歴史楽者のひとりごと

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関東の戦国 河越夜合戦と福島綱成・勝広兄弟の活躍

 天文十五年(1546年)四月、関東の戦国史に残る大きな合戦が起きました。総勢十万人に近い軍勢が戦った大合戦です。この合戦は河越夜合戦と呼ばれています。もしも、関東の戦国時代が日本史の本流になっていれば、この合戦は桶狭間の合戦や長篠の合戦と同じように日本人なら誰でも知っているような合戦になっていたでしょう。また、仮に北条氏康を主人公にした大河ドラマが作られるとしたら、この戦いは名場面のひとつになり、この戦いで活躍した北条方の福島綱成・勝広の兄弟は戦国時代のヒーローとして人気者になったでしょう。

 しかし、残念なことに関東の戦国時代は歴史の片隅に埋もれています。現在関東地方で暮らしている人々の中に、戦国時代に埼玉県川越市でそのような大合戦があったことを知る人は少ないでしょう。そこで今回は、関東戦国史の前半を締めくくる大きな分岐点になった河越夜合戦の話をします。

 

 天文十年(1541年)七月、北条氏綱は病のため亡くなりました。氏綱は亡くなる二か月前に北条家の家督を嫡男氏康に譲り渡していました。

 この氏綱の死を好機到来と考えた武将がいました。その武将とは、関東管領山内上杉憲政です。憲政の父上杉憲房は、関東に進出してきた北条氏綱を倒すことに生涯をかけた武将でした。一時は、扇谷朝興や武田信虎、真里谷武田恕鑑、里見義豊、小弓公方足利義明らと連携して「北条氏綱包囲網」を形成することに成功し、憲房は氏綱を窮地に追い詰めたこともありました。しかし、打倒北条の宿願を果たすことなく上杉憲房は大永五年(1525年)にこの世を去りました。

 憲房が亡くなった時、憲政はまだ幼児であったので山内上杉家家督を継ぐことは見送られ、憲房の養子になっていた憲広が山内上杉家家督を継ぎ関東管領の座についていました。しかし、古河公方足利高基の次男であり上杉家の血をひいていない憲広は上杉家中の信頼や支持を得ることができずに、わずか5年で上杉家の家督を憲政に譲り上杉家を離れていきました。その後、上杉憲広は名を足利晴直に改め上総国の宮原(千葉県市原市)という地で余生を過ごしたということです。

 上杉憲房は享禄四年(1531年)に9歳で山内上杉家家督を継ぎ関東管領の座に就くことになりました。前関東管領憲広の時代は、君臣一体となることができず山内上杉家の威勢は衰えていました。その跡を継いだ憲政もまだ幼く、関東管領はかつての隆盛を取り戻すことができずにいました。憲政が関東管領に就いて10年の間、関東では北条氏綱が勢力を大きく伸ばしていたのです。

 北条氏綱相模国を振り出しにして、北辺を除く武蔵国の大半を領国とし、真里谷武田氏や小弓城主原氏などを支配下に入れ上総国下総国にも勢力を広げていました。さらに、古河公方足利晴氏と姻戚関係を結び、小弓公方足利義明を滅亡させた勲功を称され非公式ながらも関東管領に補任されていたのです。新興勢力である北条氏綱の台頭によって、室町時代より関東管領職を代々世襲してきた山内上杉氏の威信はすっかり失われていました。上杉憲政関東管領の名に懸けて、北条氏綱の跡継ぎである北条氏康を倒す必要があったのです。

 

 そして、上杉憲政が19歳になった時、ようやく北条を倒す機会が巡ってきたのです。天文十年九月下旬、上杉憲政はさっそく河越城へ攻撃を仕掛けました。しかし、北条方の守りは固く、この時の合戦で上杉軍は敗退しました。上杉軍が単独で北条軍を攻略することは困難であると悟った憲政は、安房の里見義堯や駿河今川義元と手を結び北条氏康を討伐するという策略を思いついたのです。

