歴史楽者のひとりごと

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将軍足利義輝を死に追い込んだのは誰か

 永禄8年(1565年)5月将軍足利義輝は三好義継と松永久通によって暗殺されました。歴史上在任中の将軍が暗殺されたのは義輝を含めて3人です。3代鎌倉将軍源実朝(頼朝の二男)は甥の公暁(くぎょう)によって暗殺されました。また6代室町将軍足利義教播磨国守護の赤松満祐によって暗殺されました。実朝と義教の暗殺は、大胆な言い方をすると、怨恨による殺人事件ととらえることができます。二つの事件の犯人は、事件後幕府によって討伐されました。

 これに対して、足利義輝の暗殺は他の二つの事件とはいささか趣を異にすると思います。足利義輝は天下(京都を中心とする五畿内)の支配権を三好長慶に奪われ、もはや無力な将軍となっていました。義輝が諸国の戦国大名に上洛を呼び掛けても、これに応じる者は無く、三好政権にとって義輝はなんら脅威的な存在ではなかったはずです。それにもかかわらず、義輝は暗殺されてしまったのです。すなわち、義輝暗殺には何か深い謎があるのです。今回はこの謎に迫ってみます。

 

◆将軍義輝の生涯

 天文15年(1546年)足利義輝は近江坂本で元服し父義晴から将軍職を受け継ぎ13代将軍となりました。義輝が将軍に就任した場所が京の都ではなく、地方であったことは異常なことでした。本来、天皇が任命する征夷大将軍の就任式は都で行われるべきものです。しかし、そのころ京の都では細川晴元細川氏綱が激しく争っており、義輝は都に居をさだめることができず近江に避難していたのです。近江守護の六角定頼は足利将軍家を支える頼もしい武将でしたが、決して上洛しようとはせず、あくまで近江に在国して将軍を支えるという姿勢を崩しませんでした。そのため、将軍義輝は都に入ることができなかったのです。

 将軍義輝が近江にいる間に勢力を拡大したのが三好長慶です。長慶は細川晴元の配下として大いに活躍し、細川氏綱を舎利寺の戦いで破ります。その後、長慶は主君の晴元と対立、江口の戦いで晴元を撃破し京の都の支配権を手に入れました。

 天文21年六角定頼が死去しました。定頼という大きな支えを失ったことで、将軍義輝は三好長慶と和睦を結ばざるを得ない状況になったのです。こうして将軍義輝は傀儡として存在し、天下の真の支配者は三好長慶という構図が生まれたのです。ところが、天文22年将軍義輝の側近たちは、三好長慶の暗殺を企てようとしました。この陰謀は実行される前に三好側に露見してしまいます。そのため、将軍義輝は三好の軍勢によって京の都を追われ朽木へに逃げたのです。このとき義輝に最後まで従っていたのはわずか40人余りの近習だけでした。

 

◆義輝の政策は場当たり的だった

 将軍義輝は、権力を取り戻すため諸国の戦国大名に呼びかけ支援を求めました。しかし、義輝の政策は首尾一貫しておらず、常に場当たり的であったために戦国大名の支持を得ることができなかったのです。

 一例をあげると、備前・美作の守護赤松晴政足利義晴の代から将軍家を支持してきた有力大名でしたが、義輝は出雲・隠岐の守護である尼子晴久に肩入れし赤松氏から備前。美作の守護を没収し尼子に与えてしまいました。そのため、赤松晴政は義輝から離反し三好長慶と手を結んだのです。

 また、毛利氏と大友氏に上洛を求めておきながら、毛利と対立している大友宗麟大内氏家督相続を認めたので、周防と長門の領有権を巡って毛利と大友の対立が激化しどちらの大名も上洛することができませんでした。

 足利義輝は剣豪将軍として知られています。鹿島新当流を開いた塚原卜伝や新陰流の上泉伊勢守信綱を招いて剣術を学びその力量は並々ならぬものがあったといわれています。一方で剣術を学ぶということは、人格を形成し論理的な思考を身に着けることでもありました。剣豪宮本武蔵が人生の集大成として「五輪書」を書き著したことからも、剣豪が単なる剣術使いではなく精神的にもすぐれた人物であることがわかると思います。

 しかし、将軍義輝は本来剣豪が身に着けているはずの、論理的な思考に基づく緻密な戦略を展開する能力に欠けていたようです。将軍義輝は何かしら精神的に欠落したところがあったのかもしれません。

 

