歴史楽者のひとりごと

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太田道灌番外編1 江戸城はパワースポットで守れ

 太田道灌は、徳川家康江戸幕府を開くよりも百五十年も前に、江戸城を築いた武将です。前回までは、道灌が何故江戸城を築いたのか、その背景を知るために道灌の生涯を追ってきました。
 その説明の中では、歴史の流れに沿って主だった出来事を取り上げてきましたが、その周辺には興味深い逸話がたくさんあります。今回からは、番外編として逸話の幾つかを紹介したいと思います。
 まず、第一回目は、太田道灌が数多くのパワースポットを江戸城の内外に配置していたというお話です。いったいどういうことでしょうか。
 本編でも説明しましたが、道灌が築いた江戸城は日比谷入江に突き出た高さ30メートルの台地の上にありました。城は三つの曲輪に分かれており、それぞれの曲輪は飛橋でつながっていましたが、いざという時に、橋は落とせるようになっていました。城門は鉄板を取り付けた頑丈なもので、周囲には石垣が築かれていました。
 すなわち、道灌が築いた江戸城は、台地という要害の地にあり、強固な防御施設を備えた難攻不落の城でした。その堅牢な備えに加えて、道灌は江戸城内外にパワースポットを配置し城の守りを固めていたのです。
 永亨記によれば、道灌は文明十年(1478年)に仙波山王、三芳天神、津久戸明神、牛頭天王、須崎大明神など沢山の神社を江戸城内外に建立しています。
 しかし、ここに一つの疑問が生じます。道灌が江戸城を築城したのは長禄元年(1457年)のことです。何故それから21年後になって、突然まるで何かに憑かれたかのように、短期間に数多くの神社を建立したのでしょうか?
 それには、何か深い理由があると思います。今回は、その理由を探りたいと思います。
 まず、道灌が建立した神社に注目してみましょう。特に注目したいのは、津久戸明神と三芳天神です。
 津久戸明神の御由緒によると、天慶三年(940年)に京都で獄門にさらされた平将門公の首を首桶に入れて密かに持ち去り、これを武蔵国豊島郡平河村津久戸の観音堂に祀って、津久戸明神と称したのが始まりだということです。文明十年六月、道灌は江戸城の乾(北西)に津久戸明神を建立し日本三大怨霊の一人である平将門公を守護神として祀ったのです。津久戸明神は、現在では筑土神社と名称を変えて九段下にあります。
 一方、三芳天神に祀られているのは菅原道真公です。現在は学問の神様として親しまれていますが、道真公もまた日本三大怨霊のうちのお一人です。ちなみに、あともうひとかたは崇徳上皇です。
 三芳天神は、現在では平河天満宮と名称を変えて、皇居半蔵門のそばにありますが、道灌が建立したのは江戸城内でした。道灌は道真公にちなんで、三芳天神の周辺に沢山の梅の木を植えたそうです。ところが、徳川家康江戸城を築城するときに城の領域を拡張したので、三芳天神は平川門外に移され、さらに、徳川秀忠の時代に現在の平河天満宮の場所に移りました。今では、皇居東御苑の梅林坂という地名に、三芳天神の痕跡が残っているのみです。
 平河天満宮の御由緒によると、文明十年のある日、道灌が菅原道真公の夢を見たそうです。夢を見た翌朝、道真公直筆の画像を贈られた道灌は、その夢を霊夢だと思い天満宮を建立したと記されています。
 三芳天神があった梅林坂は江戸城の東北すなわち「うしとら」の方角です。道灌は江戸城の鬼門に菅原道真公を祀りました。
 文明十年、太田道灌江戸城の要所要所に怨霊のパワーを持つ強力な守護神を配置しました。いったい道灌は何を恐れていたのでしょうか?
 そのころの状況を振り返ってみましょう。文明十年正月には、古河公方関東管領の間で和議が成立していました。道灌は軍勢を率いて、和議に応じない長尾景春の掃討戦を行っていた頃です。戦乱の趨勢は道灌に傾いている頃ですから、とくに恐れるものはないでしょう。
 そこで、私が注目したいのは文明九年(1477年)のある事件です。それは、豊島泰経を倒した時におこりました。道灌は江古田・沼袋の合戦で豊島勢を破り、その後、豊島泰経が逃げ込んだ石神井城を破壊しました。
 城が破壊される時、思わぬ悲劇が起きました。豊島泰経の妹照姫が逃げ遅れたのです。敵に辱めを受けることを拒んだ照姫は、城に面した三宝寺池に入水し命を絶ったのです。
 この事件が、道灌の心を悩ませていたのではないでしょうか。それだけではなく、長い戦乱の中で多くの人の命を奪ってきたことが道灌を苦しめていたのかもしれません。
 恐らく、道灌は照姫や命を奪われた武将たちの亡霊に悩まされていたのでしょう。そのため、平将門公や菅原道真公などの怨霊のパワーに頼って、亡霊を追い払っていたのではないでしょうか。

 平将門公は怨霊から転じて江戸の守護神となりました。現在でも大手町の一角には、将門塚があり、地元の人々によって大切に祀られています。そこに設置されている案内板には、将門公の首塚に関する大変興味深い話が記されていますので、以下に引用させて頂きます。

 「天慶の乱に敗れた将門の首級は京都に送られ獄門に架けられたが、三日後に白光を放って東方に飛去り武蔵国豊島郡芝崎村に落ちた。大地は鳴動し太陽も光を失って暗夜のようになったという。村人は恐怖して塚を築いて埋葬した。これ即ちこの場所であり将門の首塚と伝えられている。
 その後もしばしば、将門の怨霊が祟りをなすため徳治二年(1307年)時宗二祖教真上人は、将門に蓮阿弥陀佛という法号を追贈し塚前に板石卒塔婆を建て日輪寺に供養し、さらに傍の神田明神に合わせ祀ったので、漸く将門の霊魂も鎮まり、この地の守護神になった。」

 太田道灌をはじめ、北条氏康徳川家康
江戸の守護神として平将門公の祀られた神田明神を大切に崇めたそうです。元和二年(1616年神田明神は現在の場所に移されました。これ以降、神田明神は江戸総鎮守として、江戸庶民にも崇められるようになったということです。

 ところで、将門公の首が江戸にもたらされた経緯について、津久戸明神に伝わる話と、将門塚に伝わる話では、全く違っていますね。これは、大変興味深いことだと思います。
 私の考えでは、津久戸明神に伝わる話が真実に近い話だと思います。恐らく、将門公に非常に近い味方の人々が、京都から将門公の首を密かに盗んできたのだと思います。
 一方、首を盗まれた朝廷からすれば、将門公の首を盗まれたことは大失態であり、朝廷の権威を落とすことになるので、公にはできないでしょう。
 そこで、朝廷は首が勝手に飛去って行ったという話を、でっちあげたのではないでしょうか。いつの時代も、権力者は自分の失敗を隠し、都合の良い言い訳をするものです。
 将門公の首が飛去ったという話が江戸に伝わった時点で、将門公を支持する人々は安心して首塚を築き、将門公を供養することができたのです。もはや、将門公は恐ろしい怨霊になってしまいました。朝廷は自らがついた嘘に従わざるを得なくなり、将門公の首に手出し出来なっかたでしょう。