歴史楽者のひとりごと

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鎌倉公方家の悲劇(結城合戦)

 永亨の乱は足利持氏の自害で終わりました。しかし、持氏の子供たちにはさらなる悲劇が待っていたのです。持氏の嫡男義久は持氏と時を同じくして自害していましたが、窮地を脱した子供たちがいたのです。春王丸と安王丸の兄弟は常陸国へ逃れました。また後に五代鎌倉公方となる万寿王丸は信濃国の大井氏のもとへ匿われました。
 常陸国に逃れていた春王丸、安王丸のもとには永亨の乱に敗れた持氏派の残党が集まっていました。永亨十二年(1440年)彼らは春王丸と安王丸を担ぎ出して結城城に籠城し、室町幕府に反旗を翻しました。世に言う結城合戦です。
 室町幕府は直ちにこの反乱に対応し、討伐軍を結城城に向かわせました。討伐軍の大将は上杉清方です。この頃、上杉憲実は乱れた世を疎んで伊豆に引き籠もっていました。憲実に替わって鎌倉府の政務を執っていたのが弟の清方です。清方は越後上杉家にいたのですが、関東に呼ばれ山内上杉家督を継ぎ関東管領職を代行していたのです。
 上杉清方は総勢数万という軍勢を率いて結城城を囲みました。しかし、結城城は容易には落城しませんでした。結城城は要害の地に築かれた難攻不落の城でした。城内には兵糧も豊富備蓄されており、籠城した軍勢は戦意旺盛でした。
 一方の討伐軍は、大軍ではあるものの戦意は乏しかったと思われます。何故なら、結城城に籠もっている軍勢は、先の永亨の乱で敗れ領地を失った者の集まりです。討伐軍がこの戦で勝っても新たな領地が増える訳ではないのです。必然的に討伐軍の攻撃は精彩を欠いたものとなりました。
 そのため、城攻めは数ヶ月に及びましたが、なかなか落城しませんでした。討伐軍の不甲斐ない戦い方に業を煮やした清方は、全軍に向けて檄を飛ばします。「鎌倉大草紙」が伝えるところでは「日本半国が向かって一城を攻めかねて当地にて数ヶ月合戦に及び、いたずらに里民を煩わす事は不本意である。また室町将軍も定めて遺憾なことであろう。そして我々にとっては末代までの恥である」
 この清方の檄に奮起した討伐軍は総攻撃を仕掛けました。城方は城門を開き打って出ました。これまで手ぬるい攻撃を繰り返きた討伐軍も今度ばかりは必死です。両軍が死力を尽くして戦ううちに、数に勝る討伐軍が優勢になり、城方を城内に押し込みました。そして、討伐軍の放った火が城へ燃え移ったのです。。折からの強風にあおられ火は勢いよく燃え広がりました。城に押し込まれた軍勢は火と煙に追われ逃げ出しましたが、その先は川でした。籠城勢の多くは、その川に追い込まれ溺死したのです。
 こうして結城城に籠もった反乱軍は敗れました。春王丸と安王丸の兄弟は捕らわれて京都へ連行されていたのですが、その途中、美濃国で殺されてしまいました。二人ともまだ12歳~14歳の少年でした。結城合戦は幼い兄弟の死という悲劇で終わりました。そして、この戦が鎌倉公方に味方したものと、関東管領に味方したものの間に深い遺恨を残したのです。
 結城城の落城は嘉吉元年(1441年)のことでした。同じ年に起きた嘉吉の乱で、室町将軍足利義教は赤松満佑に謀殺されました。

 余談ですが、足利義教織田信長には共通点があります。どちらも強権的なリーダーでした。どちらも絶頂期に富士山を遊覧しています。どちらも比叡山延暦寺を焼き討ちにしました。そして最期は謀反によって滅んだのです。
 なにも信長が義教を模範とした訳ではないと思いますが、滅び行く運命の人は同じような道を辿るのかもしれません。世のリーダーの方々、くれぐれもご用心を。