歴史楽者のひとりごと

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太田道灌番外編3 道灌死後の関東

 文明十八年七月二十六日(1486年)太田道灌相模国糟屋にある扇谷館で暗殺されました。暗殺の首謀者である扇谷定正は、人望を失い扇谷家から離反する者も数多くいたそうです。
 関東管領山内上杉顕定の描いた謀略は見事に成功しました。顕定は自らの手を汚すことなく、扇谷定正をそそのかして太田道灌を排除し、扇谷家の勢力を弱めることができたのです。
 そこで、山内顕定は扇谷家を倒すべく一気に攻勢にでました。長亨二年(1488年)顕定は一千騎の軍勢を率いて、扇谷定正に攻撃を仕掛けたのです。これを皮切りに山内・扇谷両上杉の抗争が始まりました。この争いを長亨の乱と言います。
 劣勢に立たされた扇谷定正ですが、古河公方足利政氏足利成氏の嫡男)の支援を受け合戦では善戦したので、両上杉の抗争は長期に渡りました。
 しかし、明応三年十月(1494年)武蔵高見原の合戦の時、定正は落馬して急死しました。定正の死後、古河公方が山内家の味方に寝返り、扇谷家の勢いは弱まりました。
 永正二年(1505年)山内家優勢のうちに両上杉は和睦し、長亨の乱は終結しました。17年もの戦いで、山内・扇谷両上杉ともに疲弊し、その勢力は弱体化したのです。

 両上杉が関東で激しく争っている頃、隣国伊豆でも大事件がおきました。
 文明十四年(1482年)に室町幕府古河公方足利成氏の和睦が成立したとき、伊豆一国は堀越公方足利政知支配下に置かれました。足利政知は、延徳二年(1490年)に亡くなりました。長禄元年(1457年)関東に下向してきた政知ですが、さしたる事績を残すことはできませんでした。
 その後、堀越公方家の家督を継いだのは政知の嫡男足利茶々丸でした。茶々丸とは幼名ですが、元服した後の名前は伝わっていないのです。15歳で堀越公方になった茶々丸は、佞臣の告げ口を信じて、功臣の外山豊前守、秋山蔵人を惨殺しました。この事件で、伊豆国内が混乱します。
 その混乱に乗じた伊勢宗瑞(後の北条早雲)が、明応二年(1493年)に伊豆を急襲し堀越公方を滅ぼしました。
 伊豆国を奪取した伊勢宗瑞は、伊豆韮山を足がかりにして関東への進出をもくろむのです。宗瑞は今川家の一武将にすぎなかったのですが、大胆にも堀越公方を滅ぼし、伊豆一国を手に入れたのです。
 太田道灌にも宗瑞のような大胆さがあれば、必ず戦国大名になれたでしょう。しかし、道灌には、どこか杓子定規なところがありました。下剋上ではなく、きちんと手順を踏んで、扇谷上杉から独立し戦国大名になろうと考えていたのでしょうが、ことは道灌の思い通りには進みませんでした。
 しかし、道灌が清濁併せ呑むようなタイプの人物であれば、現在のように数多くの太田道灌ファンが生まれることはなかったのかもしれません。実に複雑です。

 話を元に戻しましょう。太田道灌の死後、関東の情勢は大きく変化しました。両上杉は長亨の乱によって弱体化しました。そこへ伊豆国を奪取した伊勢宗瑞が登場します。宗瑞は文亀元年(1501年)に小田原城を奪い、本格的に関東へ進出してきました。
 伊勢宗瑞は生涯をかけて相模の三浦氏と戦いついに相模国を平定しました。宗瑞の跡継いだ北条氏綱は、関東での勢力を拡大しました。氏綱の嫡子である北条氏康は天文十五年(1546年)河越夜戦で両上杉・古河公方連合軍を打ち破りました。
 関東古戦録が伝える河越夜戦では、北条氏康の軍勢八千に対して、上杉憲政・扇谷朝定の率いる軍勢は六万五千、それに古河公方足利晴氏の軍勢二万が加わりました。
 北条氏康は実に十倍以上の敵を相手にして、見事な戦略を練り勝利したのです。この戦い以降、上杉憲政の勢力は衰えました。
 天文二十年(1551年)北条氏康上杉憲政の居城である上野平井城を攻撃すると、上杉憲政は越後の長尾景虎を頼って逃げたのです。
 こうして、長尾景虎関東管領上杉の姓を受け継ぎ、関東へ侵攻するようになったのです。そして、関東の覇権を争う主役は、北条氏康上杉謙信武田信玄へと変わっていきました。

 足利晴氏は成氏の曾孫ですが、古河公方に往時の権勢はありません。やがて足利氏の子孫は没落していきますが、豊臣秀吉によって下野国喜連川に五千石の所領を与えられます。秀吉はかつての名門を庇護することを好みました。その後、足利氏は喜連川藩として明治まで存続したのです。
 太田道灌の子孫は、江戸城を居城にしていましたが、上杉、北条と常に大名の支配下にある一武将にすぎませんでした。やがて、徳川家康が江戸に入ると、徳川家の家臣になったということです。