 天文十三年(1544年)上杉憲政は、安房の里見義堯に働きかけ、安房と上総の国境地帯で里見軍に軍事行動を起こさせました。この地域では里見と北条の領地争いが繰り返されていたのです。憲政は北条氏康安房で里見と争っている間に、武蔵国で軍事行動を起こそうと考えていたのでしょう。しかし、氏康は里見軍の動きに即応し、安房に水軍を派遣して里見軍と一戦を交え里見軍の動きを早々に抑え込み、憲房に挟撃する機会を与えませんでした。

 すると、憲政は翌天文十四年に駿河今川義元と連携し、駿河国武蔵国の双方で同時に北条の城を攻撃し北条氏康を挟み撃ちにしようと考えたのです。まずはじめに動いたのは今川義元でした。駿河の長窪城(駿東郡長泉町)はもともと今川の城でしたが北条に奪われていました。上杉憲政と手を結んだ義元は、長窪城を奪還すべく軍事行動を起こしたのです。同年七月、今川義元駿河遠江の軍勢を率いて長窪城へ押し寄せました。さらに、今川と同盟を結んでいた甲斐の武田晴信の軍勢も長窪城の包囲に加わりました。

 小田原城北条氏康は、長窪城を救援すべく軍勢を率いて出陣しようとしていました。そこへ驚くべき知らせが入ってきました。上杉憲政と扇谷朝定が大軍を率いて河越城へ攻め寄せてきたというのです。上杉・扇谷の軍勢に加わっていたのは上野、下野、北武蔵、常陸、下総から集まってきた六万五千騎の軍勢でした。

 天文十四年の秋、河越城周辺の武蔵野の広野は上杉方の軍勢によって埋め尽くされていました。その時の様子を「関東古戦録」は次のように伝えています。「上杉方の武将は、真っ平な武蔵野に、それぞれに城戸(門)を構えて旗を立て陣幕を張り巡らしており、その様子はきら星が連なるようで人々の目を大いに驚かせた」

 北条氏康は、東西の敵に対応しなければならないという窮地に陥りました。この窮地を脱するために、氏康は今川義元と和議を結ぶことにしたのです。氏康は甲斐の武田晴信に仲介を頼み、富士川以東の東駿河の地を今川に返還することを条件にして今川義元と和睦し、東方の脅威を取り除きました。そして、河越城の救援に乗り出したのです。

 

 この時、上杉の大軍に囲まれていた河越城は、わずか三千の城兵ながら城の守りを固めてなんとか持ちこたえていました。河越城の城代を務めていたのは福島綱成(くしま つなしげ)という武将です。綱成の父福島兵庫正成は摂津源氏の源頼国の末裔で、遠江の土方にある高天神城の城主でした。(この高天神城は後に武田信玄・勝頼と徳川家康が戦った難攻不落の城として有名です)ところが、文明十年(1478年)今川家では家督相続争いが起こりました。この相続争いに巻き込まれた福島兵庫正成は今川家を離れ駿東郡に逼塞していました。やがて月日が流れ自立をはかろうとした正成は、仲間を集めて甲斐へ乱入し一旗揚げようとしたのです。しかし、その企ては失敗し、正成は大永元年(1521年)に命を落としてしまいました。父正成が死んだ時、綱成は七歳の子供でしたが、家人に守られ弟とともに小田原へ落ち延びていたのです。

 その後、福島綱成は小田原で立派な武者に成長しました。綱成は北条氏綱に仕え戦場では幾多の武功をあげていました。氏綱は綱成の才能を認め重臣として用いただけではなく娘婿として迎えたので、綱成は北条氏の一門に加わることになったのです。福島綱成は合戦に出る時、常に朽葉色に染めた練絹に八幡と墨で書いた旗指物を用いていました。綱成は軍勢の先頭を進み「勝つ」と声を掛けて味方を鼓舞して回ったということです。綱成の率いた軍勢は神がかったようで、人々はこれを「地黄八幡」と呼び習わしたそうです。そして、今回の河越城の籠城戦でも、福島綱成が武神のような働きをして城兵を鼓舞し防戦に努めたので、寄せ手の上杉勢は多くの犠牲者を出してしまい城を攻めあぐねていました。

