歴史楽者のひとりごと

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関東の戦国 北条早雲の伊豆侵略はかたき討ちのためだった

 関東の戦国時代の幕開けは、北条早雲による伊豆侵略です。これは、一介の浪人であった伊勢新九郎駿河の今川家の食客となり堀国公方茶々丸を追放して伊豆一国を手に入れた出世物語であり、戦国時代の下克上の代表例として捉えられてきました。ところが、近年の歴史学の研究では、北条早雲の伊豆侵略は京都で起きた明応の政変というクーデターと連動したかたき討ちであることがわかってきました。いったい、どのようなかたき討ちだったのでしょうか?

 まずは、北条早雲の半生を振り返ってみましょう。そもそも早雲が自分自身で北条早雲と名乗ったことはないそうです。本名は伊勢新九郎長氏であり仏門に入門してからは伊勢宗瑞と名乗りました。そこで本ブログでは伊勢宗瑞と呼ぶことにします。

 従来、伊勢宗瑞の生年は1432年と考えられてきましたが、これは宗瑞の叔父伊勢貞藤の生年と混同されていたようです。現在の説では宗瑞の生年は1456年というのが有力です。宗瑞の出自についても諸説ありますが、近年の研究では室町幕府の政所に仕えていた伊勢一族こそが宗瑞の出自であると考えられています。

 都を離れた宗瑞は駿河の今川家に仕えることになりました。そのころ今川家では家督相続をめぐる争いが生じていました。ことの発端は1476年に駿河守護の今川義忠が急死したことにあります。当時義忠の嫡男龍王丸(のちの今川氏親)はまだ幼かったので、今川家中は龍王丸を擁護する一派と義忠の従弟で小鹿範満を新たな家督相続者に推す一派とが対立し内乱が起きました。この今川家の家督相続争いに干渉したのが堀越公方足利政知です。堀越公方の軍事的圧力によって小鹿派が内乱を制し、小鹿範満が当面の間今川家の家督を継ぎ、龍王丸が元服したあかつきには、龍王丸に家督を譲るという妥協案が成立したのです。ただし、この時の内乱に伊勢宗瑞は関わっていません。江戸時代から伝わる伊勢宗瑞の逸話では、1476年と1478年の2回に分けて起きた今川家の家督相続争いが混同されていたようです。

 やがて、龍王丸は元服しましたが、小鹿範満は今川家の家督を横領し続けていました。1478年2回目の家督相続争いが今川家で起きました。今回の争いでは、今川家の食客であった伊勢宗瑞が小鹿範満を討伐し、今川家の正統な跡継ぎである今川氏親家督相続を実現させたのです。今川家の内乱を平定した功績によって伊勢宗瑞は氏親から東駿河の興国寺城を与えられました。

 伊勢宗瑞は、この興国寺城を拠点として伊豆侵略をおこなうことになるのです。伊豆侵略の話を進める前に、この当時の伊豆の情勢について話ます。1482年長らく続いてきた室町幕府古河公方足利成氏の対立に終止符が打たれ和睦が成立しました。足利成氏古河公方として関東九か国の支配権を認められました。また堀越公方足利政知には御料所として伊豆一国が与えらたのです。(古河公方堀越公方についての詳細は、歴史楽者のひとりごと「太田道灌 戦国時代前夜を鮮やかに駆け抜けた悲運の名将」をご一読ください)

 堀越公方足利政知は8代将軍足利義政の弟であり、鎌倉公方として関東を支配することを夢みていたのですが、その夢はかなわず、伊豆一国の支配者にしかなれませんでした。伊豆で失意の底に沈んでいた足利政知ですが、1489年新たな希望をみいだしました。応仁の乱の後将軍に就いていた足利義尚が25歳の若さで急死したのです。そこで発生したのが将軍の後継者問題でした。足利政知管領細川政元細川勝元の息子)と手を結び自分の二男である清晃(せいこう)を将軍の座につけようと画策しました。

 ところが、将軍の候補者は他にもいました。応仁の乱の主役の一人である足利義視の息子義材(よしき)です。義材の後ろ盾となっていたのは日野富子です。富子の夫で前の将軍である足利義政は義材の将軍就任に反対していましたが、1490年に死亡してしまいます。これを契機に、日野富子の後押しを受けた義材は10代将軍の座に就きます。

 息子を将軍にするという夢も破れた政知は1490年に亡くなりました。政知の死後堀越公方の座に就いたのは、足利茶々丸です。茶々丸と清晃では母親が違っていました。茶々丸堀越公方の座に就くために、伊豆にいた清晃の母と弟を殺害し堀越公方の地位を略奪したのです。このため、京都の香厳院という寺院に入っていた清晃は、母と弟のかたきである茶々丸に復讐する機会を狙っていたのです。その機会は思わぬ形で訪れました。

 明応二年(1493)管領細川政元は将軍義材が河内の畠山基家を討伐に出陣した留守をついて京都で政変を起こし義材の将軍職をはく奪し、清晃を11代将軍の座に就けました。この事件が明応の政変です。室町幕府管領が将軍の首をすげ替えるという前代未聞の事態が起きたのです。この事件によって将軍の権威は完全に失墜し、細川政元がいわば”キングメーカー”として時の権力者となったのです。この出来事によって室町時代武家社会の秩序は完全に崩壊し、京都とその周辺地域では権力の座を巡る争いが激化していきます。こうして、世の中は戦国時代と呼ばれる乱世になっていくのです。

 清晃は還俗して足利義遐(よしとお)と名を改め将軍の座に就きました。義遐がまず着手したことは、駿河の伊勢宗瑞に伊豆侵攻を命じ、母と弟の命を奪った茶々丸に対する復讐を実行することでした。将軍義遐と伊勢宗瑞はどうして繋がっていたのでしょうか?実は明応の政変には幕府政所執事伊勢貞宗も加担していたのです。貞宗は宗瑞の従弟でした、その関係を通じて義遐は伊勢宗瑞を使ってかたき討ちを行ったわけです。

 明応2年(1493)年の秋、伊勢宗瑞は軍勢を率いて興国寺城を発進し伊豆の茶々丸を急襲しました。宗瑞は堀越御所の襲撃には成功しましたが、茶々丸は取り逃がしてしまいました。そのため、伊勢宗瑞の茶々丸討伐は長期戦になりました。茶々丸上杉顕定の力を頼り伊豆、相模、甲斐の各地逃げ回っていました。宗瑞は茶々丸を追いかけながら伊豆の侵略を進めていたのです。茶々丸の政治は腐敗しており、伊豆の人心は茶々丸から離れていました。そのため、伊豆の国人衆の多くは、伊勢宗瑞が茶々丸を追放したことを支持していたのです。さらに、宗瑞は年貢の負担を軽くするなど融和策を実行し、伊豆の支配を進めていったのです。

 1498年に伊勢宗瑞はついに茶々丸を南伊豆に追い詰め自害させました。こうして伊勢宗瑞は伊豆一国を手に入れることができたのです。11代将軍足利義遐(のち義高、義澄と改名)の母と弟のかたき討ちであったはずの伊豆侵攻は、いつの間にか伊勢宗瑞の国盗り物語にすり替わっていたのです。伊豆一国の支配者となった伊勢宗瑞は、これで満足することなく次の侵略地として相模国に狙いをつけたのです。

 

◆「今回参考にした資料は以下の通りです。

 関東古戦録 上巻 槙島昭武 著 久保田順一 訳 あかぎ出版

 関東戦国史(全) 千野原靖方 崙書房出版

 図説 太田道灌  黒田基樹 戒光祥出版