歴史楽者のひとりごと

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東の将軍 鎌倉公方 その6ー 平一揆の反乱と上杉氏

基氏の跡を継ぎ二代鎌倉公方の座に就いたのは、基氏の嫡男である氏満でした。このとき氏満はまだ9歳でしたが、京都の将軍義詮は氏満が鎌倉公方を継承することを容認したのです。この事実によって、鎌倉公方足利基氏の子孫が代々世襲していくことになるのです。

一揆の反乱
幼い氏満が鎌倉公方に就任するやいなや、関東では平一揆の反乱が起きました。「一揆」といえば、悪代官の圧政に耐えかねた百姓たちが鋤や鍬を手にして蜂起し、代官所を襲撃するというイメージがまず頭に思い浮かびますが、これは「土一揆」と呼ばれるものです。「一揆」とは本来「ひとりのリーダーが存在せずに、多対多の関係のなかで心をひとつにする」ということをいいます。これを「一味同心」とも呼びますが、この「一味同心」こそが中世日本における平等の考え方なのです。
「平一揆」とは、中小の国人や地侍が共通の利害関係のために一味同心した集団のことです。彼らのような一揆は、室町時代から戦国時代において独立した軍事勢力として存在し、その時々の利害関係に応じて合戦に参加したのです。合戦の際に、一揆の軍勢は旗や母衣などに赤や白などの共通の色をあしらい、仲間意識を高めていたそうです。武蔵野合戦で足利尊氏の味方になった平一揆の軍勢は、全身を赤で統一して合戦にのぞみ、新田氏の軍勢を打ち負かしました。
その平一揆を構成していたのは、どのような人々だったのでしょうか?その人々とは、平一揆という呼び方からも想像できるように、桓武平氏の血を引く坂東武者の一族でした。一揆の中核をなしていたのは、秩父平氏の名族である河越氏でした。河越氏は、平安時代に関東で武勇の誉れが高かった平良文の孫である平将常を祖とする一族です。河越氏は、平安時代の終わりころから室町時代の前半にかけて、武蔵国秩父地方に大きな勢力を持っていた武家でした。鎌倉幕府草創期には、源頼朝重臣として活躍した一族です。平一揆には、河越氏の他にも、高坂氏、江戸氏、古屋氏、土肥氏、土屋氏などが加わっていますが、いずれの一族も平良文の子孫でした。その点では、平一揆は血族的なつながりを持っており、一般的な国人一揆とはやや性格の異なる集団であったかもしれません。
一揆は、観応の擾乱新田義興との合戦においては、常に足利尊氏の味方について戦ってきました。基氏が関東の南朝方を牽制するために在陣していた入間川陣は、平一揆の勢力圏の中に位置しており、入間川陣の防衛は平一揆の軍事力によってまかなわれていたのです。基氏の存命中は、平一揆鎌倉公方の関係は良好であったのです。
その良好な関係がくずれ、平一揆鎌倉公方に反旗を翻したのは何故でしょうか?その理由は上杉憲顕が復活してきたことに関係があるのです。上杉憲顕は、足利直義の近臣として仕えた武将です。観応の擾乱の際には、憲顕は直義派に与していました。直義の死後も、武蔵野合戦において憲顕は新田氏の軍勢に参陣しています。つまり、上杉憲顕は、平一揆にとっては常に戦い続けてきた敵なのです。
その敵である上杉憲顕は、失脚し信濃国に逃れていました。しかし、基氏が鎌倉公方になって勢力を拡大してくると、上杉憲顕は徐々に復活してくるのです。基氏は、憲顕の政治手腕を高く評価していました。鎌倉公方が安定して関東を支配するためには、上杉憲顕の力がどうしても必要だったのです。また、将軍義詮も上杉憲顕の復活を支持していました。そのため、上杉憲顕は、1363年に関東管領に返り咲くことができたのです。
しかし、その一方で、これまで鎌倉の足利氏に味方し、その軍事力によって鎌倉公方に大きな貢献をしてきた平一揆の存在に陰りが生じてきたのです。基氏が鎌倉公方に就任した当初は、河越氏の首領である河越直重相模国守護に就き、同じく平一揆の主力である高坂氏も伊豆国守護に付くなど、平一揆は全盛期を誇っていました。しかし、基氏の関東支配が安定してくると上杉憲顕が台頭し、平一揆の勢力は衰えてきました。河越直重相模国守護を解任され、その後に相模国守護に就いたのは上杉憲顕を支持する三浦高通りでした。こうして、平一揆上杉憲顕の復活にともなって冷遇されるようになりました。平一揆は次第に不満を蓄積しその怒りの矛先を上杉憲顕に向けたのです。
1367年二代将軍足利義詮がこの世を去りました。義詮の跡を継ぎ三代将軍となったのは義詮の嫡男である足利義満です。翌1368年に義満の元服の儀が催された時、幼い鎌倉公方足利氏満の名代として上洛したのは関東管領上杉憲顕でした。
一揆は、憲顕の鎌倉不在をついて武蔵国で反乱を起こしました。平一揆謀反の急報を受けた上杉憲顕は、急いで鎌倉へ戻り、反乱の鎮圧にあたりました。足利幕府の支持を受けている憲顕には多くの味方がつき、平一揆は劣勢に陥りました。追い詰められた平一揆河越直重は、河越館に立て籠り抵抗しましたが、勢力に勝る上杉憲顕に敗れたのです。平一揆の反乱に呼応して蜂起した下野国の宇都宮氏綱も、上杉憲顕によって討伐されました。

