関東管領がえらばれたのは、実に20年ぶりのことでした。この20年の間、関東管領職を独占してきたのは山内上杉家でした。閑職に甘んじていた犬懸上杉家の人々は、不満を募らせ、いつか再び力を取り戻せる機会を狙っていたことでしょう。
そして、上杉禅秀の時代にようやくその機会が巡ってきたのです。ただし、禅秀の考えは関東管領職に就いてその役目を全うするだけでは収まりませんでした。禅秀は、関東に巣くう不満分子を集めて謀反を起こし、影の支配者となることを目論んでいたのです。
禅秀は、密かに関東の不満分子に声をかけると同時に、足利満隆にも声をかけました。それは、謀反に大義名分を得るためでした。鎌倉大草紙は足利満隆に対して禅秀が次のように語ったと伝えています。
「持氏公のご政道は悪く誰もが不満を持っています。ご政道を改めなさいませと、持氏公をお諌めしたのですが、まったく聞く耳をお持ちでないのです。このような悪政が続けば、やがて謀反人が出て鎌倉へ攻め寄せ、足利家は滅ぶやもしれません。そうなる前に、持氏公に代わって満隆様が鎌倉公方におなりください」
禅秀の訴えを聞いた足利満隆は、大いに喜んで謀反の旗印となることを了承したのです。
謀反の一味にはもう一人注目すべき人物がいます。それは三代将軍足利義満の息子である足利義嗣です。義嗣の生母は、足利義満正室日野康子でした。義満が全盛期の時代、日野康子は、後小松天皇の准母(名目上の母)となりました。そのおかげで、義嗣は親王の待遇をえることができたのです。義満は義嗣を皇太子にすることに成功し、あと一歩で足利義満の息子が天皇になる寸前までこぎつけていたのです。しかし、義満が急死したことで義嗣は天皇になることができませんでした。それだけではなく、室町将軍の地位につくこともできませんでした。なぜなら、義満は生前に義嗣の異母兄の足利義持に将軍の座を譲っていたからです。こうして、義嗣は父が急死したことで全てを失っていたのです。
失意のどん底にあった義嗣は、起死回生の策を思いつきます。それが、上杉禅秀と手を結び、禅秀が鎌倉府を転覆させるのと時を合わせて、京都で謀反を起こし、義持を倒して義嗣が将軍の座につくというものでした。義嗣は京都から鎌倉の禅秀のもとへ密使を派遣し連絡を取り合っていたのです。こうして、上杉禅秀の呼び掛けによって、不満分子の面々や持たざる者たちが集まり謀反の準備が進行したのです。
1415年上杉禅秀関東管領の職を辞しました。理由は禅秀の家臣に対する関東公方の処罰に対する抗議でした。しかし、禅秀の辞職は、謀反の準備を進めるための表だった理由に過ぎないでしょう。
そして、1426年10月2日の夜、ついに上杉禅秀の乱が始まりました。まず足利満隆と甥の持仲が鎌倉西御門の宝寿寺で謀反の旗をあげました。上杉禅秀は軍勢を率いて持氏の御所に襲いかかりました。この時、持氏は酒を飲んで酔いつぶれ寝床に入っていました。家臣から禅秀謀反の知らせを聞いた持氏は、当初禅秀の謀反を信じなかったそうです。持氏は禅秀が病に臥せっていると正直に信じていたのです。「禅秀は病を装って謀反を企んでいたのです。とにかく、今はここからお逃げください。」そう家臣から促されてた持氏は、御所を脱出し馬に乗って逃げたのです。
上杉禅秀関東管領職を辞したあと、その職に就いていたのは山内上杉家の上杉憲基でした。その夜憲基も酒宴を開いていたのですが、禅秀謀反の第一報を聞くと慌てることなく武具を用意させ出陣の支度を整えたということです。憲基は700騎の軍勢を従えて、持氏を奉じて禅秀との合戦に備えました。翌10月3日は悪日であったので両軍とも動かず、合戦は起こりませんでした。10月4日未明、上杉憲基が軍勢を動かすと、若宮大路に陣取っていた足利満隆の軍勢が一斉に攻めかかり合戦が始まりました。
軍勢の数に勝っていたのは禅秀・満隆のほうでした。敵方が一気に押しまくってきたので持氏・憲基の軍勢は劣勢に陥り鎌倉を捨て小田原へ逃げ込みました。しかし、小田原にも禅秀に味方する土肥・土屋の軍勢が攻め込んできたので、持氏と憲基の軍勢は箱根山中に逃げ込まざるを得ませんでした。持氏は箱根山中で憲基とはぐれたのですが、箱根山別当の証実に助けられ駿河国へ逃げ込み、駿河国守護今川範政のもとに庇護されたのです。一方、上杉憲基は伊豆の清国寺にたどりつき、そこからさらに越後へ落ちのびたということです。
上杉禅秀の軍勢は、鎌倉を占拠し、足利満隆は早くも鎌倉公方を称しだしました。室町幕府は関東内乱の情報は掴んでいたものの、当初は静観していました。これまで、鎌倉公方は何かと幕府に反発してきました。室町幕府にとって鎌倉公方は目障りな存在であり、鎌倉公方の力が内乱で衰えることは、むしろ室町幕府にとって好都合だったのです。
しかし、10月29日になって、室町幕府の方針は持氏を助けることに急展開しました。幕府は、駿河国守護今川氏と越後国守護上杉氏に対して、持氏を助けるように命令を出したのです。上杉禅秀が鎌倉をあっさりと陥落させ新たな政権を樹立させたことは幕府にとって予想外の出来事でした。このまま反乱が拡大し、室町幕府に対抗する勢力が誕生することは、非常に危険なことであるし、将軍義持は持氏の烏帽子親であることから、持氏を見捨てることができなかったのです。
室町幕府から上杉禅秀討伐の命を受けた今川範政は、足利持氏を帯同して駿河より軍勢を率いて発進しました。今川範政は鎌倉へ向かって進軍しつつ、謀反の軍勢に寝返りを呼び掛けたのです。「今すぐ幕府方に寝返れば、謀反に荷担した罪には問われない。だが、あくまでも謀反の一味に加わり続けるならば、幕府の沙汰によって所領は没収されることになる。」
今川軍が相模国に入るないなや、寝返りの呼び掛けは絶大な効果を発揮しました。謀反の一味は次々と幕府方に寝返り始めたのです。とうとう禅秀は孤立し、1月10日足利満隆、持仲、上杉禅秀は鎌倉で自害し、上杉禅秀の乱終結しました。
一方、上杉禅秀とともに京都で謀反を起こすことを約束していた足利義嗣はどうしていたでしょうか。ふがいないことに、義嗣は何ら軍事行動をとってはいませんでした。しかし、義嗣が上杉禅秀の乱に荷担していることを、室町幕府は掴んでいました。謀反の罪を逃れようとした義嗣は、京都から逐電し出家していましたが、幕府に捕らえられ1418年に処刑されています。一時は次の天皇と目されていた男の哀れな最期でした。