 河越城攻めが膠着状態に陥ったので、上杉憲政は戦況を打開すべく古河公方足利晴氏を味方に引き入れる工作を始めました。これに対して北条氏康足利晴氏に使者を送り晴氏に中立でいるように要請しました。双方の駆け引きは何度か繰り返されましたが、最終的に晴氏は上杉方へ加担することを選択しました。

 天文十四年十月、古河公方足利晴氏は二万の軍勢を従えて古河を出陣し、河越城の包囲に加わったのです。晴氏の出馬によって河越城への兵粮の道が遮断され、城に籠る北条軍は窮地に追い込まれました。城に蓄えられていた兵粮は日に日に減っていきます。このままでは城兵は飢え死にするか、敵方に下って落城せざるを得ない状況になってしまったのです。

 なんとしても河越城を救いたい北条氏康は、敵を欺いて攻略する奇策を思いつきました。その作戦を成功させるためには、敵方を油断させるための時間が必要でした。しかし、その間に河越城が落城してしまったのでは元も子もありません。氏康は、早急に味方の作戦を河越城に知らせる必要があったのです。

 ところが、河越城は上杉方の軍勢に幾重にも包囲されており、この厳重な囲みを突破して城へ潜入することは至難の業でした。城に向かう使者が途中で敵方に捕まり、味方の作戦が露見してしまっては、もはや河越城を救う手立てはなくなってしまいます。どうやって河越城へ知らせを送るのか氏康が思案に暮れていると、ひとりの武者が進み出て使者をかってでたのです。

 その武者とは、福島綱成の弟である勝広でした。勝広はこの困難な役目を命を懸けて成功させると申し出ました。それが、幼いころから自分たち兄弟を育ててくれた主君への恩返しであると言うのです。また、万が一敵方に捕らえられ拷問にかけられても、自分は兄の窮地を救うために絶対に口を割らないと誓いました。

 勝広は兄に劣らぬ武勇の持ち主で、見目麗しい武者であり、主君氏康がとりわけ目をかけている武者でした。氏康は勝広の決意を聞いてはらはらと涙をこぼしながら、これが最後とばかりに盃を与え勝広を送り出したのです。

 福島勝広は敵方に忍び込んでいた風魔衆の忍びから敵方の合言葉を確かめると、小田原を出発して河越城へ向かいました。敵の陣へ近づくと、勝広は従ってきた家臣たちを小田原へ帰し、ただ一騎で敵中へ入っていきました。おびただしい敵の中を勝広は平然と馬を進めていき、敵に怪しまれることなく無事に河越城へ入ることができました。そして、兄綱成と対面して主君氏康の作戦を伝えことができたのです。こうして、河越城の城兵は氏康の作戦を知ることができ再び戦意を盛り返したのです。

 

 さて、北条氏康上杉憲政の大軍を打ち破るために取った作戦とは、「孫子の兵法」でした。孫子は「兵とは詭道なり」と説いています。すなわち戦いでは敵を欺く作戦こそが最も有効だというのです。

 「能なるもこれに不能を示し、用なるもこれに不用を示し・・・」というように、戦いに勝つためには軍隊は強くとも敵には弱く見せかけ、兵士は勇敢でも敵には臆病に見せかけろというのです。さらに「卑にしてこれを驕らせ」敵が謙虚なときはそれを驕りたかぶらせ、「其の無備を攻め、其の不意に出ず」敵の無備を攻め、敵の不意をつけというのです。

 氏康は「孫子の兵法」を実践しました。まず、氏康は上杉憲政足利晴氏に使者を送り、「河越城に籠っている兵の命さえ助けてくれれば城は明け渡します」と申し入れをしました。これを聞いた上杉憲政は、氏康が窮地に陥っている今こそ北条を滅亡させる絶好の機会であると思い、氏康の申し入れを無視して武蔵砂窪(埼玉県川越市砂久保)にある氏康の本陣に二万の軍勢を向かわせました。この時、上杉勢に攻められた氏康の軍勢は、戦うことなく武蔵砂窪から兵を退きました。これをみた上杉軍は、北条氏康は臆病者だと笑ったということです。

