歴史楽者のひとりごと

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戦国末期に徳川家康と手を結んだオランダとはどんな国だったか

 7月5日に放送された「NHKスペシャル 戦国 激動の世界と日本(2)徳川家康×オランダ」は非常に見応えのある番組でした。徳川家康の天下取りを陰で支えていたのがオランダであり、対する豊臣家にはスペインが肩入れしていたということを私は初めて知りとても興味をそそられました。

 この番組の中で、オランダは商人が建国した小さな新興国と紹介されましたが、詳しい説明はありませんでした。そこで今回は、オランダ建国の歴史について調べてみました。

 オランダは北海に面する低地が広がる国です。もともとこの地方はネーデルラントと呼ばれていました。1477年ネーデルラントは相続によってハプスブルグ家の領地となりました。ハプスブルグ家は、神聖ローマ皇帝世襲する中世ヨーロッパを代表する名門です。

 1519年ハプスブルグ家出身のスペイン王カルロス1世はフランス国王フランソワ1世との激しい相続争いに勝利し神聖ローマ皇帝カール5世になりました。ここにおいて、ハプスブルグ家は神聖ローマ帝国スペイン王国ナポリ王国ネーデルラントオーストリアとそれらの国が支配する海外領土を傘下に収め「日の沈まぬ帝国」が出現したのです。

 ハプスブルグ家が支配する世界各地の領土では、香辛料などの高価な産物が収穫され、それらはネーデルラントの港アントウェルペンアントワープ)へ集められました。こうして、アントウェルペンは16世紀におけるヨーロッパ最大の中継貿易港として繁栄することになったのです。さらに、アントウェルペン近隣のフランドル地方は毛織物産業が栄えており、これらもアントウェルペンの繁栄に大きく貢献していたのです。こうしてアントウェルペンはヨーロッパ経済の中心地となりました。

 しかし、ハプスブルグ家による「日の沈まぬ帝国」の栄光は長くは続きませんでした。カール5世はドイツの修道士・神学者マルティン・ルターが始めた宗教改革に対抗しようとしましたが、ルターを支持した帝国内の諸侯から圧力を受け1555年アウグスブルグの和議を結び失意のうちに退位しました。その後、ハプスブルグ帝国は二分されスペインとネーデルラントを相続したのはスペイン王フェリペ2世でした。

 この当時、スペインは国を挙げてカトリック教を支持し、ローマ教皇を絶対的な存在として仰ぎ、キリスト教を全世界に布教するという強い目的を持って世界へ進出していました。また、カトリック教では営利行為は蔑視されていました。

 一方、アントウェルペンを中心とするネーデルラントで活躍していた都市商人たちは、スペインが支持するカトリック教ではなく、カルヴァン派というキリスト教の中の新たな宗派を支持していました。カルヴァン派では、経済活動を積極的に奨励していたのです。

 スペインのカトリック教とネーデルラントカルヴァン派では同じキリスト教でありながらも全く相反する考え方を持っていたのです。そのため、スペイン国王フェリペ2世ネーデルラントに対して圧政を行ったのです。ネーデルラントでは反スペイン運動の機運が高まり、オラニエ(オレンジ)公ウィレムを指導者とする北部7州はユトレヒト同盟を結び1581年スペインからの独立を宣言しネーデルラント連邦共和国(オランダ)を建国したのです。まさにオランダを建国したのは、アントウェルペンを中心とするネーデルラントで活躍していた商人たちだったのです。

 しかし、オランダはすぐさま独立を勝ち取ることはできませんでした。オランダはイギリスなどの支持を得ながらスペインからの独立戦争を続けていたのです。1588年イギリス海軍はスペインの無敵艦隊を破りスペインに大きな打撃を与えました。この戦争のさなかアントウェルペンはスペイン軍によって破壊されましたが、オランダは新たにアムステルダムを貿易・経済の拠点としました。1602年にオランダが東インド会社を設立しアジア貿易を積極的に進めたことで、アムステルダムはヨーロッパ最大の商業・金融都市に発展しました。

 長い争いの末、オランダが正式に独立を認められたのは1648年に結ばれたウェストファリア条約においてでした。このように、キリスト教の旧教と新教の対立に端を発したオランダとスペインの争いはヨーロッパからはるか遠く離れた日本まで波及し、オランダは徳川家康と組み、スペインは豊臣秀頼と組んで争いを続けて、豊臣家の滅亡へとつながっていたのです。日本の戦国時代がヨーロッパの紛争と深い関係を持っていたとは驚きです。今後、戦国時代のことを考える時にはグローバルな視点を持ち、海外の歴史との関連を検討する必要が出てきました。まったく歴史の興味は尽きることがありません。

 ところで、徳川家康が最初に出会ったオランダ人は、ヤン・ヨーステンです。1600年オランダの船リーフデ号が豊後に漂着しました。船に乗っていたオランダ人航海士ヤン・ヨーステンと水先案内人の英国人ウィリアム・アダムス(のち三浦按針)は家康によって江戸に招かれ家康の外交・貿易顧問となったのです。ヤン・ヨーステンが住んでいた屋敷のあった場所がやがて「八重洲」と呼ばれるようになったのです。

 

参考1

 ユトレヒト同盟を結成した北部7州は、ホラント、フーリストラント、フローニンゲン、オーヴェルアイセル、ヘンデルラント、ユトレヒトゼーラントです。

 オラニエ(オレンジ)公ウィレムはホラント州の総督でホラント州がユトレヒト同盟の中心になったことから、ホラントが訛り”オランダ”になったそうです。

 

参考2

 ウェストファリア条約とは、30年戦争を終結させるための条約です。30年戦争とは神聖ローマ帝国内のボヘミアで起きたプロテスタントの紛争がきっかけでした。神聖ローマ皇帝プロテスタントを容赦なく弾圧しましたが、そこへプロテスタントを支持するデンマークが侵入しました。デンマーク傭兵隊長ヴァレンシュタインが指揮する皇帝軍に敗れました。一時は皇帝軍の勝利かと思われましたが、スウェーデン国王グスタフ=アドルフ(ルター派)が参戦すると、反皇帝の立場をとるフランスとオランダがグスタフ=アドルフを支援し戦争は混迷の度合いを深めました。これによって、30年戦争は歴史上初のヨーロッパ大戦となったのです。

 この戦争を終結させるために1648年に締結されたのがウェストファリア条約です。この条約では、スウェーデンとフランスが領土を獲得し、オランダとスイスの独立が認めらました。また、カルヴァン派は初めて公認されました。こうして事実上神聖ローマ帝国は解体されました。神聖ローマ皇帝教皇の権威は失墜し、主権国家どうしが法律による秩序を守るという「ウェストファリア体制」が誕生しました。この後ヨーロッパの歴史はウェストファリア体制を前提として動いていきます。

 

 

今回参考にした資料は以下の通りです

 新 世界史 山川出版

 最新世界史図説 タペストリー 帝国書院

 詳説 日本史 山川出版

 日本大百科全書(ニッポニカ)