歴史楽者のひとりごと

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鎌倉公方の不在

 前回までは、永亨の乱と結城合戦について話してきました。やや長い説明になりましたが、亨徳の乱を理解するためには省略することのできない出来事でした。
 結城合戦の後、関東では鎌倉公方が不在になりました。そのため、関東には不穏な空気が漂います。坂東武者にとって、源氏の棟梁は必要不可欠な存在なのです。源氏の棟梁から所領安堵を受けないことには安心できないのでしょう。
 また鎌倉公方が不在である間は、関東管領が代行して政務を執っていましたが、その政治に不満を持つ坂東武者は数多くいたはずです。彼らの気持ちは「何故我らが京都の回し者の下知に従わねばならぬのか」というものだったでしょう。
 さらに、結城合戦では多くの武将が討ち死にしました。敗れた持氏派の残党は、そのことで一層関東管領を憎んだと思われます。このように、鎌倉公方の不在が原因で坂東武者の不満が高まり、関東は非常に不安定な状況であったのです。
 そのため、越後守護の上杉房定や関東の主立った武将によって、鎌倉公方を復活させる嘆願運動が起きたのです。彼らの望みは持氏の息子の生き残りである万寿王丸を主君として鎌倉に迎えることでした。
 万寿王丸は永亨の乱の折りに、信濃国の大井持光のもとに逃れ、大切に育てられていました。これを知った関東の武将たちは室町幕府の有力者に、何年もの間多額の賄賂を送り鎌倉公方復活の嘆願を続けたのです。
 文安四年(1447年)万寿王丸はついに室町幕府より許されて鎌倉公方に就任することが決まりました。宝徳元年(1449年)に元服し、八代将軍足利義成(後に義政に改名)の一字を頂き成氏と名を改め、意気揚々と鎌倉に入ったのです。
 しかし、五代鎌倉公方足利成氏の登場は関東の大乱「亨徳の乱」を呼び起こすことになりました。亨徳三年(1454年)に始まった乱は実に30年以上続きます。この戦乱の中で関東の武将は次第に戦国大名へと変貌していくのです。
 亨徳の乱が始まったことで室町幕府が関東に定めた秩序は崩壊しました。なにしろ秩序を守るべき鎌倉府のナンバー1とナンバー2が関東中を巻き込んで争っているのです。
 もはや所領を守るシステムは有りません。武将は自分の所領を実力で守るしかなくなりました。そのためには経済力を上げ武力を増強するしかないのです。所領内に独自の掟を定めて秩序を安定させることも必要でしょう。弱者は強者に従うか、滅びるか二者択一を迫られるのです。
 その意味では亨徳の乱は関東が戦国時代へ移行する期間であったと言えるのかもしれません。