東武者の衰退
鎌倉時代に編纂された説話集「今昔物語」には、坂東武者の説話として平良文(たいらの よしふみ)と源宛(みなもとの あつる)の一騎討ちの話が書かれています。武勇を競い合う彼らはある時戦うことになりますが、軍勢同士の戦いではなく、大将同士の一騎討ちをしようということになります。平良文と源宛は両者とも武芸に秀でた武者であったので、何度も馬上から弓矢で射る「馬上騎射」によって一騎討ちを試みましたが、互いに巧みに相手の矢をかわしたので決着がつきませんでした。結局、両者は互いの健闘を称えあい、戦いは終わったということです。平安時代の関東では、このような牧歌的な戦いが行われていました。このような戦いを繰り返して、坂東武者は互いに競い合いながら「兵の道」(つわもののみち)を極めていったのです。
河越氏は、今昔物語にも登場する武勇の誉れ高い坂東武者の血を引く名門武家でした。源頼朝が挙兵した時には、一度は頼朝に敵対したものの、その後は頼朝に恭順し、源氏方の重臣として源平合戦でも活躍したのです。その武家の名門河越氏は、歴史の舞台から姿を消していったのです。
河越氏のような坂東武者が衰退していった背景にあるのは、武士の合戦の仕方に大きな変化があったことです。前述した平良文と源宛の一騎討ちのように、坂東武者の戦い方は、馬上騎射することが基本でした。最近、日本刀がブームになっていますが、日本刀が主要な武器として合戦に用いられることはほとんどなかったそうです。日本刀は神聖なものとして扱われ、武士の権威の象徴として存在していたそうです。
源平合戦の頃、武士は馬上騎射による一騎討ちで戦っていましたが、鎌倉時代になるとその戦法に大きな変化があったと考えられます。武士の戦法の変化に大きな影響を与えたのが、元寇でした。鎌倉時代中期に北部九州に襲来した蒙古軍は、集団戦法を用いて日本の武士を苦戦させました。歴史の教科書にも載っている「蒙古襲来絵巻」の一場面では、九州の武士竹崎季長が馬上騎射して蒙古軍と戦っている様子が描かれています。このころまで日本の武士は馬上騎射して戦っていたという証拠です。しかし、蒙古軍の集団戦法が有効であったことから、その後の日本では戦法の変化が起きたと考えられるのです。
建武中興の時に活躍した楠木正成が用いた戦法は、楠木戦法と言われるように従来の武士の戦法とは異質の戦い方でした。楠木正成が得意とした戦法は、千早城や赤坂城に代表されるような山城を築き、その城を拠点にしたゲリラ戦でした。戦場は山岳地帯となるので、武士が得意な馬上騎射は通用しないのです。砦にこもった楠木軍は、石や丸太などを敵兵めがけて落とすことで攻撃したのです。楠木正成が従来の武士らしい戦法にこだわらず、奇想天外な戦法を使うことができたのは、楠木正成が武士ではなく「悪党」と呼ばれる人々の一員だったからです。
「悪党」とは、中世日本に出現した武装集団で、源平藤橘の姓を名乗るような者はいませんでした。「悪党」は為政者の支配体制に従わず、武力による無法な行いをしていたのです。このような悪党であればこそ、馬上騎射する武士の戦い方にこだわることなく臨機応変にゲリラ戦を展開したり、敵を欺く謀略を実行することができたのです。足利尊氏楠木正成に苦戦したのも、このような背景があったのです。
このような、悪党が増加したことで戦闘のプロとしての武士の役割は減少したと考えられます。広大な原野を戦場にした騎馬武者同士の一騎討ちが減少したことで、馬上騎射する武士の特殊能力はあまり必要とされなくなってきました。武士には戦闘を行う能力だけでははく、権力者の支配体制を維持するための行政能力や、領国を経営する能力が求められるようになってきたのです。この、時代の変化に対応できた上杉氏は新たな時代の担い手として台頭し、時代の変化に対応できなかった古き名門武家は衰退していったのです。

