歴史楽者のひとりごと

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関東の戦国 北条氏綱の武蔵国制覇と扇谷上杉氏の滅亡

 天文六年(1537年)四月、扇谷朝興が河越城で病死しました。朝興は北条氏綱江戸城を奪われた屈辱を晴らすため、その生涯を氏綱を倒すことに費やしたのですが、つにに氏綱を倒すことは叶わず、鬼籍に入ったのでした。

 朝興の死後、扇谷上杉家家督を継いだのは息子の朝定でした。朝定の年齢はこの時まだ13歳であったと云われています。父の遺言に従った朝定は、亡父の弔いを早々に切り上げて、北条氏綱の討伐に乗り出したのです。まず、朝定が着手したのは、武蔵国深大寺にある古い城跡を改修することでした。

 もともとの深大寺城が誰の手によって築かれたのかは定かではありませんが、「埋もれた古城」というブログによると15世紀ころ狛江氏によって深大寺に城が築かれていたという説があるようです。今では、深大寺と言えばお蕎麦で有名ですが、蕎麦屋が建ち並ぶ深大寺門前通りの南側にある「神代植物公園水生植物園」の中には、朝定が改修した深大寺城の城跡が残っており、かつての空堀の遺構などを見ることができます。関東の戦国時代の痕跡は意外に身近なところに存在しています。コロナ禍が終息したら、訪れてみるのもいいかもしれません。

 

 さて、扇谷朝定が新たに築いた深大寺城は、武蔵野台地の南縁辺部に位置し、湿地や国分寺崖線などを利用した天然の要害で、南を眺めれば多摩川とその対岸を望むことができました。朝定は、この城に軍勢を集めて相模攻撃の前線基地にしようと考えていたのです。

 しかし、深大寺城はその目的を果たすことなく破壊されてしまいました。朝定の動きを察知した氏綱は、天文六年(1537年)七月に大軍を率いて深大寺城を攻撃しひと揉みに押しつぶしてしまったのです。氏綱軍はそのまま北へ進軍し、河越城までわずか5.5㎞の距離に位置する三木(埼玉県狭山市三木)という所に陣を構え、河越城を攻撃する態勢を整えたのです。

 小田原北条記によれば、氏綱は数万騎の軍勢を率いており、先陣の兵には井浪、橋本、多目、荒川を足軽大将としてつけ、松田、志水、朝倉、石巻を五方面に配備して敵の出方を待ったそうです。

 これに対して、扇谷朝定は叔父の左近大夫朝成を大将としておよそ二千騎の軍勢を三木へ差し向けました。三木という場所は開けた地形で、大軍が野戦を展開するのにうってつけの場所でした。大軍を擁し、地の利を得た北条軍は、扇谷軍を圧倒します。扇谷軍の大将である扇谷朝成は敵方に捕らえられ数多くの軍兵が討ち死にし、扇谷勢は大敗し河越城へ退却しました。

 河越城で戦況を見守っていた扇谷朝定は、北条の大軍を河越城で迎え撃つのは不利と判断し、城を捨てて難波田弾正が守っている松山城へ避難しました。こうして北条氏綱河越城を手に入れることができたのです。一方、朝定が松山城(埼玉県東松山市)にいることを知った扇谷勢の残党は、松山城へ集結し河越城を攻撃して奪い返そうとしていました。扇谷勢の動きを知った氏綱は、大軍を率いて松山城を襲撃し難波田弾正をはじめ多くの敵方を討ち取り周囲へ放火したのち河越城へ帰還したということです。

 

 北条氏綱は、大永四年(1524年)に江戸城を奪取し、天文六年(1537年)に河越城を手中に収めました。河越城享徳の乱以来、扇谷上杉氏の本拠地と定められ扇谷上杉氏が武蔵国を支配している象徴のような城でした。その河越城北条氏綱のものとなったことは、北条氏綱武蔵国制覇がほぼ達成されたことを意味します。

 北条氏綱河越城の城代に氏康の弟である北条為昌を配置しました。為昌は河越城の他、相模国東部を管轄する玉縄城(神奈川県鎌倉市)の城代も兼ねており兄氏康とともに父氏綱を支える重要な役割を果たしていたのです。北条氏綱が支配する領国は、相模国武蔵国伊豆国に加えて駿河国東部の一部にまで及んでいました。北条氏は、関東きっての戦国大名へと成長したのです。

 これに対して武蔵国の支配権を失った扇谷朝定は、かろうじて生き残り、松山城周辺の地域をどうにか支配していました。天文七年(1538年)以降、朝定は河越城を奪還するため何度も北条氏に戦いを挑みましたが、その都度北条方に跳ね返されていました。朝定の最期の戦いは、天文十五年(1546年)四月に起きた河越夜戦でした。この戦いの最中、扇谷朝定は討ち死にしました。

 永享十年(1438年)に勃発した永享の乱の頃から台頭し、相模国武蔵国の守護として両国を支配し、全盛期には関東管領山内上杉氏と並び立って関東に君臨した扇谷上杉氏は、朝定の死によって滅亡しました。室町時代から戦国時代へと大きく時代が転換するなかで一時代を築き、およそ90年間繁栄してきた扇谷上杉氏でしたが、新たに台頭してきた北条氏によって滅ぼされ歴史の舞台から消え去ったのです。

 

 しかし、江戸時代になると扇谷上杉家は庶民に人気のあった物語のなかに登場することになりました。その物語とは、曲亭馬琴が書いた長編小説の「南総里見八犬伝」です。八犬伝の中に登場するラスボス的存在が扇谷定正です。江戸の庶民にとって、扇谷定正は英雄太田道灌を暗殺した中心人物であり悪の権化というイメージがあったのでしょう。定正の他にも当ブログでしばしば登場する古河公方足利成氏関東管領上杉顕定も悪役として登場します。扇谷、足利、上杉の悪の連合軍は、里見八犬士の率いる安房里見家と戦い敗れるという物語です。

 私が小学生の頃、NHKが「新八犬伝」という子供向けの人形劇を放送していました。私はこの番組が大好きでよく見ていたのですが、今は亡き坂本九さんがナレーターを担当されていて「抜けば玉散る氷の刃」という名ぜりふとともに「関東管領扇谷定正」と言われていたことを懐かしく思い出します。

 

今回参考にさせていただいた文献およびブログ等

 

関東戦国史(全) 千野原靖方 崙書房出版

原本現代訳 小田原北条記(上) 江西逸志子原著 岸正尚訳

扇谷上杉氏と太田道灌 黒田正樹 岩田書院

ブログ 埋もれた古城

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