歴史楽者のひとりごと

こんにちは、歴史を楽しむ者のブログです。

長篠の合戦とアジャンクールの戦い

 長篠の合戦と言えば、織田信長が馬防柵と大量の鉄砲を使用し武田勝頼の軍勢を破った戦いとして有名です。
 一方、アジャンクールの戦いとは、14世紀から15世紀にかけて起きた百年戦争の中でイギリス王ヘンリー5世が率いる7千の軍勢が2万のフランス軍に圧勝した戦いです。
 私は日本とヨーロッパで起きた二つの戦いにおいて、興味深い共通点があることに気がつきました。果たして、この共通点は単なる偶然なのか、それとも二つの戦いには何らかの繋がりがあるのでしょうか?
 今回はこの問題について考えてみたいと思います。

 まずは、長篠の合戦についておさらいします。
 天正三年三月(1575年)武田勝頼徳川家康の領国である三河に侵攻し、1万5千の軍勢で長篠城を包囲しました。城を守っていたのは、奥平貞昌が率いるわずか5百の軍勢です。これに家康の軍勢8千を加えても、とても太刀打ちできる相手ではありません。
 家康にとって長篠城は、東三河を防衛する要の城です。この城を敵の手に渡す訳にはいきません。絶体絶命の長篠城を救うため、家康は織田信長に援軍を要請しました。信長は3万の軍勢を率いて岐阜を発進し家康軍と合流しました。
 長篠城に近い設楽原に着陣した信長は、足軽に持たせてきた丸太を使って、連吾川の西岸に三重の馬防柵を設置し、その背後に鉄砲足軽隊を配置しました。信長は1千挺の鉄砲を用意し武田軍を待ち受けたのです。
 日本最強を誇る武田騎馬軍団を率いた武田勝頼は織田・徳川連合軍と雌雄を決すべく設楽原へ進出してきました。
 五月二十一日早朝、決戦の火ぶたは切られ武田の騎馬隊が織田・徳川連合軍の陣地へ突撃を開始しました。しかし、武田の騎馬隊は馬防柵に行く手を阻まれ前進できません。立ち往生している武田の騎馬隊に向けて、信長の鉄砲隊が銃撃を浴びせ次々に敵を倒しました。
 武田勝頼は繰り返し騎馬隊の突撃を命じますが、そのたびに馬防柵に阻まれた騎馬隊は銃撃を受け、死傷者の数を増やしていきます。午後になると、騎馬隊を指揮する山県昌景、内藤昌豐、馬場信春といった名だたる武将も死傷し、武田軍の攻撃に衰えが見えてきました。
 その機を逃さず、信長は主力部隊を投入し総攻撃に移りました。武田軍は織田・徳川連合軍の総攻撃を支えきれずに敗走し、大敗を喫したのです。
 
 アジャンクールの戦いとは、英国と仏国がフランスの王位継承を巡って争った百年戦争の中で起きた戦いです。
 1415年ノルマンディーへ侵攻したイギリス王ヘンリー5世ですが、侵攻は失敗し7千のイギリス軍は英国領カレーへ撤退を開始しました。
 フランス軍はイギリス軍を殲滅すべくアジャンクールに2万の大軍を配置し、ヘンリー5世の軍勢を待ち受けていました。イギリス軍の主力が長弓部隊であるのに対し、フランス軍の主力は重装備の騎馬部隊です。
 フランス軍待ち伏せ情報を得たヘンリー5世は、フランス軍が誇る重装騎馬部隊を撃破するため一計を案じました。
 ヘンリー5世は弓兵に両端の尖った杭を持たせ、アジャンクールの予定戦場地へ向かいました。ヘンリー5世はアジャンクールの狭隘な場所に陣地を構え、弓兵に持たせていた杭を地面に打ち込み、馬防柵をこしらえたのです。
 戦いが始まると、フランス軍の重装騎馬部隊はイギリス軍への突撃を試みますが、馬防柵に阻まれ前進できません。そこへイギリス軍の長弓部隊が、雨あられのように大量の矢を放ちました。騎馬部隊の先頭は引き返そうとしますが、後方の騎馬部隊は前進しようと押し込んでくるので、フランス軍の騎馬部隊は大混乱に陥ったのです。ちょうどそのころ、アジャンクール一帯は長雨に見舞われており、地面はぬかるんでいました。それが、フランス騎馬部隊の進退を一層困難にしました。
 そのためフランス軍はイギリス軍の弓兵が放つ大量の矢の餌食になりました。矢はまさに雨あられのように、フランス軍のうえに降り注いだのです。そして、最期はイギリス軍の総攻撃を受けてフランス軍は大敗したのです。

 二つの戦いの説明を読んで、皆さんも共通点に気づいたと思います。
 共通点
 ①敵は強力な騎馬部隊
 ②馬防柵で騎馬部隊の突撃を防ぐ
 ③馬防柵の材料は兵士に持たせた丸太・杭
 ④立ち往生する敵を飛道具(鉄砲・弓)
  で倒す
 ⑤結果的に大勝した
 
 長篠の合戦アジャンクールの戦いにおいて織田信長とヘンリー5世に共通しているのは、どちらも敵の主力部隊は強力な騎馬隊であることです。この騎馬隊の攻撃力をいかにして防ぐのかということが、作戦のポイントになりそうです。
 洋の東西を問わず、一定の条件がそろえば戦争の天才が考える作戦は、ある方向に収斂され同じような作戦になるのでしょう。このように考えるのが最も合理的だと思います。
 しかしながら、歴史を楽しむ者としては、他の可能性を検討したいと思います。

 アジャンクールの戦いが起きたのは1415年です。一方、長篠の合戦が起きたのは西暦で言うと1575年です。時系列ではアジャンクールの戦い長篠の合戦よりも160年早く起きているのです。
 ということは、「信長はアジャンクールの戦いを参考にして、長篠の合戦における作戦を考えついた」という仮説が成り立つのです。
 果たして、信長はアジャンクールの戦いを知っていたのでしょうか?
 実は、その可能性があるのです。戦国時代には、キリスト教の宣教師が数多く来日しました。そのなかでも、ルイス・フロイスやオルガンティノは信長の時代に来日しています。フロイスが来日したのは1563年、オルガンティノが来日したのは1570年です。
 二人とも長篠の合戦が起きる以前に、何度も信長と接見しているのです。特に、フロイスは1569年に京都と岐阜城で信長と対面し厚遇を受けています。その時、好奇心旺盛な信長は、フロイスに西洋についての様々な質問をしています。その中で、西洋の戦争について質問したかもしれません。そして、アジャンクールの戦いは、イギリス軍が自軍の3倍のフランス軍に圧勝した戦いとして、ヨーロッパの戦史に残る戦いなのです。
 つまり、信長がフロイスやオルガンティノからアジャンクールの戦いについての知識を得た可能性は充分あるのです。
 私は、アジャンクールの戦いの話を聞いた信長が、馬防柵と鉄砲を組み合わせた攻撃の着想を得て、長篠の合戦にのぞんだのではないかと思うのですが、皆さんはどう思われますか。

引き続き、「長篠の合戦に見る孫子の兵法」もご覧下さい。
 
 今回の参考文献
 新世界史   山川出版社
 詳説日本史  山川出版社
 新詳日本史  浜島書店
 新説戦乱の日本史(長篠の戦い小学館
 Wikipediaアジャンクールの戦い