天皇との対立

 将軍義輝は戦国大名たちの支持を得られなかっただけではなく、天皇とも対立しその立場を悪化させました。将軍義輝と正親町天皇(おうぎまち)との対立は改元を巡る問題に如実に現れています。

 古来より改元天皇の専権事項でしたが、鎌倉時代より次第に武家が関わるようになりました。室町時代になると将軍が改元の発議を行い、それを受けて天皇改元を実行することが習わしとなっていました。すなわち、改元の発議は将軍の職務であったわけです。将軍義輝は在任中にその職務を怠り天皇の信頼を失っていたのです。

 なぜ、義輝は改元の発議を怠ったのでしょうか?その答えは義輝が出費を惜しんだからです。改元は国家行事として多額の費用を必要としますが、その費用を負担するのは改元の発議者であると定められていました。すなわち、将軍義輝は改元に掛かる費用負担を避けるため改元の発議を行わなかったのです。改元費用だけではなく、将軍義輝は皇室の祝賀行事などの際に出す祝い金なども出し惜しみしていました。こうした義輝の態度が天皇との対立を生み出したのです。

 義輝自身が放浪の身であり足利将軍家の台所事情が苦しかったことは明白ですが、将軍としての責任を果たすための出費を怠るようでは、天皇や公家から支持を受けることはむずかしいでしょう。たとえ本人の財政事情が悪くとも、知恵をしぼり支持者を集めたりパトロンに頼ることでお金を工面することはできたはずです。義輝はそのような努力を怠ったようです。しかし、それは将軍義輝の立場をますます悪くするものでした。

 

天皇と三好氏の接近

 足利義輝が将軍在任中に二度の改元が行われましたが、その改元費用を負担したのは三好氏でした。将軍義輝を京から追放した三好長慶は摂津にある芥川山城を拠点として五畿内を支配していました。長慶は従四位下の官位を賜り足利家や細川家に引けを取らない地位を得ていました。天下の支配者となった三好長慶は、堺や兵庫津など港湾都市を支配し、交易で莫大な利益をあげている豪商を保護するこることで、自らの財政を豊かにしたのです。長慶にとっては、改元の費用を拠出することなど雑作もないことでした。それだけではなく、長慶は皇室の費用を賄う御料所の回復にも力を注ぎ正親町天皇から大きな信頼を得ていたのです。

 正親町天皇は、将軍としての責任を果たさない足利義輝を見限り、三好長慶に対して天皇を支持する武家の代表者としての認識を持つようになっていたと考えられます。その三好長慶の跡を継いだのは長慶の甥である三好義継でした。長慶には義興という嫡男がいましたが、永禄6年(1563年)義興は病に倒れ死去しました。

 義興に代る後継者として長慶が選んだのは甥の義継でした。一代で天下の支配権を手に入れた叔父の長慶とは異なり、三好義継は苦労知らずの二代目でした。三好家の家格は将軍家にひけをとるものではなく、左京太夫に任じられた義継は管領細川氏と同等の地位を得ており正親町天皇に拝謁する機会もあったのでしょう。そのおりに、正親町天皇は「三好頼りにしているぞ」とか「三好こそ武家の棟梁にふさわしい」などと義継にお世辞を言ったかもしれません。

 

◆三好義継の野心と誤算

 しかし、天皇と三好氏が接近し天皇から頼りにされたことで、義継の中に野心が生まれたのです。それは、義継が将軍の座に就くという野心でした。正親町天皇から信頼されていた義継にとって三好将軍の誕生は可能であったかもしれません。ただし、それを実現させるためには巨額のお金を使い長い時間をかけて裏工作や根回しを行うことが必要だったでしょう。このような困難な仕事を成し遂げることができたのは、豊臣秀吉くらいのものです。三好義継はその困難な手間を省き、義輝を亡き者にすれば将軍になれると考えたのです。

 義輝暗殺の1年前永禄7年(1564年)に三好長慶は死去します。長慶の死後、たがのはずれた義継の暴走は止まらなくなりました。義継は松永久通とともに義輝を襲撃し、将軍義輝を暗殺するという暴挙に出たのです。義継は長慶の後継者に選ばれた時から器量にすぐれていないとの評価をされていました。そのため、松永久秀三好三人衆三好長逸三好宗渭、岩松友通)が義継の後見についたのです。もともと器量のない苦労知らずの二代目が、天皇の甘言を真に受けて増長し引き起こしたのが将軍暗殺という前代未聞の事件だったのです。

