歴史楽者のひとりごと

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東の将軍 鎌倉公方 その5ー 基氏関東平定に乗り出す

新田義興の暗殺
1358年足利尊氏は京都で他界しました。享年54歳でした。尊氏が亡くなると南朝方の動きが再び活発になりました。尊氏に敗れ越後へ逃れていた新田義興が、再び関東へ攻め込む準備を始めたのです。義興が攻め込んでくることを恐れた鎌倉公方足利基氏関東管領畠山国清は、策略をめぐらし義興を騙し討ちにすることにしました。この顛末は、東京都大田区矢口にある新田神社の縁起に詳しく説明されています。
新田神社縁起によれば、畠山国清は竹沢右京亮と江戸遠江守を招いて、二人に新田義興の味方を装って義興を誘い出し、暗殺するように命じたということです。さっそく、二人は少将局という美女を義興に差し出して接近を図り、義興の味方になりすました。竹沢右京亮は、足利氏に恨みがあるので、その恨みをはらすためにいっしょに鎌倉に攻め込み、基氏を倒そうという偽りの計画に新田義興を誘い出したのです。
1358年10月10日新田義興は江戸遠江守と共に鎌倉へ向かって発進しました。やがて多摩川の矢口の渡しにさしかかると、義興一行は船で対岸へ渡ることになりました。この渡し船こそが義興を暗殺するためのワナだったのです。義興とその家臣が乗り込んだ船には事前に仕掛けが施されていました。江戸氏の手先である渡し船の船頭は、義興の乘った船が川の中ほどにくると、船底に仕掛けていた穴を開けて自らは川へ飛び込み逃げ出したのです。船はみるみるうちに水が入り沈み始めました。 さらに、川の両岸には江戸氏の伏兵が待ち伏せており、沈みかけた船に乘った義興主従に対して、一斉に矢を射かけたのです。謀られたことに気がついた新田義興は無念の形相で腹を切り、家臣たちは互いに刺し違えて自害したのです。こうして、新田義興は暗殺されました。
ところが、その後新田義興は怨霊となって江戸氏や船頭に祟りをなしたというのです。船を沈めた船頭は溺死し、江戸遠江守は落馬して寝込み、七日間布団の上で溺れるしぐさをしながら狂い死にしたそうです。入間川陣の近くでは、義興の怨霊がさかんに落雷を起こし、人々を恐れさせました。また、矢口の渡し付近では、夜な夜な義興の怨霊が火車となって現れ人々を悩ませたということです。そこで、多摩川近隣の村人たちが、義興の怨霊を鎮めるために墳墓を築き祠を建てて新田大明神として崇め奉ったところ、ようやく怨霊の祟りはおさまったと伝わっています。
新田義興の暗殺を実行し、その後不可解な死を遂げた江戸氏は、武士としての評判を落としてしまいました。鎌倉時代には、源頼朝重臣であり武蔵国南部一帯を支配していた江戸氏はその後衰退していきました。

畠山国清の失脚
1359年には、京都周辺でも南朝方に不穏な動きが現れました。尊氏の跡を継いで二代将軍となった足利義詮は、南朝方の機先を制し、河内国にある南朝方の拠点へ攻撃を仕掛けることにしたのです。この時、鎌倉公方足利基氏は、関東の軍勢を組織し、義詮に援軍を送りました。基氏の取った行動は、畠山国清の進言によるものでした。
このころ世上では、尊氏亡き後の将軍の座を巡り、弟の基氏が兄の義詮に対して謀反を企てるのではないかという憶測が盛んに飛び交っていたのです。畠山国清は、鎌倉から京都へ援軍を送ることで基氏には兄に背く意志などないことを示すべきだと提案したのです。そこで、基氏は畠山国清を大将とする援軍を編成し、兄のもとへ派遣したのです。
関東の援軍を得た義詮は、河内国南朝方を勢力を攻めたて、敵方を窮地に追い込んだのです。畿内への遠征が成功したことで、畠山国清は増長しました。国清は関東へ戻ると、高慢な振る舞いが目立つようになったのです。畿内へ遠征中のこと、遠征が長引いたので関東武士のなかには国清に無断で帰国するものがいました。国清はこのような武士たちに対して厳しい処分を下し、領地を取り上げたりしたのです。関東の武士たちは、国清の横暴な仕打ちに怒り、鎌倉公方足利基氏に対して、畠山国清の罷免を要求したのです。基氏は関東武士の支持を失うことを危惧し、武士たちの要求を受け入れて国清を関東管領の地位から降ろし、鎌倉から追放処分にしました。
鎌倉を追われた国清は、領国の伊豆へ逃れると修善寺に城郭を築いて防備を固めました。国清の思惑では、関東管領時代の権威は未だ衰えておらず、多くの武士たちが伊豆へ馳せ参じてくるはずでした。しかし、現実に国清のもとに集まった勢力はたった五百騎でした。一方、足利基氏が国清討伐のために軍勢催促を起こすと、関東の有力武士たちは続々と基氏のもとに集まってきました。基氏が討伐軍を従えて伊豆へ出陣したのは1362年8月のことです。基氏に代わって入間川陣の留守を預かったのは、基氏の嫡男である氏満でした。このとき、入間川陣の警固についたのは平一揆の高坂氏です。
畠山国清修善寺城にこもり抵抗を試みましたが、基氏の大軍勢にかこまれては、なす術もありませんでした。同年9月には修善寺城の兵糧が底をつき、国清はあえなく基氏に降参しました。その後、国清は逃亡しましたが奈良付近まで逃げて惨めな最後を遂げたということです。
鎌倉公方足利基氏は、父尊氏が亡くなった後の最初の戦いで勝利を挙げることができました。この戦いで勝利を得たことは、基氏にとって非常に大きな出来事だったと思います。自分が戦いに勝つ強い鎌倉公方であることを関東の武士達に示すことができたのです。この勝利によって、足利基氏は源氏の棟梁として坂東武者に認められたのです。