 しばらくして、氏康は再び武蔵砂窪へ出陣しました。そして、上杉勢が攻め寄せてくると今度も氏康は戦わずに陣を引き払いました。上杉憲政は、逃げていく北条氏康の軍勢をみて、完全に相手をあなどりました。「関東古戦録」の作者は、「この時、憲政に戦略の才能があれば氏康を討ち取ることができたであろうに、暗愚な憲政は何の手も打たずにみすみす好機を見逃した」と言っています。

 一方の氏康は、敵方に忍びを放って情報を集めていました。氏康は、自分が臆病なふりをすることで上杉勢が完全に油断していることを知りました。そして、氏康はついに「機は熟した」と判断し河越城を奪還するための戦を実行に移したのです。

 

 天文十五年(1546年)四月二十日、北条氏康は八千騎の軍勢を率いて三たび武蔵砂窪に出陣しました。氏康は八千騎の軍勢を四つの部隊にわけ、多米大膳亮が指揮する一隊を遊軍として配置し、戦いに加わることなく決して備えを乱すなと命じました。氏康は残る三隊を戦いに投入し、各隊が連動して戦うように命令しました。北条軍の兵士たちは、白い目印を身に着け、合言葉を決めて、重い甲冑を着けずに身軽な恰好になりました。そして、敵の首はとらずに味方の法螺貝の合図にしたがって迅速に行動するように厳しい軍律が定められました。

 深夜子の刻(午前零時ころ)北条軍は寝静まっている上杉軍に襲いかかりました。油断しきっていた上杉軍の兵士は次々と切られ、あるいは同士討ちを始めて大混乱に陥り総崩れとなりました。攻め込んだ北条軍では、大将である氏康自身が長刀を取って獅子奮迅の活躍をし十四人の敵を討ち取ったということです。このため北条の軍勢は勢いに乗って敵を攻め続け、散々に敵を蹴散らしていきました。

 また、河越城の福島綱成は、氏康軍の夜襲が開始されると機を見て城門を開き、三千の軍勢を率いて城から打って出て古河公方足利晴氏の陣に攻めかかりました。先頭を駆ける綱成は、いつものように黄八幡の指物をなびかせて「勝った、勝った」と味方を鼓舞しながら敵中へ切り込み次々に敵を討ち取っていきました。古河公方の陣営では、北条軍の動きを見て夜襲を警戒していましたが、思いもよらず明け方近くになって河越城の軍勢が攻撃してきたので全く対処できずに翻弄されてしまいました。

 夜が明ける前に戦いは終わり、北条軍は大勝利を挙げていました。上杉勢では扇谷朝定が討たれ扇谷上杉家は滅亡しました。また、倉賀野三河守、本庄藤九郎、難波田隼人正、本間近江守など上杉方の名だたる武将が多数討ち死にしていました。上杉憲政足利晴氏は、梁田、一色、結城、相馬など数多くの味方の軍勢を犠牲にしてなんとか逃げおおせていましたが、河越夜合戦における上杉勢・古河公方勢の戦死者は一万三千人にも及んだと関東古戦録は伝えています。

 東の空が漆黒から藍色へ変わり始めるころ、北条軍は全軍が北条氏康のもとに集結していました。戦いに加わらず体力を温存していた多米大膳亮の率いる遊軍が、氏康本陣の守りを固め敵の反撃に備えました。多米大膳亮はこの奇跡的な勝利に決して奢ることなく「勝って兜の緒を締めよ」と言って味方の士気が緩まないように気を配っていました。北条軍は高らかに勝鬨の声をあげました。その勝利の雄たけびが、明け行く武蔵野の広野に響き渡りました。そのあと、氏康は福島綱成・勝広の兄弟を招きよせ長い間籠城戦に耐えてくれた綱成の労をねぎらい、命を懸けて敵中を突破した勝広の忠義を称えました。氏康は「こたびの戦の勝利は、汝ら兄弟の忠義の賜物である」と何度も繰り返して感謝したということです。

 

今回参考にした文献は以下の通りです。

 

関東古戦録 槙島昭武著 久保田順一訳 あかぎ出版

 

関東戦国史(全) 千野原靖方 崙書房出版

 

新訂 孫子 金谷修訳注 岩波文庫