 三好義継が引き起こした将軍暗殺は、誰からも支持されませんでした。これは、義継にとって大きな誤算であったと思います。諸国の戦国大名は三好氏を武家の棟梁として認めることはなかったのです。三好長慶が一代で築いた政権は、諸国の戦国大名から見れば、自分たちと同格の武将が成り上がっただけにしか見えませんでした。

 たとえ足利将軍家の権威が地に落ちていたとしても、足利氏の血は武士にとって源氏嫡流の血なのです。武士が自分たちの上に立つ権力者として認めるためには、源氏嫡流という遺伝子を持つ者か、あるいは、信長、秀吉、家康のように自分たちの力をはるかに凌駕する強大な力の持ち主でなければならなかったのでしょう。三好義継はそのどちらにも該当しなかったのです。

 ただ一人、正親町天皇だけは、三好義継を支持していました。天皇足利将軍家が代々受け継いできた将軍家の象徴とされる「御小袖の唐櫃」(御小袖という鎧を収めた唐櫃)を義継に下賜し、三好義継が将軍になることを容認したのです。しかし、三好氏の勢力は分裂し、三好三人衆が将軍の後継者として四国にいた足利義栄を担ぎ出す一方、松永久秀足利義昭を将軍後継者として担ぎ、両者は争いました。将軍を暗殺した三好義継は身内からも見放され将軍になることはできませんでした。

 

◆将軍足利義輝を死に追い込んだのは誰か

 将軍義輝の暗殺事件の謎を解くために、足利義輝正親町天皇、三好義継という3人の人物にスポットをあててきました。被害者である義輝は、剣豪将軍として知られ非業の死を遂げたというイメージがあります。たしかに、義輝は剣術使いとしては優れていたのかもしれませんが、剣の道を究めた人が有している論理的思考力に欠けており、自分の支持勢力を拡大するための緻密な戦略を展開することができませんでした。すなわち、足利義輝は将軍にふさわしい器量の持ち主ではなかったと考えらます。

 さらに、将軍義輝は改元問題で天皇と対立し、自分の立場を悪化させました。室町時代は、足利尊氏征夷大将軍となって室町幕府を開いたことから始まっているので、武家中心の時代と思いがちですが、室町時代南北朝の争乱という皇統をめぐる争いの起きた時代でもありました。最終的に勝利したのは北朝です。そして、尊氏を将軍として認めたのは北朝天皇なのです。つまり、正親町天皇の視点に立つと、足利将軍とは北朝という権威に支えられて存在していると考えることができるのです。したがって、足利将軍は常に北朝天皇の立場に配慮してその職務を全うすべきであり、その責任を怠った義輝は、正親町天皇にとって排除すべき存在であったのです。

 正親町天皇は義輝を見限り三好長慶を信頼しました。長慶は一代で天下人となり天皇を軍事力や経済力で支えることのできる頼もしい存在でした。しかし、長慶の死後その跡を継いだ義継は天下人としての器量に欠けていたのです。思慮に欠ける義継は、緻密な戦略を立てて将軍の座を手にいれるのではなく、暗殺という暴挙に出たのです。

 奇しくも、権力者の資質に欠けていた義輝と義継という二人の人物が権力闘争の場で出会い、そこに正親町天皇が加わったことで、将軍義輝暗殺という事件が起きたのだと私は考えます。そして、この事件が戦国時代をあらたなステージへ押し上げることになりました。

 義輝暗殺以前の戦国時代は、五畿内と地方それぞれの場所で、群雄が割拠し争いを展開していたのですが、義輝が暗殺された後の時代は、諸国の乱世を勝ち抜いてきた戦国の英雄たちが出そろい、将軍後継者を巡る争いに加わる機会ができたのです。言わば、戦国の英雄たちに天下人になれる可能性が生まれたわけです。

 

 将軍義輝を暗殺した張本人の三好義継は、この新たなステージの主役にはなれませんでした。義継は新時代の主役である織田信長の家臣となり河内半国を与えられ若江城を居城としていました。天正元年(1573年)三好義継は信長から追放された足利義昭を助けたために、信長の怒りを買いました。若江城は信長軍の攻撃を受けて落城し三好義継は自害して果てたということです。

 

今回参考にさせていただいた資料

 

室町幕府分裂と畿内近国の胎動 天野忠幸 吉川弘文館

陰謀の日本中世史 呉座勇一 角川新書

刀の日本史 加来耕三 講談社現代新書