歴史楽者のひとりごと

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関東の戦国 鉄砲伝来以前、最強の戦国武将は北条氏綱

 関東の戦国時代は、明応二年(1493年)に伊勢宗瑞が伊豆の堀越公方足利茶々丸を襲撃したことから始まりました。宗瑞が堀越公方を襲撃したのは、同じ年に京都で細川政元が起こした明応の政変というクーデターと連動した「かたき討ち」でした。このかたき討ちは、クーデターで十一代将軍の座についた足利義澄が伊勢宗瑞に依頼したのもでした。将軍義澄の母と弟は、伊豆で茶々丸に殺害されていたのです。

 宗瑞は明応七年(1498年)に茶々丸を自害に追い込み「かたき討ち」を完了しましたが、その後も伊豆侵攻を止めることなく推し進め、伊豆一国の支配権を手に入れ戦国大名となったのです。さらに、宗瑞の野望は伊豆一国を支配することにとどまらず、関東侵略を視野に入れていました。

 そのころ関東では、関東管領山内上杉顕定と相模・武蔵の守護扇谷上杉定正の間で激しい覇権争いが起きていました。伊勢宗瑞は両上杉の覇権争いに乗じて小田原城を奪取し関東侵略の足掛かりを得たのです。

 伊勢宗瑞の息子である北条氏綱は、父の遺志を引き継ぎ小田原城を拠点にして関東侵略に乗り出しました。しかし、氏綱の前には覇権争いを終わらせた関東管領山内上杉氏武蔵国守護扇谷氏や小弓公方足利義明など室町時代から関東に君臨してきた武家勢力が立ちはだかっていました。言わば、関東の戦国時代の前半は、長らく関東を支配してきた旧勢力と新興勢力である北条氏とのぶつかりあいであったのです。

 

 当ブログでは、明応二年(1493年)に始まった伊勢宗瑞の伊豆侵攻から天文七年(1538年)の下総相模台合戦に至る関東の戦国時代前半の歴史を八回にわたってお話してきました。このおよそ五十年間にわたる関東の戦国時代前半の歴史のなかで傑出しているのは、やはり北条氏綱の活躍です。

 氏綱は大永四年(1524年)正月に扇谷氏の城である江戸城を攻略し武蔵国南部に進出します。この後、氏綱は山内上杉、扇谷上杉、小弓公方武田信虎などによって形成された「氏綱包囲網」に苦しめられますが、なんとかその窮地を脱して天文六年(1537年)に扇谷朝定を破り、扇谷上杉氏の本城である河越城を奪って武蔵国を完全に支配下に収めました。さらに翌天文七年(1538年)には下総相模台合戦で小弓公方足利義明を滅亡させました。氏綱は小弓公方が支配していた下総国小弓城には原氏を入れ、上総国には真里谷武田信隆を配置してこの地域を北条氏の支配する地域に組み込んだのです。

 この時点で、北条氏綱が支配していた領域は、伊豆国相模国武蔵国の三か国に加えて、氏綱に従う真里谷武田氏の上総国と同じく氏綱に従う原氏が支配する下総国の一部に及び、さらに駿河国の東部も北条氏の支配地域に含まれていました。

 北条氏綱の力は、同時代の戦国武将と比較しても傑出していると思われます。例えば氏綱と同様に斎藤道三は親子二代で下克上を成し遂げていましたが、支配している領国は美濃一国でしたし、後に西国一の戦国大名となる毛利元就もこの時点では、まだ大内氏の傘下にいて安芸国の一部を支配しているにすぎませんでした。

 毛利元就が仕えていた大内義興は周防、長門を領国とし全盛期には安芸、石見、筑前豊前を支配し、永正五年(1508年)から永正十五年(1518年)の間は上洛して室町幕府を支える重鎮として活躍していたのです。こうしてみると、氏綱は西国の太守大内義興に匹敵する力を持っていたと言っても過言ではありません。

 ちなみに戦国時代の英雄たちが生まれた年は次の通りです。武田信玄=1521年、上杉謙信=1530年、織田信長=1534年、豊臣秀吉=1537年、徳川家康=1543年。彼らは氏綱の次世代の武将たちでした。

 

 ところで、氏綱が活躍していた時代に鉄砲はまだ伝来していませんでした。日本に鉄砲が伝来したのは天文十二年(1543年)のことです。氏綱はその二年前天文十年(1541年)七月に亡くなっています。すなわち、氏綱が戦っていたころ合戦の主要な武器は弓矢や長刀でした。そのせいか小田原北条記に記述されている合戦の様子はどこか中世的な色合いを深く残しています。

 その中世的な戦いの中で、北条氏綱の戦いぶりは異彩を放っていました。氏綱の関東侵略はまさに電撃作戦と言ってもいいほどです。扇谷上杉氏や小弓公方を滅亡に追い込み、瞬く間に関東南部を席捲した氏綱の軍事行動の特徴は、まさに素早い決断と行動にあったと思われます。

