歴史楽者のひとりごと

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関東の戦国 長尾為景の下克上と上杉顕定の死

  関東の戦国時代は山内上杉と扇谷上杉の覇権争いで幕を開けました。この争いは17年間続きましたが、永正二年(1505年)に扇谷朝良が降伏したことでようやく決着しました。両上杉の争いに勝利したのは関東管領上杉顕定でしたが、長い戦いで両上杉とも疲弊し関東を支配する力はすっかり衰えてしまいました。さらに、永正七年(1510年)六月に上杉顕定は遠征先の越後で、長尾為景との合戦のさなかに討ち死にしてしまいました。顕定の突然の死によって関東の戦国はあらたな局面を迎えることになるのです。

 

長尾為景の謀反

 上杉顕定が越後で命を落としたのは、次のようないきさつによるものです。越後国室町時代の前期から越後上杉氏の領国となりました。越後上杉氏の礎を築いたのは、山内上杉氏中興の祖ともいうべき上杉憲顕でした。憲顕は鎌倉において足利尊氏の子息である義詮や基氏に仕え、足利氏の関東支配を確固たるものにすることに尽力した武将です。観応の擾乱のおり足利直義に味方した憲顕は一時失脚していましたが、足利基氏が初代鎌倉公方の座に就いた後に復活し、康安二年(1362年)に越後守護職に就任したのです。それ以来、越後は山内上杉氏の分国となり憲顕の子孫である越後上杉氏が代々支配してきたのでした。

 実は、上杉顕定も越後上杉氏の出身でした。文正元年(1466年)二月、関東では享徳の乱のさなかに関東管領上杉房顕が五十子陣で急死しました。房顕には子がいなかったため山内上杉家家督を急遽継いだのが越後上杉氏の顕定だったのです。山内上杉家家督を継いだ顕定は、その翌年に関東管領に就任したのです。そして顕定の弟である上杉房能が越後上杉家の家督を継ぎ越後守護に就いていました。

 ところが、永正四年に越後で謀反が起こります。守護代長尾為景が越後上杉氏の上杉定実を担いで反旗を翻したのです。為景は上杉房能と戦って房能を討ち取り、越後支配の実権を奪取したのです。為景の行いは、まさに下克上そのものでした。この長尾為景の息子が長尾景虎すなわち後の上杉謙信なのです。

 上杉顕定が、長尾為景を討伐するために越後へ遠征したのは、為景が謀反をおこしてから2年後のことでした。顕定がすぐに討伐に動かなかったのは、扇谷上杉との長い戦いで山内上杉氏の勢力が疲弊していたことが影響していると考えらえます。二年後どうにか勢力を回復した顕定は養子の憲房とともに、武蔵・上野の軍勢を率いて越後へ進軍したのです。

 

◆長森原の合戦

 小田原北条記によれば、永正六年(1509年)七月越後の府内(新潟県上越市)へ侵攻した顕定・憲房の軍勢は長尾為景の軍勢を打ち破りました。敗れた為景は、越中の西浜というところへ逃れました。顕定と憲房は越後へ留まり謀反に加担した者たちを探索して、所領を取り上げたり、追放したり、首をはねるなど罪の軽重によって厳しい処分を行いました。

 ところが、敵方の高梨摂津守を成敗しようとしたところ逆に反撃にあいました。顕定があまりにも厳しい処罰を下したために、越後の国人衆たちの多くが顕定を恨み高梨方について戦いを始めたのです。顕定はなんとか態勢を立て直そうとしましたが、敵方の勢いは増すばかりでした。

 永正七年六月上杉顕定は、越後と信濃の国境に近い長森原(新潟県南魚沼郡六日町)で長尾為景・高梨摂津守の軍勢と激突しました。合戦当初、顕定の軍勢は長尾為景の軍勢を敗走させたのですが、高梨の軍勢に側面をつかれ乱戦になりました。そして、高梨摂津守が顕定の本陣に攻め込んで一騎打ちになり、顕定の首を取ったということです。

 

上杉顕定死後の関東

 上杉顕定が討ち死にしたことで、養子の憲房も越後に留まることができなくなり、上野国へ引き上げ白井城に籠城しました。顕定には顕実と憲房の二人の養子がいましたが、顕定の遺言によって顕実が山内上杉家家督を継ぎ、関東管領に就きました。顕実が後継者に選ばれた理由は、顕実が古河公方足利政氏の弟であったからだと考えられます。

 その後、古河公方足利政氏と息子の高基が対立すると、顕実が政氏に味方し憲房が高基の味方につくことで、争いが起きました。この争いに勝利したのは、高基と憲房の側でした。高基は古河公方の地位を手に入れ古河城に入りました。永正十二年(1515年)には上杉顕実が死亡し、上杉憲房山内上杉家家督を継いで関東管領の座に就きました。

 一方、越後で上杉顕定が討ち死にした混乱に乗じて、伊勢宗瑞は長尾為景と手を結び相模国への勢力拡大を企てました。相模国の上田蔵人は扇谷朝良の被官でしたが、宗瑞に寝返り権現山(横浜市神奈川区)に城郭を築いて立て籠りました。扇谷朝良は江戸城から出撃し、山内憲房から遣わされた成田親泰・渋江孫太郎・藤田虎寿丸などの援軍の力を借りて上田蔵人を倒しました。

 しかし、その後も伊勢宗瑞は相模国への侵攻を続け、相模の有力武将である三浦氏を滅ぼし相模国の支配権を手に入れたのです。こうして、関東の戦国時代は新たな段階に入り、伊勢宗瑞の跡を継いだ北条氏綱と上杉氏の争いを軸に展開していくことになるのです。

 

今回参考にさせていただいた文献

 現代語訳 小田原北条記 江西逸志子 原著   岸正尚 訳 ニュートンプレイス

 関東戦国史(全) 千野原靖方 崙書房出版