歴史楽者のひとりごと

こんにちは、歴史を楽しむ者のブログです。

室町時代を戦国時代へと向かわせた歴史的大転換点 足利義満の死

1.いまは歴史の大転換点

 日本はいま新型コロナウイルスの猛威にさらされ非常に困難な時代を迎えています。ほんの数か月前まで日本の未来は希望に満ちあふれているような気がしていました。インバウンドによる好景気、平成から令和の改元と新天皇のご即位による祝賀ムード、そして間近に迫っていた2020年東京五輪など安倍政権が作り出したなんとなく明るい未来予想図によって日本人の心は浮き立っていました。しかし、突然襲ってきた新型コロナウィルスの流行によって、日本の未来には暗雲が立ち込めています。私たちはなんとかして新型コロナウィルスに立ち向かい、この危機的状況を乗り越えなければなりません。まさにいま私たちは、歴史の大転換点に立っているのです。現在の私たちの決断と行動がこれからの日本の未来を決めると言っても過言ではありません。私たちはそのこを肝に銘じて生きていかねばなりりません。

 さて、日本の長い歴史の中では何度も現在と同じような歴史の大転換点がありました。その中で、今回は室町時代の大転換点に注目してみたいと思います。室町時代から戦国時代への転換点といえば、みなさんがすぐに思いつくのは「応仁の乱」でしょう。畠山家の家督相続争いに端を発した戦乱は京の都から瞬く間に全国へ広がり、日本は戦国時代へと突入していきました。応仁の乱を契機に戦乱が日本全国に拡大したのには様々な要因があるのですが、今回私が取り上げるのは、足利将軍家の衰退です。大河ドラマ麒麟がくる」においても向井理さん演じ13代将軍足利義輝は全く無力な将軍に落ちぶれています。いったいどうして足利将軍家の力は弱体化したのでしょうか。

 足利将軍家が衰退したきっかけとして私が注目するのは、3代将軍であった足利義満が急死したことです。室町幕府の全盛期を築き上げた足利義満は将軍の座を息子の義持に譲り自らは天皇の准父(名目上の父親)として上皇のように振舞い、義持の異母弟義嗣を皇太子の地位につけることに成功していました。順調にことが進んでいけば義嗣が次の天皇になることは間違いないという矢先、1408年足利義満は急死してしまいました。この青天の霹靂のような出来事によって、永遠の繁栄が続くかと思われていた足利将軍家の未来に暗雲が立ち込めたのです。まさにこの時の状況は、現在の日本の状況に通じるものがあるのです。そこで、室町時代足利将軍家が衰退していった歴史を調べることは、私たちがこれから決断や行動すべき時に何か参考になるものがあると思うのです。

 

2.足利義満の歴史的業績

 まず、室町幕府の全盛期を築いた足利義満の歴史的業績について注目してみましょう。

 ①南北朝の合体(1392年)

 ②朝廷から京都の市政権、段銭・棟別銭の徴収権を吸収

 ③室町に「花の御所」を造営

 ④有力守護大名の勢力削減

 ⑤日明貿易の推進

 ⑥五山・十刹の制の整備

※新詳日本史((株)浜島書店)より引用しました。

 上記に挙げた6つの歴史的な業績によって足利義満足利将軍家の「支配力を強化」し「経済力を向上」させ「強力な軍事力」を持つことによって専制支配体制を確立させたのです。

 室町時代とは戦乱の時代でした。後醍醐天皇足利尊氏新田義貞らは協力して鎌倉幕府を滅亡させましたが、そののち後醍醐天皇新田義貞足利尊氏は対立し激しく争うようになりました。新田義貞を倒した足利尊氏征夷大将軍となり京都に幕府を開き武家政権を樹立しましたが、後醍醐天皇は吉野へ逃れ南朝を開いて尊氏に対抗しました。南北朝の対立は全国に波及し戦いは果てしなく続いていました。

 2代将軍足利義詮は、南朝方との戦いを有利に進めるために西国の山名氏や大内氏など守護大名の協力を得たのですが、その一方でこれら守護大名の地域支配権を認めたので西国の守護大名は大きな勢力を持つようになったのです。こうして、室町幕府は有力守護大名の力を借りて南朝の勢力を弱体化させることに成功しました。ところが、3代将軍義満は、南朝の勢力が衰えてきたところを見計らって、今度は有力守護大名の勢力を弱体化させ足利将軍家の支配力を強化しようとしたのです。