基氏の関東平定
畠山国清が失脚した後、基氏は上杉憲顕復権させることに力を注ぎます。まず手始めに、1362年に憲顕は越後国守護に就いています。これは、将軍義詮の権限によるはからいでもありました。義詮もまた、鎌倉の主であったころは憲顕の補佐を受けており、憲顕にはひとかたならぬ恩義を感じていたのです。
しかし、関東武士のなかには上杉憲顕の鎌倉府復帰に対して強く反発するものもいました。下野国の宇都宮氏綱は、もともと越後国守護でしたが、上杉憲顕が復活したことで越後国守護の座を追われていました。そのことで憲顕に遺恨のある氏綱は、芳賀氏とかたらって1363年に反乱を起こしました。足利基氏は素早く対応し、宇都宮氏綱の討伐に動きました。この時、基氏軍の主力となったのは、やはり平一揆の軍勢でした。平一揆の活躍で、基氏軍はまず武蔵国岩殿で芳賀氏を倒し、次いで下野国小山で宇都宮氏綱を降伏させたのです。さらに翌1364年には、基氏は世良田氏の討伐に動いており、精力的に関東平定のために軍事行動を続けていました。
関東平定を成し遂げた基氏の活躍は、朝廷からも認めらました。1364年4月足利基氏従三位に除せられ上級貴族の仲間入りを果たし、鎌倉公方の地位を確固たるものとしたのです。まさに、基氏の人生は充実し前途は洋々としていたのです。

ところが、基氏を突然の不幸が襲います。1367年4月、はやり病にかかった基氏は10日間ほど寝込んだのち息を引き取ったのです。享年28歳、9歳の時に鎌倉へ下向し鎌倉の主となった基氏は、観応の擾乱に巻き込まれるという過酷な運命に遭遇しました。父と叔父の争いを目の当たりにした少年基氏の胸中はいかばかりであったでしょうか。しかし、基氏は過酷な運命に耐え、敵対勢力を倒し、清和源氏にとっての聖地である鎌倉を守り続けました。初代鎌倉公方となった基氏は、少年の頃から関東平定に力を尽くし、絶えず戦陣に身を置いてきたのです。
京都で誕生したばかりの足利幕府は、まだ不安定であり、敵対する南朝方の勢力を押さえるために、鎌倉公方は関東武士の協力を得る必要がありました。そのために、鎌倉公方は、本来なら将軍しか持つことのできない「本領安堵」と「新恩給与」という二つの権限を持つことができたのです。この権限を持ったことで、鎌倉公方は関東の支配者として
君臨し関東武士との間に主従関係を結ぶことができたのです。
しかし、鎌倉公方が関東十ヵ国の武士たちと主従関係を結ぶことは、京都にいる将軍にとっては見過ごすことのできない脅威となっていたでしょう。鎌倉公方は関東武士団という強力な軍事力を手に入れることができるのです。鎌倉公方がその軍事力を行使して、将軍の座を要求してくれば一大事です。ましてや、義詮と基氏の兄弟は、父尊氏と叔父直義の権力争いを目の当たりにしながら成長してきたのです。大人になった義詮が、基氏に対して謀反の疑いを持つのは必然的であったのです。
そのため、基氏は絶えず足利将軍の猜疑心に気を配り続けていました。また、基氏は関東内部にも常に目を光らせ、敵対勢力を押さえ込む必要がありました。こうした基氏の生き様は、まさにその後の鎌倉公方のあり方を暗示しているようでした。鎌倉公方は内憂外患に悩まされ続けながらも、およそ百年間関東十ヵ国を支配する将軍のような存在として鎌倉に君臨しますが、その土台を築いたのが、初代鎌倉公方である足利基氏なのです。
こうして、基氏の生涯を振り返ると、基氏の誠実なイメージが浮かび上がってくると私は思います。基氏は、鎌倉府の力を安定させるために一時も休まずに働き続けています。その姿からは、新田義興を矢口の渡しで騙し討ちにしたような卑怯なイメージはわいてきません。おそらく、基氏は新田義興の暗殺に関して、畠山国清に対処を任せ、基氏自身は暗殺計画に深く関与していないのではないかと思うのです。私がそのように考える理由は、基氏の死後、鎌倉五山の僧侶たちが基氏の死を悼み、手厚い供養をほどこしたということが伝わっているからです。足利基氏は、関東平定に力を尽くした武家の棟梁であると同時に、庶民に対して心を向け善政を施した為政者でもありました。