歴史楽者のひとりごと

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関東の戦国 上杉憲政の越後逃亡と室町時代の終焉

 天文十五年(1546年)四月、北条氏康は河越夜合戦において関東管領上杉憲政古河公方足利晴氏の率いた八万五千騎の大軍勢と戦い、わずか十分の一の戦力でこれを打ち破りました。この関東戦国時代の歴史に残る奇跡的な大勝利は、北条氏康の立場を一気に飛躍させました。その結果、これまで上杉家を支えてきた武州滝山城主の大石源左衛門尉定久や秩父郡井戸天神城主の藤田右衛門佐邦房などがこぞって北条方へ寝返ってきたのです。

 さらに、氏康は空城となった上杉方の松山城を労せずして手に入れ、武蔵北部の要衝を押さえることに成功し、忍の成田氏や鷹ノ巣の小幡氏も味方に引き入れ武蔵国の支配を盤石なものとしました。また、氏康は河越合戦で上杉に味方した古河公方足利晴氏を強く非難し、古河公方家の御料所が多数点在する下総北西部へ軍勢を差し向け、古河公方に軍事的な圧力をかけました。

 

 河越合戦に敗れた上杉憲政は、上野国の平井城に引き籠っていました。上杉の家臣のなかには、関東管領家をなんとか立て直そうという志を持った者が少なからず残っていたようですが、肝心の上杉憲政関東管領の重責を担うだけの器量を持った人物ではありませんでした。関東古戦録は、上杉憲政の人物像を次のように評しています。

 「上杉憲政は、三歳で実父憲房を失い、九歳で養父憲寛の譲りによって関東管領職を受け継いだため、諫め導く人もなくわがままに成長し、文に暗く武に欠け、歌・蹴鞠・茶の湯の道や酒色におぼれて過ごしてきた。」

 主君がこのようなありさまであったので、憲政の側近には貪欲でよこしまな佞臣ばかりが集まり、政務を疎かにして私腹を肥やしていました。そのため、上杉家中の士気は下がり武道は衰えていました。この様子を見て、誰もが上杉家は間もなく滅亡するであろうと思っていました。

 

 衰退する上杉家に対し、北条氏康は容赦なく攻撃を仕掛けました。天文二十年(1551年)の冬から翌二十一年二月にかけて、氏康は数千騎の軍勢を率いて上杉憲政の嫡男龍若丸が立て籠もっている武蔵金鑚山近辺の御嶽城(埼玉県児玉郡)へ攻め寄せました。三月になって同城は落城し、城主の安保泰広・泰忠父子は降参しました。この合戦では数千もの兵士が討ち死にを遂げ、城に立て籠もっていた数千の雑兵は水源を断たれて水を飲むことができずに命を落としたそうです。

 この合戦の後、上杉方の有力な武将たちの多くが北条方に寝返り、ついには憲政の馬廻り衆までもが裏切って北条方の味方についたということです。とうとう、上杉憲政は普代の家臣たちにも見放されて孤立してしまい、五十余名の供を連れて越後へ逃亡したのです。

 越後守護代長尾景虎は、喜んで憲政を迎え入れたということです。関東古戦録によると、「景虎は、礼をもって接待に努めたので、憲政は家運が衰えたことを述べ、永享の乱の時朝廷から下された錦の御旗・関東管領職補任の綸旨・藤原鎌足以来の系図・御所作りの麻呂の太刀・飛雀の幕などとともに上杉の名字と自分の名の一字を与えた。景虎はこれらをうやうやしくいただき、「秘計をめぐらせて御敵を退治しますのでご安心下さい」と言上した。春日山の二の郭に館をつくり、三百貫の厨料を献上した。」ということです。

 長尾景虎は、上杉政虎と改名しました。天文二十一年(1552年)五月、上杉政虎従五位下弾正少弼に叙任され、越後守護職の継承にふさわしい格式を得ると同時に、上杉憲政を扶助するという立場が明確になりました。憲政は出家して「成悦」と号して越後に在国していました。

 

 上杉憲政が越後へ逃亡したことは、関東において室町時代が終焉を迎えたことを示す出来事であったと私は思います。室町幕府を開いた足利尊氏は、関東を統治する機関として鎌倉府を設置し、尊氏の三男である基氏が初代鎌倉公方となりました。若い鎌倉公方の補佐役として設けられたのたが関東管領職でした。

 当初、関東管領職についたのは斯波家永でしたが、観応擾乱の後、基氏から信頼されていた上杉憲顕関東管領職に就任にし、その後は上杉氏が関東管領職を独占し世襲してきたのです。まさに、関東管領とは、関東の室町時代の権威と秩序を象徴する存在であったと言えます。