 

3.足利将軍家の支配力強化

 義満のとった守護弱体化策はじつに巧妙でした。美濃、尾張、伊勢に勢力を張っていた土岐氏に対しては家督相続に介入し土岐氏を分裂させ弱体化させました。山名氏に対しても一族の内部対立に介入し山名氏清を挑発して反乱を起こさせました。義満は周防の実力者大内氏を使って山名氏清の反乱(明徳の乱)を抑え込みました。一時は山陰を中心に11か国の守護を独占していた山名氏は、わずか3か国の守護に落ちぶれてしまいました。さらに義満の守護弱体化策は続きます。義満の矛先は、山名氏に代わって西国の太守となった大内氏に向けられました。危機を悟った大内氏は、鎌倉公方足利満兼と手を結び東西で同時に反乱を起こすことを計画しましたが、鎌倉公方の反乱は不発に終わりました。大内氏は単独で反乱(応永の乱)を起こしましたが、義満の直轄軍によって倒され、大内氏の勢力もまた衰えてしまったのです。こうして、足利義満は有力守護大名の勢力を弱体化させる一方、南北朝を合体させることにも成功し敵対する勢力を全て抑え込み強力な支配体制を確立することができたのです。

 

4.経済力の強化

 足利義満大内氏に戦いを仕掛け倒したのは支配力強化のためだけではありませんでした。義満の目的は、大内氏が支配している瀬戸内海の海上交通権を奪い、朝鮮や中国と直接交易をすることでした。明との国交を開いた義満は日明貿易を推進し、足利将軍家の経済力を強化したのです。当時明から日本に輸入された主なものは銅銭でした。銅銭が日本国内に流通することで貨幣経済が発達しました。これは、余剰生産物を富として蓄積することができることを意味しているのです。

 強力な支配力を手にした足利将軍家は全国各地に直轄領(御料所)を所有していましたが、そこで生産される余剰生産物も貨幣に交換され富として蓄積できるのです。また、義満は室町時代の金融業者である土倉や酒屋に対する課税徴収権を朝廷から奪いました。このようにして経済力を強化した足利将軍家は、将軍直轄の軍勢を持つことができたのです。

 

5.足利将軍の直轄軍

 室町時代最後の将軍となった足利義昭は軍事力を持っていなかったので、諸国の戦国大名に声をかけてその力を借りようとしていたわけです。義昭の呼びかけに応じて軍事力を提供したのが織田信長でした。義昭は信長の軍事力によって将軍となったのですがその後両者は対立し、信長は義昭を追放し室町幕府は滅びたのです。

 しかし、3代将軍義満の時代には、足利将軍は自前の軍勢を持っていたので守護大名の軍事力を借りる必要はなかったのです。前述したように、将軍の直轄軍は西国の太守大内義弘の軍勢を倒すほど強力な軍勢でした。この強力な軍事力によって足利義満は敵対する勢力を全て倒し、専制支配体制を確立することができたのです。

 

6.義満の王権奪取計画

 1394年足利義満は将軍の座を息子の義持に譲り自らは太政大臣に就任します。やがて義満は太政大臣も辞任して出家してしまいます。豊かな経済力と強力な軍事力を手にし史上最強の権力者となった足利義満にとって、もはや世俗の肩書など必要なかったのです。そして、その強大な権力によって皇室にも圧力をかけ義満は天皇の准父(名目上の父)となり4代将軍義持の異母弟である足利義嗣を皇太子とすることに成功していました。1402年明国の皇帝から日本に送られてきた国書には、日本国王として義満の名が記載されていたのです。まさに義満の栄華は頂点に達していました。しかし1408年足利義満は急死し義満の王権簒奪計画は成就しなかったのです。

 

