歴史楽者のひとりごと

こんにちは、歴史を楽しむ者のブログです。

徳川家康が最も恐れた刀 妖刀村正

 皆さんは「妖刀村正」をご存じでしょうか。刀女子や刀大好きなオジサンなら知っていてあたりまえですが、歴史は好きだけど日本刀はあまり興味ないという方も是非ご一読下さい。

 日本刀には数々の名刀があり、今日でも歴史に縁のある名刀が博物館に所蔵されています。例えば、当ブログで最近話題にしている足利尊氏に由来の名刀といえば「骨喰藤四郎」であり、清和源氏に縁の日本刀と言えば国宝「童子切安綱」があります。この「童子切安綱」という刀は、平安時代源頼光の家臣である渡辺綱大江山に棲む酒呑童子という鬼を切った刀として有名です。この刀は現在でも東京国立博物館に所蔵されていますので、タイミングよく展示してあれば実物を見ることができます。一説によれば、大河ドラマ麒麟がくる」で向井理さんが演じている代13代将軍足利義輝は、吉田鋼太郎さん演じる松永久秀に裏切られ切り殺されるのですが、その時最後に手にしていたのが「童子切安綱」であったと云われています。

 さて、今回のテーマである妖刀村正は、前述したような名刀とはまったく異なります。村正という刀は室町時代から戦国時代にかけて伊勢国桑名で量産されていたごく普通の日本刀で、切れ味鋭く実用性に優れていた日本刀です。それが妖刀と言われているようになったのは、戦国時代に徳川家康の祖父清康、父広忠、息子信康の三人の命を奪ったのが村正だったからです。そのため、家康はこの村正という刀を恐れていたと云われています。

 徳川家康の祖父松平清康が死んだのは1535年のことでした。斎藤道三の娘帰蝶織田信長に嫁いだのが1549年ですから、先週3月15日に放送された「麒麟がくる」のお話の14年前に松平清康は死んだのです。家康の祖父松平清康は一代の英雄になりかけた武将でした。東三河を制圧した清康はまたたくまに三河全土を制圧し、次は美濃へ攻め込む足掛かりを作ろうとしていた矢先、軍事行動のさなか心を病んだ家臣によって清康は命を奪われました。その時、家臣が清康を切ったのが村正でした。もしも、清康がこの時死んでいなければ、三河、美濃、尾張の戦国時代の様相はまったく異なったものとなっていたかもしれません。希代の名将清康の急死によって三河は弱体化し今川に隷属するような国になったのです。

 清康の息子にして家康の父である松平広忠は幼くして岡崎松平家家督を継ぎ、その地位をなんとか守るために駿河今川義元に頼っていたのです。清康の死によって岡崎松平家は弱体化し、三河国内でも広忠から三河領主の地位を奪おうと狙っている者たちがいたのです。不穏な空気が漂うなか、家康の父松平広忠は暗殺されました。下手人は松平家に仕えていた岩松八弥です。ウィキペディアによれば「龍海院年譜」「天元年記録」「岡崎古記」には岩松八弥が松平広忠を殺害したとの記述が残されているそうです。また、「徳川実記」「武徳大成記」「三河風土記」には岩松八弥が松平広忠を襲撃はしたものの殺害するには至らなかったという記述があるそうです。また別の説では、松平広忠は病死したとの説もあるとのことですが、歴史資料の多くが松平広忠の死に岩松八弥が関係しており、八弥が村正を使って広忠を切り殺したということが通説となっている訳です。

 妖刀村正の犠牲になった三人目は家康の長男である松平信康でした。この時織田と徳川は同盟を結んでいたのですが、信康は武田信玄と通じていると信長に疑われ切腹させられたました。信康が切腹した時、介錯に使われた刀がまたしても村正であったというのです。

 こうして、村正は三度も徳川家康の家族を切り殺した刀となりました。祖父清康と父広忠が死んだことで松平家の家運は衰退し、幼少期の家康(竹千代)は織田や今川の人質となり三河の国は隣国から利益を収奪される国となってしまったのです。このため、徳川家康にとって村正とい刀は徳川家に不運をもたらす恐ろしい刀となったわけです。もちろん、ある特定の一振りの村正が徳川家に仇をなしたわけではありません。前述したように村正という刀は、戦国時代に実用品として量産され切れ味鋭いとの評判でしたから、東海地方ではどこにでもある普通の刀だったということです。

 さて、今回「歴史楽者のひとりごと」では、がらにもなく日本刀についてくどくどと述べてきたのですが、その真意は3月15日に放送されたNHK大河ドラマ麒麟がくる」において、松平広忠の暗殺シーンについて「?」と思ったからです。大河ドラマは娯楽でありフィクションですから、歴史的な通説と異なるストーリーが展開してもいいと思います。松平広忠が岩松八弥によって村正で切り殺されたという話は通説ではありますが、確定しているわけではありません。したがって、広忠が信長に雇われた忍びの者によって暗殺されてもいいのですが、広忠の死に妖刀村正がからまらなかったのは非常に残念でした。

 さらに心配なのは、徳川家康の父を死に至らしめたのが織田信長であるという大河ドラマの展開です。まさかとは思いますが、NHK明智光秀本能寺の変を起こした動機を、明智憲三郎氏が唱えている「徳川家康黒幕説」にしようとしている訳ではないですよね。それだけはお願いだからやめて欲しいと思います。今回の大河ドラマは歴史ファンとしてとても楽しめるドラマです。どうか、光秀が本能寺の変を起こした動機だけは、へんてこりんなものではなく誰もが納得するようなものにして頂きたいと願います。なお明智憲三郎氏は明智光秀の子孫で、著書「本能寺の変 431年目の真実」(文芸社文庫)の中で本能寺の変に関する自説を述べていらっしゃいます。

 ところで徳川家に祟るとの噂がついた村正は、徳川家を倒したいと願う武士に愛用されたそうです。真田信繁もその一人でした。また幕末の志士たちも好んで村正を腰に差していたそうです。その村正の実物を見たい方は、名古屋にある徳川美術館に足を運んでください。尾張徳川家は、妖刀村正を毛嫌いせず、切れ味鋭い刀として所有していたそうです。その一振りが展示してあります。

 さいごに、松平清康の活躍や妖刀村正の恐ろしさを知りたい方は、宮城谷昌光さんの小説「風は山河より」(全6巻・新潮文庫)を読んでみてください。とても面白い歴史小説ですよ。

 

今回参考にさせていただいた資料

 「刀の日本史」 加来耕三

 ウィキペディア 岩松八弥の項