関東管領 上杉氏
一揆の反乱が鎮圧され河越氏が滅亡したことは、関東の歴史にとって大きな転換点だと思います。平安時代に関東に下向し土着した桓武平氏の流れを汲む坂東武者たちは落日の時を迎え、次の時代を担う新たな武士たちが台頭してきました。その代表格が上杉氏です。平一揆の反乱を鎮圧した上杉憲顕は、1368年に亡くなりました。その跡を継いで関東管領職に就いたのは、憲顕の息子の能憲と甥の朝房でした。こののち、関東管領職は上杉氏が独占し、関東の歴史に大きな影響を与えることになります。そこで、上杉氏とは如何なる武士であるのか、ここでまとめておきます。
上杉氏は、もともと京都の公家で、当初は藤原氏と名乗っていました。1252年藤原重房は、宗尊親王に従って鎌倉に下向しました。宗尊親王は皇族初の将軍として鎌倉幕府の六代将軍に就任したのです。この時、上杉重房は、丹波国上杉荘を領地として賜ったので、これをきっかけに上杉氏と名乗るようになったのです。ところが、将軍となった宗尊親王は、謀反の疑いをかけられ将軍職を廃されて京都に戻されたのです。しかし、上杉重房は、そのまま鎌倉にとどまることにしました。
重房の娘は、足利氏の侍女となり、足利頼氏とのあいだに家時が生まれました。この家時は、足利尊氏の祖父にあたります。さらに、家時の息子貞氏は上杉重房の孫清子を妻に迎えました。この貞氏と清子のあいだに生まれたのが尊氏と直義なのです。こうして、上杉氏は足利氏の親戚となることで、足利氏から重用され、徐々に力をつけてきたのです。そして、上杉憲顕足利直義の側近として活躍したことが、上杉氏の家運を開いていくことになりました。もともと公家の出である上杉氏には、行政の担い手としての素養が代々受け継がれていたのかもしれません。
上杉氏は、いくつかの家にわかれて分立していましたが、憲顕の山内上杉家と甥の朝房がいる犬懸上杉家が繁栄し、両上杉と呼ばれていました。やがて、犬懸上杉家は没落し、山内上杉家関東管領職を独占していくようになります。関東管領武蔵国守護を兼務することが慣例となっていたので、山内上杉家関東管領にして武蔵国守護・上野国守護を兼務するという大きな勢力に発展したのです。この山内上杉家に従属する形で、扇谷上杉家が徐々に勢力を伸ばしてきますが、それは後の話です。ちなみに、上杉謙信は、上杉氏と血縁関係にあるのではありません。越後国守護代であった長尾景虎が上杉姓を名乗るようになったのは、山内上杉家上杉憲政から上杉の姓を譲られたことによるのです。