7.義満の死後

 希代の英雄足利義満の急死によって栄華を極めていた足利将軍家は突然歴史の転換点に立つことになりました。義満はたった一代で室町幕府の全盛期を築き上げたのですが、ただひとつやり残していたことがありました。それは、自分の後継者を育てていなかったということです。義満は息子の義持に将軍の座を譲り渡していましたが、実権を握っていたのは義満でした。言わば、4代将軍義持は飾り物にすぎなかったのです。義満が溺愛していたのは義持ではなく異母弟の義嗣でした、義満は義嗣を天皇にすべく様々な手を打っていたわけです。しかし、この義嗣も甘やかされて育った凡庸な人物だったようです。義満の死から8年後のこと、足利義嗣は関東の上杉禅秀と手を結び室町幕府を倒す計画を立てるのですが、実際は何もできず逃走してしまいます。義嗣は反乱の加担した罪で幕府に捕らえられ殺されてしましました。

 義満が急死した後、後継者候補となったのは義持と義嗣という二人の凡庸な息子たちでした。室町幕府重臣となっていた守護大名たちは、この機を逃さず自分たちの勢力を挽回しようと考えたのです。おそらく幕府の重臣たちは、義持に対して「自分たちの意に従わなければ義嗣を義満の後継者にするぞ」という脅しをかけたのです。義持は自分の保身だけを考えて、幕府の重臣たちに従ったのでしょう。その結果、義持は将軍の地位にとどまることができたのです。

 実は義満の死後、貴族たちは義満に「太上天皇」の称号を贈ることを正式決定していました。しかし、室町幕府は称号を受けることを断ったのです。天皇と将軍が結びついて足利将軍による専制的な支配が継続することを守護大名は拒否し、義満によって削がれてしまった自分たちの力を取り戻す方向に舵を切ったのです。

 足利義持守護大名たちと安易な妥協を図ったために、足利将軍家が繁栄する道を閉ざしてしまったのです。義持は日本の最高権力者としての基本設計図を描いていなかったがために、歴史の大転換点において何もできずただ傍観していただけでした。この時点で義持が、自分が主導権を握って幕府の政権運営を行っていこうという強い意志と具体的な計画を持ち、義持の考えに同調し協力してくれる守護大名と手を結んでいれば、歴史の流れは変わっていたかもしれません。

 さらに義持の息子で5代将軍となった足利義量(よしかず)は政治を顧みず酒に溺れて体を壊し19歳の若さで他界してしまいます。後継者を失った足利将軍家はますます窮地に陥ていくのですが、まだ健在であった足利義持にその自覚はなかったようです。義持は将軍の跡継ぎを決めることなく無為な日々を過ごしていました。幕府の重臣たちは後継者選びを義持に促したようですが、その際義持は「私が誰を跡継ぎに選んでも、お前たちは私の決定に従わないだろう」と言ったそうです。義持は政治の実権を幕府の重臣たちに握られ、もはやあきらめていたようです。この時点では幕府重臣がしっかりしていたので室町幕府としての支配力はあったのですが、足利将軍家の力はあきらに衰え始めていたのです。

 1428年足利義持も病死しました。将軍の後継者は空白のままでした。室町幕府重臣たちは将軍の後継者を「くじ引き」で選ぶことにしました。前代未聞の事態です。くじ引きで選ばれたのが6代将軍の足利義教です。今日の研究ではこの時の「くじ引き」は幕府重臣による八百長であったと言われています。ただし、義教自身にそのことは知らされていませんでした。義教は「自分は神意によって選ばれた将軍なのだ」と思い込んでいたふしがあります。そのせいなのか、義教は独断で政治を行い暴走しました。この義教による暴走政治が足利将軍家の衰退を加速します。1441年に暴走の果てに恨みを買った義教は赤松満祐に殺害されるのです。世に言う「嘉吉の変」です。義教が殺害されたことで足利将軍家の権威は失墜しました。その後、歴史は応仁の乱を経て戦国時代へと突入していきます。歴史の大転換点で何もできなかった足利義満の息子たちは、足利将軍家衰退の原因を作ってしまったのです。その後足利将軍家の力が復活することはありませんでした。

 

※今回参考にした資料は下記の通りです。

  

日本社会の歴史(下) 網野義彦 岩波新書

応仁の乱 呉座勇一 中公新書

詳説 日本史 山川出版社

新詳日本史 (株)浜島書店