 例えば、天文六年の河越城攻略の際、先に動いたのは扇谷朝定でした。朝定は氏綱の支配する相模国を攻撃するための前線基地として深大寺城を構築しました。ところが氏綱は、この情報を知るとすぐに大軍勢を率いて深大寺城へ攻め寄せてこの城を攻略し、休む間もなく一気に河越城へ迫りこの城も落城させて扇谷朝定を滅亡へと追い込んでいったのです。

 また、天文七年の下総国相模台合戦に於いても先に動いたのは、小弓公方足利義明の方でした。義明は江戸川河畔に位置する国府台城に軍勢を入れて、氏綱の城である江戸城や葛西城を牽制しようとしたのです。

 しかし、この時も敵の動きに素早く対応したのは氏綱でした。当初氏綱は戦いを避けるために和平交渉を行っていました。しかし、交渉が決裂するやいなや氏綱は江戸城河越城に兵糧を運び込み城の守りを固めると、またしても電光石火の素早さで軍事行動を開始し、大軍を率いて国府台城へ迫り敵の隙をついて江戸川を渡り勝利を得たのです。

 私が注目するのは、いざ軍事行動を開始すると決断してからの氏綱の行動の速さです。氏綱の強さは、短期間で兵糧を集めて輸送したり、数千の軍勢を素早く集めて迅速に行動することができることだと思います。

 氏綱に敗れた扇谷朝定や足利義明は、とりあえず城を築いて軍勢を集め、戦いの準備することはできても、そのあとの行動がともなっていないのです。ある意味、彼等は敵を攻撃する準備をしただけで満足しているように私には思えます。

 

 いったい、勝った北条氏綱と負けた扇谷朝定や足利義明との間にはどのような違いがあるのでしょうか?その答えを導き出すヒントは、氏綱の父伊勢宗瑞が残した家訓「早雲寺殿廿一箇条」にあると私は考えます。

 この「早雲寺殿廿一箇条」は、伊勢宗瑞が家臣に対して日常の心構えや態度を示したものであると伝えられています。日常の心構えと聞いて肩透かしをくった方もいらっしゃると思いますが、油断は禁物です。この家訓には、現代の脳神経医学者が提唱する、脳の働きを格段に高めるための良い習慣と共通する要素が数多く含まれているのです。

 その脳神経医学者とは、北京オリンピックの競泳日本代表チームに招かれ「勝負脳」を鍛えるためのアドバイスを行った林成之先生です。林先生の著書「脳に悪い七つの習慣」によれば、我々が日常生活で行っている悪い習慣を変えることで脳の働きは格段に高まり、高度な思考力を使って素早い決断を下し、ここぞという勝負所で高いパフォーマンスを発揮できる人間になれるというとです。そして、林先生の提唱は、北京オリンピックの舞台で北島康介選手が金メダルを獲得するなどした競泳日本代表チームの活躍で証明されているのです。

 では、「勝負脳」を作り出す習慣と「早雲寺殿廿一箇条」の共通点をみていきましょう。家訓では、「読書をすること」「歌道を学ぶこと」「文武を兼備すること」を奨励しています。これは、様々なことに興味や関心を持って前向きに取り組むことにつながります。これは勝負脳を作りだすための第一ステップです。

 次に、家訓では「常に素直で正直な心を持ちなさい」と説いています。林先生の著書によると、人の話を聞いた時や新しい知識にふれたときには素直に感動することが大切だそうです。「感動する力」は脳をレベルアップさせるそうです。

 また、家訓では「友人を選びなさい」と言っています。良き友人を持ちその友人たちから自分の存在を認められること、褒められること、友人の役に立つこと、これらは人間の脳が最も喜びを感じる瞬間だそうです。その喜びの瞬間をもう一度味わいたいという気持ちが、脳の働きを大いに高める原動力となるそうです。

 まだこのほかにも、「早雲寺殿廿一箇条」と「勝負脳」の間には多くの共通点がありますので、興味のある方は林先生の著書と早雲寺殿廿一箇条をぜひ読み比べてみてください。

 

 北条氏綱は、子供のころから父宗瑞に英才教育を受け、高度な思考力を持ち、重要な決断を下し、ここぞという場面で一気に勝利を勝ち取ることのできる能力を身に着けたのだと思います。そして、北条氏綱の本拠地である小田原は、氏綱の個人的な能力を大いに活かせる場所でした。

 戦国時代の小田原は交易で栄え、大内氏の本拠地である山口と並び称せられるほどの町でした。小田原の繁栄が、北条氏の経済基盤を支え、諸国の情報をもたらす要因になったと考えらえます。小田原というバックボーンがあったからこそ、氏綱は諸国からもたらせれる情報を使って戦略を練り、大軍勢を集めることができ、大量の兵糧を用意したりすることが可能だったのです。その地の利を生かした氏綱は、「勝負脳」を使って他の武将を凌駕する軍事行動を展開し、瞬く間に南関東を席捲していったのです。

 まさに、北条氏綱は、鉄砲伝来以前における日本で最強の武将であったと言えるでしょう。

 

今回参考にした資料は以下の通りです

 

小田原市公式サイト 観光 早雲寺殿廿一箇条

「脳に悪い7つの習慣」 林成之 幻冬舎新書

小田原北条記(上) 江西逸志子 原著  岸正尚 訳 ニュートンプレス