歴史楽者のひとりごと

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足利持氏の反乱(永亨の乱)

 正長二年(1429年)足利義教が六代室町将軍に就任しました。将軍になるという足利持氏の野望はついえたのです。しかし、室町幕府から徹底的に無視された持氏の怒りは収まるはずがありません。次第に持氏は室町幕府に敵対するようになってきました。
 持氏の暴発をなんとかくい止めているのが関東管領の上杉憲実でした。憲実は持氏が何か事を起こそうとするたびに諫言してきたのです。憲実の行動は鎌倉府を守るためのものでしたが、皮肉なことに、その行動が持氏の怒りをかうようになってしまったのです。
 持氏にとって憲実は疎ましい存在でした。「俺が何かをしようとすると、ふたこと目には京都の意向が、と言って反対する。そもそも俺が将軍になれなかったのは、あいつのせいではないのか」心の中で持氏は憲実のことをこう思っていたでしょう。徐々に持氏の敵意は憲実に向けられていったのです。いずれ憲実は持氏に討たれるであろうという空気が鎌倉府の中に醸成されていきました。
 永亨十年(1438年)、身の危険を感じた憲実は鎌倉を脱出し領国である上野国に逃れました。これを察知した持氏は憲実を討つため軍勢を上野国へ出撃させました。世に言う「永亨の乱」の始まりです。
 室町幕府は持氏の軍事行動を謀反とみなしました。なぜなら関東管領を任命するのは室町幕府です。つまり憲実は幕府から派遣された役人のようなものです。その幕府方の憲実を攻撃することは、幕府に対する反逆でした。
 六代将軍足利義教にとって、持氏の謀反は好機到来でした。「くじ引き将軍」と揶揄されていた義教は、将軍として自分の力を世に示す機会を狙っていました。しかも、相手は足利持氏です。持氏は、義教が将軍に就いて以来、何かと反発してきました。義教は常々生意気な持氏を成敗してやろうと手ぐすね引いて待ちかまえていたのです。
 持氏謀反の知らせを聞いた義教はすぐさま動きます。後花園天皇から持氏追討の綸旨を得た義教は、軍勢を関東に向かわせました。幕府の大軍が関東に押し寄せると、持氏の味方のなかに動揺する武将があらわれました。
 彼らは朝敵とみなされることを恐れたのでしょう。持氏の軍勢からは幕府方へ寝返るものが続出し、持氏は進退きわまりました。敗北した持氏は鎌倉へ連行され軟禁されてしまったのです。
 室町幕府の中には、持氏の助命を考える者もいましたが、義教は持氏を断固許さず、憲実に殺害を命じました。さすがに、自ら手を下すことを恐れた憲実は千葉胤直らを派遣して持氏に自害を強要させたのです。永亨十一年(1439年)四代鎌倉公方足利持氏は自害し果てました。