歴史楽者のひとりごと

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長篠の合戦に見る孫子の兵法

 前回は、長篠の合戦アジャンクールの戦いについて考えました。16世紀に日本で起きた戦いと、15世紀にヨーロッパで起きた戦いには、興味深い共通点がありました。
 その共通点から、織田信長長篠の合戦で用いた馬防柵と鉄砲攻撃は、アジャンクールの戦いに着想を得て考えついた作戦だったのではないか、という可能性が出てきました。
 ただし、信長はアジャンクールの戦いを単純に模倣したのではありません。信長は非常に用心深い性格の武将です。そのため、いざ軍事行動を起こすときには、緻密な作戦を立案し遂行しています。その作戦の根底にある思想は、孫子の兵法であると私は考えます。
 長篠の合戦においても、信長は戦う前から様々な作戦を繰り出しています。その作戦はことごとく孫子の兵法に通じるものがあるのです。
 たとえば、長篠へ進軍する途中で、信長は細作を使って次のような偽の情報を武田方へ流しました。
 「信長の軍勢は、武田軍を非常に恐れている。だから、今回は馬防柵を設置して、その後ろに隠れて戦うつもりである。もし、武田軍が攻め込んできたら、すぐに逃げ出すだろう」
 この偽情報を武田軍は信じ込みました。それには伏線があるのです。長篠の合戦の二年前、元亀三年(1573年)の三方ヶ原の合戦のとき、武田信玄の軍勢に恐れをなした織田の軍勢は、戦うことなく逃げ出しています。
 武田軍にはその時の経験があったので、信長の軍勢は、今回も弱腰ですぐに逃げ出すだろうという油断が生じたのです。
 孫子の兵法では「兵とは詭道なり」と説いています。つまり、戦争とは敵を欺くものであるということです。強い軍隊を弱く見せ、勇敢な兵士を臆病に見せる。そうすることで敵を油断させ敵の裏をかけば、勝利はたやすく手に入れられるという訳です。
 信長の流した偽情報は、まさに「兵とは詭道なり」を実践しているのです。
 さらに、信長はこの偽情報を流すことで、武田軍を油断させただけではなく、設楽原へ誘い出すことに成功したのです。
 長篠の合戦で、信長が最も懸念していたのは、武田軍が長篠城の包囲を解かず、守りを固めて長期戦に持ち込まれることでした。このとき信長は、大坂で本願寺とも戦っており長篠に長期間軍勢を留めることはできなかったのです。
 ところが、武田軍はまんまと信長の流した偽情報を鵜呑みにし、相手を舐めて、設楽原へ誘い出されたのです。この時点で既に、武田軍は信長の作戦にはめられているのです。
 このほかにも、信長は武田軍の後方を攪乱するため、鳶ヶ巣山にある武田軍の砦を別働隊に奇襲させています。信長は奇襲が敵方にばれないように、軍議の席では奇襲攻撃の策を否定し、後で密かに別働隊を組織する用心深さでした。「兵とは詭道なり」敵の不意を突くことが重要なのです。
 一方、武田勝頼の戦法はどうでしょうか?武田軍が信玄公の軍法を守り「風林火山」の旗を掲げているのは、ご存知の通りです。
 しかし、孫子の兵法を尊ぶという伝統は守られていても、長篠の合戦において武田軍は騎馬隊による攻撃に終始し、信長が用意した馬防柵を打ち破るために臨機応変の戦いを仕掛けることができませんでした。
 特定の戦法にこだわらず、敵の状況や戦場の地形、天候などによって変幻自在の戦法を繰り出すことが勝利につながると孫子の兵法は説いているのですが、その戦い方を実践しているのは「風林火山」の旗を掲げた武田軍ではなく、信長でした。
 長篠の合戦に関する限り、信長は馬防柵と鉄砲攻撃という新戦法をあみだし、武田騎馬隊を倒すための準備を十分にして戦いに臨んでいます。これに対し、武田勝頼はさしたる工夫もせず、いつもと同じ戦法で合戦に臨みました。
 「勝兵は勝ちてしかる後に戦いを求め、敗兵は戦いて後に勝ちを求む」と孫子は説いていますが、まさに長篠の合戦は、戦う前に勝敗が決していたのかもしれません。
 

 今回参考にした文献
 新訂 孫子 金谷治 訳    岩波文庫
 新説戦乱の日本史(長篠の戦い) 小学館