 享徳三年(1454年)からおよそ30年もの間続いた享徳の乱において関東管領上杉氏は古河公方と対立し勢力を拡大しました。しかし、この時代が関東管領の全盛期であったと思われます。長い戦乱によって室町時代に築かれた鎌倉府や関東管領の権威は、すでに衰え始めていたのです。

 このころ関東では、室町時代から戦国時代へ移る過渡期を迎えていました。武将たちは、古い権威や秩序を軽んじ、自らの武力で勢力を拡大するようになったのです。そして、権威を守るべき立場にあった山内上杉氏と扇谷上杉氏との間で勢力争いが勃発しました。両上杉の戦いは双方を疲弊させ、そのすきをついて北条氏が関東へ侵攻してきたのです。

 北条氏は、宗瑞、氏綱、氏康という親子三代にわたって関東へ侵攻を続け上杉氏の領国を奪い取ってきました。そして、ついに氏康は関東管領上杉憲政を関東から追い出してしまったのです。氏康は、室町時代の残照ともいうべき関東管領という存在を完全にかき消してしまったのです。

 

 伊勢宗瑞が小田原城を奪取したのは文亀元年(1501年)のことでした。それから約五十年をかけて北条氏は関東への進出を図って上杉氏と抗争を続けていましたが、その戦いに勝利したのです。こののち、北条氏は天正十八年(1590年)豊臣秀吉に攻め滅ぼされるまで約四十年間関東に君臨したのでした。

 すなわち、北条氏は関東の戦国時代においておよそ九十年もの間時代の中心にいたのです。新興の成り上がりものでしかなかった北条氏が、なぜ関東の覇者となりえたのでしょうか?私は以前その理由として、北条氏の歴代当主たちが持っている戦国武将としての個人的な能力の高さを説明しました。宗瑞、氏綱、氏康は、武勇に優れていたのはもちろんのこと、非常に高度な思考力を持ち、ここぞという時に的確な判断を下し、素早く行動を起こせる人物でした。彼らの思考力、判断力、行動力の源泉になっていたのは、北条家の家訓である早雲寺殿21箇条にある「勝負脳」を鍛えるための生活習慣でした。

 しかし、北条家歴代当主の個人的な能力の高さだけが、北条氏成功の理由ではありません。北条氏の強さの秘密は、集団としての強さ、組織としての強さにあると私は考えます。北条氏は、戦国時代においては珍しく一族が結束し、家督相続争いなどの内部抗争を起こしたことがありません。

 この組織としてのまとまりの良さを創り出す土台となっていたのは、若き日の伊勢宗瑞と苦楽をともにした仲間の存在でした。青年時代の宗瑞には6人の仲間がいました。荒木兵庫頭、山中才四郎、多目権兵衛、荒川又次郎、大道寺太郎、在竹兵衛尉です。宗瑞と6人の仲間たちは、この7人のうちの誰かが一国一城の主となったあかつきには、のこる6人は家来となり、その出世頭を主君と仰いで力をあわせようと誓いあっていたのです。7人の若者は、それぞれの夢を抱いて冒険の旅に出たのでした。

 駿河国に赴いた伊勢宗瑞は、今川家の内乱に身を投じて今川氏親を助け、今川家の正当な跡継ぎである氏親に今川家の家督を相続させることに成功しました。この手柄によって、宗瑞は氏親から駿河国の東部に位置する興国寺城を与えられ城の主となることができたのです。そして、他の仲間たちは、約束通りに宗瑞の家来となり、宗瑞を盛り立てていくことになったのです。

 この話は、小田原北条記に記された逸話であり、真実かどうかはわかりませんが、北条家の家臣団が、主君のもとに結束し様々な難局を乗り切ってきたからこそ、北条氏は伊豆国を振り出しに、相模国武蔵国と領国を拡大していくことができたのです。伝説の若者たちの子孫は、氏康の時代になっても重臣として活躍していました。北条軍が奇跡的な勝利を挙げた河越夜合戦において、攻撃部隊を率いていたのは大道寺氏や荒川氏でした。また、合戦に加わることなく遊軍として控えていたのは、多目大膳亮の率いた軍勢でした。

 多目大膳亮が率いた遊軍は、決して合戦に加わらず陣地を動くなと氏康から厳命されていたのです。戦国時代の武将にとって、戦うことを禁じられるのは屈辱的なことではないでしょうか。しかし、氏康が多目大膳亮に下した命令には重要な意味があったのです。

