歴史楽者のひとりごと

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太田道灌番外編2 和歌で城を取り返した武将

 亨徳三年十二月(1454年)鎌倉公方足利成氏は、関東管領上杉憲忠を謀殺しました。これより、関東全域を巻き込んだ大戦乱である亨徳の乱が始まります。
 亨徳の乱は太田道灌の活躍で終結しますが、およそ30年に渡る戦乱の中では、太田道灌の他にも様々な武将が活躍しました。その武将の中で今回取り上げるのは、東常縁(とう つねより)です。この東常縁は「和歌で城を取り返した武将」なのです。いったいどういうことなのでしょうか?
 東常縁は美濃国郡上に城を持つ武将でした。和歌の才能に優れた東常縁は、室町将軍足利義政の近臣として京都に出仕していました。その東常縁が何故関東へ下向し、亨徳の乱に関わったのか、まずはその経緯からお話ししていきましょう。
 亨徳の乱が勃発すると、下総の千葉氏一族は、古河公方派と関東管領派に分かれて激しく争い始めました。その争いの中で、千葉氏の分家である馬加陸奥守(まくわりむつのかみ)は、古河公方の支援を受け、千葉氏本家を倒し乗っ取ってしまったのです。
 千葉氏本家の祖である千葉常胤は、治承四年(1180年)源頼朝が伊豆で蜂起し、石橋山の戦いに敗れた後、房総半島へ船で逃れてきたときに、真っ先に手を差し伸べた武将です。千葉常胤は頼朝の協力者として粉骨砕身の働きをし、源平合戦の勝利に大きく貢献しました。以来、千葉氏は源頼朝に忠節を尽くした名族として、関東に確固たる地位を築いてきたのです。
 その名族である千葉氏本家が倒されたことは、室町幕府に衝撃を与えました。幕府は千葉氏本家を再興させるため、武将を派遣することにしました。その時、白羽の矢が立ったのが東常縁でした。
 東常縁は千葉常胤の血を引く武将で、下総国東の庄に所領がありました。そこで、関東へ下向し、馬加陸奥守の討伐を命じられたのです。
 東常縁は和歌の名人でしたが、武将としての才能も優れていました。関東へ下向した東常縁は下総の一族や国人をを率いて、馬加陸奥守の軍勢を打ち破ることに成功したのです。
 ところが、東常縁が関東で馬加陸奥守と戦っているころ、京都では応仁の乱が起こりました。応仁二年(1468年)東常縁の本拠地である美濃国郡上城は山名方に攻められ、斉藤持是に城を奪われてしまったのです。
 この知らせを聞いた東常縁は、関東で戦っている間に、留守にしていた先祖代々の城を奪われたことを無念に思い、和歌を詠んだのです。
 「あるかうちに かかる世をしもみたり 剣人の昔の 猶も恋しき」
 東常縁と共に関東へ下向していた浜式部少輔は、この和歌を聞いて哀れに思ったので、京都の兄へ手紙を出すときに、この和歌を添えました。
 京都では、この和歌が評判になり、あの斉藤持是にも伝わったのです。斉藤持是もこの和歌を知って、いたたまれなくなったのでしょうか、東常縁に城を返したのです。その後二人の武将の間では、和歌のやり取りがあったということです。

 「武士はなぜ歌を詠むのか」という本の中で著者の小川剛生さんは次のように書かれています。『近年、日本史学では「武士」像の見直しが進んでいる。「武士」とは単に殺人や戦闘の術を専らにした武装集団の謂いではなく、騎射の藝に代表される「武藝」を伝える者であるという。そして「武藝」は宮廷文化に属する芸能の一つであり、西国に滅んだ平家武者こそ実は「武士」の名にふさわしい。頼朝はこの頃しきりに京都の文物を取り入れているが、それは粗暴な東国の領主たちを教育し「武士」へ引き上げる必要に迫られていたためである』
 すなわち『武士にとって、和歌を詠むことは洗練された文化的な振る舞いを身につけることであった。』のであり、鎌倉・室町期の武士にとって和歌の才能は身を立てるための、重要なアイテムのひとつだったのです。 
 それにしても、和歌で城を取り返せるとは、なんとも優雅な話です。現代の日本人にとっては理解し難いことですが、その中には、私たちが失ってしまった日本の大切な心があるような気がします。
 グローバル化が進む現代において、古い日本の伝統文化の中に留まることは困難なことかもしれませんが、温故知新という言葉があるように、日本の伝統文化の中にも、混迷の時代を切り開くヒントがあるのかもしれません。
 歴史を学ぶということは、過去の事象に光を当てて、未来を創造するための知恵を得ることなのです。