 河越夜合戦では、北条軍は十倍の敵と戦わねばなりませんでした。ですから、全兵力を投入して勝ったとしても、戦いが終われば兵士は消耗しきっているはずです。そこへ新たな敵が出現すれば、もはや戦える兵士は残っておらず、せっかくの勝利も水の泡となってしまいます。その危険を防ぐために、氏康は遊軍を残しておきました。多目大膳亮は自分の役割を十分に理解していたので、氏康の命令に不服を唱えることはありませんでした。そして、多目大膳亮の遊軍は、合戦が終わった後の疲れ切った味方の軍勢を守る役割をしっかりと果たしたのです。

 

  重臣たちだけではなく、北条家では下々の家来たちもこぞって主君の為に働こうという気概を持っていたのです。例えば、北条氏綱が、小弓公方足利義明を破った国府台合戦の時には、合戦を前にした軍議の席で、末席にいた根来金石斎というものが、兵法に基づいた積極的な攻撃策を具申したところ、氏綱はその策を採用して勝利を収めました。金石斎は剣と馬の褒美を氏綱から頂戴したうえ、攻撃の先手までまかされたのでした。

 一方、敗れた足利義明は、家臣の進言を退け、冷静な戦況分析もすることなく、ただがむしゃらに攻撃に出たので、味方は大敗し義明自身は戦場で討ち死にしてしまいました。この戦いの結末は、北条家の組織力の強さをまざまざと見せつけたのでした。

 このように、北条氏は風通しの良い組織として成り立っていたのです。その気風は武士たちの中だけにおさまることなく、北条氏の本居地である小田原城下にも及んでいました。戦国時代の小田原は、新しい時代を切り開くという雰囲気に満ち溢れた城下町だったのです。

 小田原城下の活気は、国の内外から多くの人や物を呼び寄せたのです。そのなかでも特に有名なのが、京都からやってきた霊薬を商う外郎という町人でした。外郎が扱う薬は大層な評判となり、その評判が氏綱のもとにも届いたので、外郎は氏綱に拝謁する機会を得たのです。氏綱は外郎の話を聞いて感心し、外郎に屋敷を与えて小田原にとどまらせたということです。その外郎の子孫が、今でも小田原に在住し「ういろう」を販売されているのです。

 

 このようにして、北条氏は戦国時代の関東において、大きなる繁栄を遂げたのです。北条氏は新興勢力として登場してきたので、他の勢力に比べて一族・組織としての団結力が非常に強かったのです。その団結力の強さが、戦国時代のような有事には重要な意味を持つのです。

 孫子は、兵法書の巻頭で「兵とは国の大事なり」と述べています。すなわち、戦争とは国家の一大事であり、この戦争に勝てるか、あるいは負けて滅びるかは、五つの事柄によって決まってくると言っています。

 孫子がその五項目の第一番目に挙げているのが、「道」です。道とは、すなわち、国の指導者の心と民の心が一つになっているかどうかということです。戦国時代の北条氏は、主君と家臣団の心がひとつになり、共通の目的に向かって邁進できたからこそ大きな成功を収めることができたのです。国家のリーダーが正しい政治を行っていたからこそ、人々はそのリーダーの考えに従い、国の一大事に際して皆で協力して、危機を乗り越えることができたのです。

 翻って、現代の日本に於いて、国家のリーダーと国民の心はひとつになっているでしょうか?コロナ禍という国の一大事を我々は乗り切ることができるでしょうか?

 私は、国民の心をひとつにしようというリーダーの努力が足りないように思えてなりません。現代は、様々な価値観や様々なライフスタイルが尊重される時代、いわゆる多様性を重視する時代です。ですから、ある特定の目標や価値観に人々を縛りつけるのが困難であることは間違いありません。だからと言って、国家のリーダーが、形ばかりの緊急事態宣言を発出するだけでは、この危機を乗り切ることはできないでしょう。国家のリーダーは、こういう時こそ必死になって国民の心をひとつにするためのアイデアを考え、そのアイデアを実行に移すべきなのです。

 そして、我々自身もまさに歴史の分岐点に立っているのです。我々は、ただ単に歴史の目撃者となるのではなく、その時歴史を動かした「人々」となるべきではないでしょうか。

 

今回参考にさせていただいた文献は以下の通りです。

 

関東古戦録 槙島昭武 著  久保田順一 訳  あかぎ出版

小田原北条記 江西逸志子 原著 岸正尚 訳  ニュートンプレス

関東戦国史(全) 千野原靖方 崙書房出版